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ある兵士の祈り

 1年間家をシェアしていたルームメイトが土曜日に引っ越して行った。昼下がり、部屋に風を入れようとドアを開けたら、日に焼けた一枚の感熱紙が壁に張ってあって、そこに書いてある詩に目を奪われた。

「ある兵士の祈り」

偉大なことをするために健康を願った

すると、よりよきことをするために病を与えられた

幸福になろうとして富を願ったけれども

聡明になるように貧困を与えられた

人の賞賛を得ようとして力を願ったが

人間にとって神が必要であることを感じるために弱点を与えられた

生活を楽しもうとしてすべてのものを願ったが

願ったものは何も与えられなかった

しかし望んだものは

すべて与えられた

私の願いにかかわりなく

神はことばにならなかった祈りをきき給うた

だから多くの人よりも

私は豊かに祝福された

 そしてその夕方、僕は、これがニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に患者が刻んだ詩だと知る。なるほど。それはもちろんいい逸話なんだけど、この言葉はそういう背景から完全に離陸したところで僕の心を打った。文章であれ絵画であれ、心に迫る作品ほど、サイド・ストーリーは本当にどうでもよくなっちゃうんだよね。(意地悪な言い方をすると、本体がどうでもいいほどエピソードが必要になってくる、、、のか?)

 いま僕は、病気でも貧困でもなく、弱点は数多いけれど神が要てほどでもじゃなく、むしろ、5月の晴天のもとでぽかぽかと幸せな日々を送っている。それとは並行する事実として、この1年間で僕は家やら車やらいろいろな買い物をした。このふたつの事実のせいで、いまの幸福は願ったモノを得たからなんじゃないか、って、たまに自分でも誤解しそうになる。でも、それは甘く危険な短絡だし、モノの呪詛だ。

 とは言え、べつに悟りの境地をご披露しようっていうワケじゃない。僕は物質的な話も相当大好きで、たとえば、家を買ったのは金利と地価が上がると思ったからだ。でも、いまの僕の幸せの泉源は、意外にも昨今の地価上昇とは別のところに出現している。それはたとえば、ルームメイトを通じて音楽活動の楽しさや沖縄のスローライフに触れることであったり、高校時代からの旧友と餃子パーティを開くことだったり、そして、婚約者と心底リラックスした時間を過ごすことだったりする。

 これらは家に付随した出来事だから前段の短絡もあながち全否定はできないのだけれど、いまとなっては家そのものを凌駕してしまう存在感を放っている。ヴィンテージのワインだから旨かったのではなく、気の置けない仲間と飲んだから旨かったのだと気づけば、僕らはこれから旨い酒がどれほど飲めることか。

 ゴルフの上手な伯父が、遠くの目標を定めたら足許に目印――たとえば落ち葉とか――を決めて打つといい、と教えてくれた。僕の場合は、たまたま目にとまった落ち葉に向かってクラブを振って、見上げてみたらボールの先にグリーンがあった、という感じだ。僕のゴルフの腕前からすると、きっと打球はかなり曲がって飛んでいったはずだから、目印に先見の明があったとも言い難い。もし僕の気持ちがまっすぐ飛んで、どこにグリーンがあるとも知れない無機質な世界に飛着していたら、そのバンカーから出るのに何年かかったことやら、って思う。冷や汗ものだね。

 神は言葉にならなかった祈りをきき給う。だったら僕らも、形のないギフトにこそ感謝しないとなぁ。(読み返したら、あまりに殊勝なエントリーで思わず笑ってしまったけど)

 新天地へ越していくルームメイトに、感謝をこめて。

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