- 2006-07-02 (日) 0:00
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オンデマンドTVでアニメ『フラッグ』の第1話と第2話を観る。
カメラマンが主人公で、いかにもチベットな国の紛争を描く。まるで『HALO』とか『DOOM』みたいなゲームの画面にも似た、ファインダー目線の多用は慣れないとちょっと疲れるんだけど、これがこの作品の決定的な特徴なんだよね。
ピントやカメラワークの考え方を取り入れたアニメはもう珍しくないけれど、『FLAG』の徹底ぶりは飛び抜けていると思う。そのこだわりは、たとえば、ファインダー内の絞りの数値を被写体に連動させる、という域にまで達してしまう。サイバーっぽい感じの演出のために細かな数字を描きこむのは常套手段かもしれないけど、たいていはいい加減な数字の羅列だ。数字がピコピコ動いてたら、まぁそれでオーケーって感じに。
アニメでそういうピコピコした数字に本気で意味を与えたのは『ゴースト・イン・ザ・シェル』だったと思うけど、カットは限定的だった。『フラッグ』はそれを作品全体を通じてやっちゃうんだから、呆れるほどのこだわりだ。呆れるほどのこだわりといえば、偵察機からの中継画面が乱れるときに、その映像に附随する位置情報とかは乱れないっていう偏執っぷりにも度肝を抜かれる。それらの情報は受信側で付加されてるから、影響がないんだろうね。いやはや。
主人公が覗くファインダーの景色を僕らも見るわけだから、それは一人称の視線ってことになる。それは、まさに僕を一時期中毒にした『HALO』の視線なんだけど、『フラッグ』では主人公がテーブルにおいたカメラの映像を写したりもする。テーブルに置く程度だから、そんな「引き」にはならないんだけど、こうなってはじめて、ようやく僕らは語部という三人称の視座を得ることができる。普段は登場人物たちが画面に収まってて、例外的にかれらの目線が語られる、っていう僕らの慣れ親しんだ文法を完全にひっくり返しちゃってるんだよね。
で、こういうギミックが単にギミックに終わっていないのは、それらが「映像の主観性と客観性」についての注意を喚起するための有効な手段だからだ。映像が一義的には主観的なもので、ゆえに事実を把握するためにはそれらを統合して判断せよ、って面倒くさい課題を『フラッグ』は視聴者に課す。紛争地域で何が起こっているか?ってのはもとより、登場人物がどこに立っているのか?ってことすら、僕らはカメラが移動しないと理解できない。
一人称と三人称の間を行き来する有体の「カメラ」を通じてのみ、ようやく全貌が分かるって構図。この構図が移しているのは、実は、茶の間のテレビでなんとか世界を知ろうとする僕らの姿そのものなんじゃないか。
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