- 2006-07-01 (土) 0:00
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たまったPETボトルをリサイクルしに、代沢十字路のサミットまで歩く。坂の途中、ペット用品店を横切る。そう、ペットというのは犬猫のことで、いま僕が袋詰めにして持っているコーラやら烏龍茶やらの空き容器は「ピー・イー・ティ・ボトル」のはずだ。ポリエチレンテレフタレート。
村上春樹も同じようなことを思ったらしく、たしか『やがて哀しき日本語』で、「JALは『ジャル』じゃなくて『ジェイ・エイ・エル』と呼ぶべきだ」ということを言っていた。僕も全く同感で、その気持ちはいまも変わらない。Japan AirLinesの頭文字で「JAL」ならば、JとAとLは独立していて、安易に混同するべきじゃない。「ジェイ・エイ・エル」は略語の礎となった正式名称に対して表されるべき敬意の発露で、それは故人を偲ぶ追悼の念にも似た敬虔な気持ちからくるのだ。
ところが、村上も僕も、他ならぬ日航に裏切られる。同社が発売するパッケージ旅行はあろうことか「ジャルパック」を名乗り、JAL自らが「ジャル」たることを認めてしまう。辞書を片手に一生懸命「渡邉様」ないし「齋藤様」と宛名書きしたのに、その返信の差出人が「渡辺」あるいは「斉藤」と書かれていたら悲しいじゃないか。僕ら(と言おう)が感じるのはまさに同種の落胆であって、その落胆を心に刻めば刻むほど、全日空が輝く。
全日空は機内放送でも予約センターでも「エイ・エヌ・エイ」と名乗って、絶対に「アナ」なんて言わない。そこには、オール・ニッポン・エアウェイズすなわち全日本空輸としての誇りが感じられるし、略称ながらも出自を明かす武士の気骨さえ滲む。AとNとAが、それぞれ独立した意味を背負っていることを肝に銘じていたら、僕らはそれを「アナ」なんて呼べるハズないんだよ。
ところが、これを突き詰めると「ユネスコ問題」と(いま僕によって)名づけられる困った問題に突き当たる。国連教育科学文化機関(UNESCO)は「ユネスコ」と呼ばれてあまねく世界に親しまれているワケで、その現実を無視してそれを「ユー・エヌ・イー(以下略)」と呼んで、誰とも話が通じぬまま独善の満足に浸るとしたら、それは当の国連教育科学文化機関憲章の最高にクールな前文の精神を全く汲み取ってないことになる。
戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。
ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。
文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。
ここにきて、僕らは果たして「ジャル」を責められるのか?という反省を迫られることになる。「ユネスコ」を認めれば「ジャル」を認めざるを得ない。かと言ってそれは、必ずしも世界保健機関(WHO)に「フー」であることを要求するかのような極論は促さず、まぁ一般的なほうを使えばいいんじゃない、っていう大人な判断に落ち着くことになる。
僕はいまでも「ジェイ・エイ・エル」が正しいと思うけれども、それは相対的な価値観であることを認めざるを得なくて、もうJALは自分でも「ジャル」だし世間的にもそれでファイナル・アンサーだから、否定するのはよす。でも、「エイ・エヌ・エイ」はまだ頑張っていて正念場だから心から応援するし、そのことが、JALが「ジェイ・エイ・エル」に戻って/変わっていくことの援護射撃になってくれたらいいなとも思う。
民主主義ってこういうことなのかも知れないと、と久しぶりにユネスコ憲章を読んで思う。UNESCOはやっぱりユネスコでいいし、ユネスコ憲章の前文はやっぱりいい。PETボトルは、ペットでもピー・イー・ティでもいいけど、リサイクルしたほうが絶対にいい。
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