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イエロー・キャブ

  • Posted by: Syntax
  • June 9, 2008 10:11 PM
  • 旅する

 空港からマンハッタンに向かうタクシーで思ったことを書き留めよう。ひとつは、人種のサラダ・ボウルとしてのアメリカの確認。ふたつめは、プロフェッショナルにおける時間給についての疑問。最後に、座席の人生に対する影響力について。

 空港のタクシー・スタンドは空いていて、日本人のカップルがミニヴァンに荷物を積んでいる間、僕は標準的なフォードのセダンに乗りこむ。南アジア系の運転手が流していた音楽はそう聞こえたので、「インドの音楽?」と訊いたら、「パキスタンだよ」と言われてしまった。僕は咄嗟に詫びたものの、それは何に対する詫びだったのだろうか。僕にはインド音楽とパキスタン音楽を聴き分ける義務はない。けれど、彼には両者を混同されない権利がある。きっと、そういうことなのだろう。

 次に僕が「冷房を弱めて欲しい」と言ったら、彼は僕の言葉を聴き取ろうとしてステレオの音量を下げた。僕は印パ音楽の混同について少し申し訳ない気持ちになっていたので、「音量は戻していいよ」と言ったら、前より大きな音になってしまった。さらに彼は「この音楽は好きか?」と僕に訊き、音量に関する僕のフォローは誤解を招いてしまっていた。僕は困って、「うん、パキスタンって感じがする」と、我ながら本当に適当な回答をしてしまう。正直に言うと、この音量はありがたくない。

 そこでバッグからiPodを取り出して再生ボタンを押したら、機内で3回は通しで聴いたベートーヴェンの第九が流れた。ニュー・ヨークだし、サイモン&ガーファンクルでも聴いてみたい気分もあったけれど、運転手に比してアメリカに過剰適応しているように見えるのは癪だったので(彼からiPodの表示窓は見えはしないけれど)、民族的にスガシカオにする。パキスタン音楽とスガシカオが並存しながら、ふたりはマンハッタンに向かう。僕たちは、溶けて混ざる「るつぼ」というよりも、混ざるが溶けないサラダ・ボウルのなかにいる。


 運転手は混んだフリー・ウェイを尻目にしばらく側道を走る。これは奏功して時間短縮になる。マンハッタンまで45ドルの定額料金ならば、早く着いた方が運転手にも乗客にも有利だ。仮に距離制と時間制の併用ならば、メーターが上がるだけ利害が乖離する。僕はある投資にかかった弁護士と会計士の費用を思い出す。どちらも時間制で、共同出資者がかけた短い電話も15分単位で請求書に載る。新入社員のとき、先輩から「弁護士とは交信するときは電話ではなくメールかファクシミリにした方がいい」と助言されたのを思い出す。

 総額150億円を超えるその投資について、法務と会計に使われた費用は2億円弱だった。15分の費用など高くても数万円で、その金額に目くじらを立てようとは思わない。結局のところ、僕たちは電話帳のような契約書を用意してそれに署名しなければいけないのだから。疑問は、そのサーヴィスの対価はタクシー・メーター方式が妥当なのか、ということだ。そのタクシーにもこうして定額制があるのだから。かく言う僕も残業代を好むと好まざるとに関わらず残業代をもらうけれど、もらっておきながら僕は否定的だ。

 時間給の考え方の背景には、労働における時間という原価への補償という発想がありそうだ。確かに、時間がなければ成果は出せない。けれど、時間さえあれば成果が出る、という訳ではない。絵画の値段が材料費とは本質的に無関係であるように、プロフェッショナルは成果に対する対価のみを受け取るべきだ。そして、その対価は過去への補償ではなく、将来への誘引として機能すればいい。


 それにしても酔いそうだ。これはアメリカの好みのようだけれど、アメリカ車のサスペンションは僕には緩すぎる。しかも、タクシーのそれは追い撃ちをかけるようにくたびれている。ドイツ車のタクシーはないのか。さらに、これもアメリカの好みだけれど、どこにあるか知れぬ芳香剤が強すぎて僕には悪臭としか思えない。さらに、右後ろのこの席はクッションが完全にへたっていて、座り心地がとにかく悪い。僕はしなびた座面が大嫌いで、それもあってしばらく自宅の食卓に座っていない。そうだ、あれを直さなければ。

 ともかく緊急避難的に後部座席の中央に身を寄せると、ちょっと気が楽になる。ここは親子連れの子供くらいしか座らないだろうから、くたびれていない。小さい頃の家族のドライヴで、よくここに座って前の景色を眺めていたのを思い出す。しかし、なにもわざわざ中央に座ることはないんじゃないか。思い切って運転席の後方に移動してみる。こちらは乗客がひとりなら普段は使われない部分で、クッションも悪くない。気分は回復してきた。こちら側だとマンハッタンの摩天楼も見えてきて、むしろ気分がいい。

 座る位置を変えたら、サスペンションも芳香剤も変わらないのに、このイエロー・サブマリンはそれほど悪くない気がしてきた。どうせならば、快適に過ごしたい。これは言うまでもないことだ。けれど、僕らはちょっと座る位置を変えるだけで快適さが劇的に変わりうることは見逃しがちだ。くどいようだけれど、これは「3つの真実」の気分的な総括として。

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