- 2008-03-04 (火) 23:27
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納得のいかない歩道橋を渡って三河屋に行ったら、三河屋は19:30で閉店していた。でも、怒らない。それが国民的アニメの影響にせよ、名前には固有のイメージがある。酒屋の三河屋さんには夜中までアクセク働いて欲しくない。さて、再度青山通りを渡って南青山。ピーコックの地下で一升瓶の日本酒を物色する僕に、突如、維新の風が吹いた。
普段飲みに久保田やら越乃寒梅やらは高いなぁ、などと思っていたところで目に飛び込んだ文字が、「日本國土佐」。なんなんだ、この意気込みは。誰も「土佐かな? トスカーナ?」なんて間違えないし、そもそも日本酒の包装だし、というか漢字で書いてあるのに、敢えて「日本國」。
とは言え、この意気込み、悪くない。母親が高知県出身で土佐には思い入れがあるけれど、それを差っ引いても、悪くない。単に「土佐」と言ったら、ただ酒飲みの県という印象を与えるのみかも知れないけれど、「日本國土佐」と言えば坂本竜馬とか環太平洋圏とか、より広い時空のなかでの土佐あるいは土佐鶴が見えてくる。
フィッシュマンズはアルバムに「宇宙 日本 世田谷」という名前をつけたけれど、いま、全ての人達に足りないのは、ほんの少しの広範なる気持ちなんじゃないかなぁ。そこで提案として、普段何気なく口にする地名には、どうか、「日本の」をつけて欲しいと思う。「じゃあ7時に日本のハチ公前で!」とか、「日本の下北沢あたりでうまい店知らない?」とか。
これは排他的な帰属意識に酔うことが目的ではなくて、むしろ正反対に、世界の他の部分を意識することが目的だ。「日本」というくくりは、おそらく僕たちが共同体を辛うじて意識できる最大の単位であって、かつ、「世界」という人類会とって事実上最大のくくりへの接点でもある。「日本のハチ公」で待ち合わせをするのは、とっても、コスモポリタンな生き方なのだ。
日本を意識することで世界につながる、としたら、坂本竜馬もまた、「日本國土佐」という気負いで世界を意識したんじゃないだろうか。その爪の垢を煎じて、というわけではないけれど、日本の世田谷で土佐鶴を飲みながら思う。
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