- March 10, 2008 9:04 PM
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名古屋に向かう新幹線のなかで、アンリ・ポアンカレの「科学の価値」を読む。数理や物理をめぐる議論も大いに示唆に富むものだったけれど、僕は何にも増して、全編を貫く"真理への情熱"に心を打たれた。もちろん、「たとえば、電気理論・熱理論はこの偏微分方程式の新しい面を見せてくれる」式の、僕の理解を超える「例え話」が本の過半を占めることは正直に認めよう。それでも、この読書が無駄にならなかったのは、ポアンカレの澄んだ言葉にある。
この本は、レアで焼かれたステーキと同じつくりになっている。巻頭と巻末に格調高く焼き締められた言葉の被膜があって、これが内部から滴る数学者の生の言葉を包んでいる。ともすると切り分けるのも咀嚼するのも難しい生肉が、表面の焼き目によってナイフを受け容れるのとも、よく似ている。
真理の探究――これがわれわれの行動の目標でなければならない。これをおいては行動に値する目的はないのである。(略)われわれが人類を物質的苦労からだんだんに解放して行こうと望むのは、人類がかくして得られた自由を真理の研究と観照とに用い得るようにするためなにのほかならない。
(ポアンカレ「科学の価値」)
という崇高な信念ではじまるのだから、僕も襟を正して読もうという気になる。そして、次のような結びの言葉は、もはや達観と呼ぶほかない。
地質史の示すところによれば、生命は二つの永遠の死の間における短いエピソードにすぎず、このエピソードの中においてさえ、意識された思想は一瞬の間しか続かなかった、今後も続かないだろう、ということになる。思想は長い夜のさなかにある一閃の光に過ぎない。しかし、この一閃の光こそすべてなのである。
もちろん、ポアンカレは科学が万能だと論じるわけではない。道徳的真理と科学的真理がいかに互いの独立を保つかについて、やはり冒頭で説明する次の文章は説得力がある。
道徳は何を目的として目指すべきかを示し、科学は目的が与えられているとき、その目的を達するための手段を知らしめるものなのである。この両者は交差することがあり得ない以上、互いに衝突し合うことはあり得ない。不道徳な科学があり得ないこと、まさに科学的道徳があり得ないのと同様である。
ポアンカレはこうやって境界を明確にしたうえで、しかし、科学の側では分野を超えて縦横無尽に議論を展開する。いわく、時間をどのように測定すべきか、とか、多次元空間とはどんなものか、などという議論を進めていく。話の内容は僕の理解の範疇を超えがちだけれど、けれど、それらのテーマは一貫して「世界をどのように認識(測定)すべきか」というものであるように思う。
僕たちは日々、無数の状況"と思われるもの"に対して判断を下して行動しているのだけれど、それらの状況についての僕たちの認識は本当に正しいのか?という自問はなおざりになりがちだ。地図の通り進んでも、地図が間違っていたら目的地には着けない。天文学や流体力学の発想を借りて、日頃の発想をストレッチしてみる価値はある。凝った体の節々が柔らかくなるのは、それだけで気分がいいものだから。


