- October 28, 2007 9:14 AM
ミラノに到着したのは日曜日で、会議もなければ特段すべきこともなかったので、市内を歩く。ホテルでもらった地図に「必見」的な大きさで絵が描いてあった聖堂、ドゥオモを訪ねる。
内部は荘厳の一語で、天に届かんばかりの天井と、ステンドグラス越しに差し込む光。この当時最新の建築技術もまた、人々をして畏敬の念を抱かせることに一役買った、と高校の美術の時間で習ったのを思い出す。
観光客には後部を解放されているのみだけど、前方では信者が列席してミサが行われている。パイプオルガンの音色と人々の賛美歌がこだまする。もっと近くで触れてみたい。
僕は柵の手前まで前方に行ってその様子をしばらく眺め、そして、ある種の敬意ないしは賛同の意を表したくなって、近くの壁面のキリスト像の前にロウソクを供えた。
ロウソクを置き去りにするのは後ろ髪が引かれるようで、近くの長椅子に腰掛けてキリスト像に向かう。2・3百本あろうかというロウソクの炎が揺れて、そのひとつひとつに、それぞれの人たちのそれぞれの祈りが託されていると思うとハッとさせられる。
僕自身も、ただ「敬意ないし賛同の意を表する」ためにロウソクを供えたというのは、自分でもそれと気づいていなかった照れ隠しに過ぎなくて、その実、ロウソクをひとつ灯すことでしかぶつけようのない心の震えを感じたのだった。それはこの場所の力かも知れない。
長椅子で、僕は長い長い告悔をした。28年という歳月のなかには、消し去りがたい罪も多い。僕は途中で「その分これから良いことをしますから」という形で一度まとめようとしたのだけど、その総括が不適切であったことに気づいて、僕の祈りはもっと豊かなものになった。
愛は相殺しない。眼前のロウソクのように、結果として数百の数であっても、僕の1本のロウソクは僕自身にとって極めて特別なものだ。神様には、そこんところちゃんと分かってもらわないと困る。他の数百本と数で比べられても本当に困る。
迷える仔羊の挿話を思い出して、その原則で引き続きよろしくお願いします、って思う。1匹どっか行っちゃったけど、ま、99匹こっちにいるから良かった的な納得は、僕がその1匹だった場合は何の解決でもないからだ。さて、それは自分自身についても言えるんじゃないか、ってことだ。
会計原則は親子間で統一するのが望ましい。いろんな負債を抱えているけど、これから資産を積み上げてくから、純資産で考えてくれよ、という発想は危険かも知れない。より大局的な観点で自分自身がある種の負債として相殺されてしまうことを是認し得るからだ。あ、はぐれた僕のことなんか探さなくていいですよ、って。
良いことも悪いことも、相殺しないで、そのひとつひとつを抱えて進んで行くのが真っすぐでいいんじゃないか、と思う。どの出来事も固有であるから、リンゴとミカンは相殺できない、というのが人生に対する敬意の払い方なんじゃないか、と。人間のB/Sは厚くて結構、なんてミラノで思う。


