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プーシキン/オネーギン - その1

  • 2007-12-05 (水) 23:26
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 チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」を聴いて興味を持ったので、早速、岩波文庫のプーシキン「オネーギン」を読む。

 まだ途中なので感想を書くには早いのだけど、感じたことはいくつかある。

 まず、これを韻文小説として読みたい、と思った。池田健太郎氏の訳に、ほんのかすかな残り香を感じるけれど、散文訳は氷山の一角を撫でているもどかしさがある。もちろんこれは、駄洒落を翻訳するくらい難しいのだから、僕らは「ナナがキュウを食べた」と読みながら「seven ate nine」みたいな原文の妙を空想するほかない。

 次に、ロシア的なもの、を感じるのが楽しい。永遠の「読みかけ」になっているドストエフスキーの「罪と罰」(今度の出張は「のだめ」の前にこれだ!)もそうだし、チャイコフスキーの交響曲もそうだし、鬱屈した人間の描写が物語半ばにしてすでに真に迫っている。程度の差こそあれ、僕らはみんなどこか鬱屈してて、それを端的に描いてくれるから、ちょっと胸がすく思いがするんだ。

 そして、これが原文でどういう調子に挿入されているのか分からないけど、著者ないし一人称の語り部による「脱線」が楽しい。これはオペラでは味わえないんじゃないかと、ちょっと気になってしまうけど、語り部が物語と交錯する様が、はじめはうるさかったけれど、だんだん面白くもなってきた。

 さて、あとで参照するために気になったフレーズを抜き出しておく。

彼は虚栄心に満ちあふれ、そのうえに、よきふるまい悪しきふるまいおしなべて、冷ややかに打ち明けるほどの驕れる心を持っていた。おそらくは架空のものであろう優越感の、結果である。

 このフレーズは、ブログの冒頭に持ってこようかと本気で思うほど気が利いていたけれど、あまりにも核心を突きすぎているので思いとどめた。代わりに、ブログ全般を論じる時、とくにブログで余計なことを書いて誰かがバッシングされるのを傍観する時にでも引用するとする。そう思っておけば、僕もあまりに余計なことを書かないように自重するだろうから。

ああ、思えば私はどんなに多くの人生を、さまざまなる慰み事に滅ぼして来たことか。だがもし徳義心が苦しまずにすんだなら、私は今だに舞踏会を愛したことだろう。狂暴な青春や、人混みや、華麗さや、歓楽や、粋をきわめた婦人たちの衣装が、私は大好きなのである。

 舞踏会とは似て非なるものだろうけれど、僕はこのフレーズを、僕自身におけるクラブ/レイヴ・カルチャーへの思いに捧げたい。語り部はペテルブルグの社交界を離れた田舎暮らしから、こう追想するのだけれど、僕がいまの三宿から学生時代の東麻布を思い出すと、このミニチュアな物理的距離からですら似たような心持ちになる。

ああ、恋と詩の熱情を結びあわせた人は仕合せだ。彼はペトラルカの後を追いつつ、詩の聖なる恍惚を倍加して、胸の苦悶をおし静め、一方、栄誉をも手に入れる。

 僕には詩心はないだろうけれど、それでも、恋の情熱はとめどなく言葉になる。それが相手に喜ばれる確証がなくても、時代遅れのエンジンみたいに黒煙を吐くよりほかない。そういった発露が詩の、というより、恋の恍惚を倍加させることは事実だ。栄誉は手に入らないけど、ここになにか書くと、多少のアクセスは手に入る。そのリンク元は「失禁」の検索結果だったりするけれど。

習慣は天からの授かり物で、幸福の代用となるのである。

 いやはや、怖いことを言うね。だから僕らは、きょうがいい一日だと思ったら、胸に手をあてて考えた方がいいのかも知れない。その幸福、真に幸福なることがらに拠るものなのか、あるいは、単に善き習慣に拠るものなのか。もちろん、そんな分析が当人に建設的な意味を持たないとしても。いまの僕が欲しいのは善き習慣ではなくて幸福なんだとしたら、未来の僕はいまの僕に対して、こういう分析の結果を告解すべきだ。いまの僕もまた、過去の僕にしなければならないように。

 物語の筋そのものとは関係のないところで刺激を受けているなぁ。ともあれ、きょうはこれまで。

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