「魔笛」に続いて、プラハ国立劇場の「フィガロの結婚」を観る。歌喜劇(オペラ・ブッファ)「たわけた一日、あるいはフィガロの結婚」という題名通り、これは滑稽なドタバタ劇だ。けれど、それでいて、痛快な計画やその失敗やお互いの誤解の末に3組のカップルが結ばれる結末は温かさに溢れている。そして、観劇して気づいた重要な通奏低音は、伯爵夫人の夫への思いだ。
初夜権を返上したはずの伯爵が、しかし、従僕フィガロの婚約者スザンナにちょっかいを出そうとする。フィガロやスザンナや伯爵夫人が策を練って阻止し、フィガロとスザンナの結婚を実現する。はい、オッパッピー。言うまでもなくフィガロとスザンナが主役だけれど、気づいて涙が出たのは、伯爵夫人の伯爵に対する愛情の深さだ。
スザンナと伯爵夫人は協力して伯爵の悪だくみを阻止するのだけど、彼女たちは本来、対等なパートナーではない。ひとつには侍女と伯爵夫人という社会的な地位のために、ふたつには夫の浮気相手と妻という恋愛上の立場のために。前者では優位なはずの伯爵夫人が、後者では実はみじめな立場におかれる。伯爵夫人は、そんな様子は見せないのだけれど。
伯爵夫人の描写について、演出のヨゼフ・プルーデク(Josef Prudek)が、原作のカロン・ド・ボーマルシェ(Caron de Beaumarchais)の指示を明らかに逸脱した個所があった。もしかしてこれは、台本作家のロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo Da Ponte)が書き換えた部分かも知れないけれど、ともかく。
相反する2つの感情の間を揺れ動いている。多感だがそれは控え目に、また、きわめて和らげられてはいるが怒りも表現してよい。しかし、何といっても観客から見て、その愛すべき有徳の性格を辱めるようなことは一切、あらわしてはならない。
(ボーマルシェ「喜劇『たわけた一日、あるいはフィガロの結婚』に登場する人物の性格と衣装)
これが伯爵夫人についての原作の指示だ。けれどこの公演では、第2幕第2景でケルビーノと二人きりになった伯爵夫人は、若いケルビーノに迫られて誘惑に負けそうになる。伯爵がドアをノックすることでそれどころではなくなるのだけれど、これは明らかに、ボーマルシェの指示とは異なる。けれど僕は、プルーデクあるいはダ・ポンテのこの逸脱を支持したい。
冷静沈着なだけの伯爵夫人像では、夫の浮気を阻止する彼女自身の動機が観客に伝わらない。彼女は夫を愛していて、彼の浮気心に傷ついていて、そのために、このドタバタ劇のなかにあってただひとり寂しさを抱えた存在なのだ。彼女が凛然と振る舞うのは、伯爵夫人という地位がそれを命じているせいもあるだろう。
リブレットを読んだとき僕は伯爵夫人に気を留めなかったけれど、夫の浮気の寂しさを埋めたくなる主婦、という、昼下がりのTVドラマみたいな一瞬が伯爵夫人の人間像に厚みを持たせる。群林堂の豆大福が、その塩加減のために豊潤な甘味を開花させているように、垣間見える弱さがかえって伯爵夫人の強さを印象づける。
僕は「魔笛」でも「主役はタミーノじゃなくてパパゲーノだ」なんて言ったばかりだから、そういう"芸風"みたいになるのが癪というか気恥ずかしいんだけど、でも、ちゃんと言おう。「フィガロの結婚」の第一の主役はフィガロとスザンナの若いカップルではなくて、むしろ、伯爵と伯爵夫人の熟年(?)カップルだ。
作劇上も、その最後を飾るセリフがフィガロやスザンナではなく、伯爵と伯爵夫人の融和であることに注目したい。そして大団円、一同が音楽的な盛り上がりのなかで祝い讃える。フィガロとスザンナ、そしてマルチェリーナとバルトロという2組の結婚だけでなく、あるいはむしろ、伯爵と伯爵夫人の結婚の回復をこそ。伯爵夫人の愛の強さをこそ。
伯爵「伯爵夫人よ、どうか許しておくれ。」
伯爵夫人「私は貴方より素直です。
はいと申しましょう。」
一同「ああ、これでみんな
満足するだろう。
苦しみと気まぐれと
狂気のこの日を、
ただ愛だけが満足と陽気さで
終わらせることができるのだ。
花嫁花婿よ、友人たちよ、さあ踊りに行こう、楽しく過ごそう。
爆竹に火をつけよう。
楽しい行進曲の音に合わせて、
みんなでお祝いをしに行こう。
(戸田幸策・訳)
以上、テキストはすべてアッティラ・チャンパイ「フィガロの結婚」より。




