- 2008-02-09 (土) 13:33
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羽田と札幌を往復する機上、丸谷才一の「思考のレッスン」を読む。仮説構築をめぐる何冊かの本で揃って紹介されていて、それでいて、作家・丸谷の名前は一見するとそういったビジネス書とは縁遠そうで、そんなミスマッチが気になったんだよね。たしかに「古今和歌集」やらジェームズ・ジョイスやら文学系の固有名詞が頻出するんだけどそれは単なる例示であって、本質は彼の思考法だ。そして僕は、彼のその思考に、僕の嗜好(思考とまでは言わない)と共通するものを多く感じ、この一冊で丸谷才一が大好きになってしまった。
膝を打って共感したのは、彼のイデオロギー論に対する次のような感想だ。「僕の感銘の受け方に共通するものとして、中正で、実證的な、健全な立場で論じたものを好み、イデオロギー的なものは反発するという傾向がある」と丸谷は言う。軍国主義や資本主義やときにマルクス主義というイデオロギーの嵐が吹き荒れる、そんな時代背景のなかで培われた確固たる視座に、僕は僕なりの共感と強い憧れを覚えた。
それはたとえば、折しも僕の目下のテーマとなっている「罪と罰」についての解釈論にも表れている。丸谷は「僕はこれが非常に嬉しくて、やっぱり僕の文学についての見方は大丈夫だったなあと安心した」として、ミハイル・バフチン(Mikhail Bakhtin)のポリフォニー理論を紹介する。
バフチンは、ラスコーリニコフの語ること、酔っ払いのマルメラードフが語ること、マルメラードフの娘である娼婦のソーニャが語ること、その語り合い、対話によって醸し出されるシンフォニーのようなものが、ドストエフスキーの語りたい内容だととるわけですね。これがポリフォニー理論です。
(丸谷才一「思考のレッスン」)
これをもとに作品の鑑賞から発言の解釈へと高度を下げると、ある発言は、その周辺環境との相互的な関係によって解釈されるべきだ、と展開することができるだろう。イデオロギー論への丸谷の留保は、あくまでも個々の論戦であるべき議論を、イデオロギー間の対立の如く十把一絡げにする知的な粗雑さへの嫌悪にあるのではないか。
ちなみに、高校時代からの友人であるkajkenは、愛してやまないジョン・レノンの、その「反戦」メッセージについてすら、彼は次のような考察を加える。変化する小沢健二に対する擁護もしかり、「氷山を愛さばその水面下まで」という姿勢だ。僕は勝手に両者に共通点を感じて、丸谷もこんな姿勢でもって、ポリフォニーな理解を好むんだろうなと思う次第。
例えばジョン・レノンは、
「平和/反戦」の旗手のように思われているけど、
果たしてそれは本当にジョンが心から伝えたかった「メッセージ」なのか?僕にはそうは思えなくて。
あの時代に戦争反対を謳うことは、
単にクールでインパクトがあってかっこいいことだったから、
ジョンは歌にしたんじゃないのか?(The Great Escape「宿題(井上雄彦)には宿題返し(くるり)で。」)
また、丸谷はより実際的な思考方法について、「われわれ普通の読者の場合でも、ホーム・グラウンドを持っていれば、いっそう深い読み方ができるんじゃないかなあ」と言う。評論家・河上徹太郎の「一つの主題では評論は書けない、二つの主題をぶつけると評論が書ける」という言葉も引用されているけれど、これは僕も日々痛感するので、勇気づけられた思いだ。
僕のホーム・グラウンドといえば、これは商社員の末席というところにあって、日々湧いて起こる商業上の問題と苦肉の解決とが、芸術や個人の問題を扱うときに面白い示唆を与えてくれる。ラスコーリニコフの老婆殺しは交渉の未熟を感じさせる、といった具合だ。どのようなホーム・グラウンドにあっても、それぞれの登山口を登って行けば、いずれ普遍性の頂から世界を俯瞰できるのではないか。
そして、丸谷はともすると重苦しいものかのように誤解される「思考」について、それが詩と、互いに排斥するどころか実は共存していることを次のように指摘する。考えることは、楽しいことなのだ。
人間がものを考えるときには、詩が付きまとう。ユーモア、アイロニー、軽み、あるいはさらに極端にいえば、滑稽感さえ付きまとう。そういう風情を見落としてしまったとき、人間の考え方は堅苦しく重苦しくなって、運動神経の楽しさを失い、ぎごちなくなるんですね。
つまり遊び心がなくちゃいけない。でも、これは当たり前ですよね、人間にとっての最高の遊びは、ものを考えることなんですから。
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