Home > 学ぶ > 「勉強ができる」マイノリティの問題

「勉強ができる」マイノリティの問題

 michikaifuさんの記事を読んで、なんのこっちゃと思って引用元のpollyannaさんの記事を読む。どちらの記事にも思い当るところがあり、個人的な話にはなるけれど、書き留めておこう。僕はかつて相対的な意味で「勉強のできる」子だったのだけれど、主として進んだ環境おかげで随分前にそうでもなくなった。それを特に意識したこともなかったけれど、これらの記事を読んでみると、めちゃくちゃ今さらながら、「勉強のできる」子じゃなくなったことの救いみたいなものに気づく。そこから逆算すると、勉強のできるマイノリティはある種の被差別状態に置かれている、なんてことになりはしないか。もしそうだとしたら、その不遇はどうすれば解決できるのだろうか。

小学生のころの私は、国語も算数も理科も社会も、みんな新しい本のページをめくっていくような気持ちで楽しんでいた。
誉められるのはもちろん嬉しかったが、それ以上に、学べば学ぶほど、新しい世界が広がっていくことが楽しく、嬉しかった。
(理系兼業主婦日記「「勉強ができる」という蔑称」)
教科書や本を読んで、自分の世界が広がるワクワク感。難しい数学の課題を解いたときの達成感。フランス語を習って初めて「r」の発音がちゃんとできるようになったときの爽快感。お勉強の中で得られる、そんな自分の感覚は、とっても大切だ。
(Tech Mom from Silicon Valley「勉強しか取り柄がなかった私から。「逃げよ。」」)

 という感覚に僕も強く共感する。例えば、中学受験の模擬試験を受験することは、「文章題で新しい話が読める」という呆れるほど単純な理由で僕の楽しみになっていた。僕は勉強が好きだった。日能研の模擬試験で一度だけ国語で2位を取ったことがある。それは誇らしくもあったけれど、同時に僕は、このニュースを「サッカーの地区大会で優勝したぜ!」的なトーンで小学校のクラスメイトに報告できないことを子どもながらに知っていた。理由は分からないけど、絶対に歓迎されないことだけは間違いない。

 サッカーが好きでもお菓子作りが好きでも構わないけれど、勉強が好きだったりするのはタブーっぽいのだ。学習塾だって「親に無理矢理行かせられてる」というほうが「楽しみで仕方ない」というよりも好感を以て迎えられる雰囲気。足の速い子は運動会のリレーのアンカーを毎回やるけど、勘違いして同じような調子で「この問題分かる人?」という先生の質問に僕は毎回手を挙げるべきじゃない。分かるのに黙っているのは落ち着かない。けれど、2・3人が外したあたりで先生に当てられて正解を言うときの「出来レース」感も気持ちが悪い。とにかく、小学校の授業はこんな気苦労ばかりしていたことを思い出す。

 だから、michikaifuさんが一橋大学でようやく「その萎縮した感覚」がなくなった、というのはよく分かる。否、「よく分かる」というのは正確ではないかも知れない。なぜなら、僕は今にして初めて、自分が小学校で感じた居心地の悪さは勉強好きなせいだったのかも、と気づかされたからだ。さらに、その違和感すらも幸いなことに、小学校最後の3年間くらいしか続かなかった。私立の中学校に入ってからは十人十色の教育方針もあって、僕は少なくとも「勉強」というくくりで悪目立ちすることはなくなった。英語のできる奴もいれば美術に秀でた奴もいて、あるいは、ラグビーの名選手もいればパソコン名人がいて、彼らはみな等価に「できる奴」だった。中学生という早い段階で、こういう普遍にへと妙な委縮から引き戻ることができてラッキーだった。僕はそこで気負いなく勉強をし、テニスをし、登山をし、聖書を読み、座禅をし、あらゆる養分を吸い取って成長できた。

 「勉強ができる」という違和感から抜け出したこのエクソダスは、僕個人というミクロな単位では大正解だった。けれど、社会や組織というマクロな単位としては必ずしも理想ではないだろう。どんな社会にも、その社会の水準を超えた力や、そんな力を目指す志がある。もちろんこれは狭義の勉強に限ったことではない。そして、これらの力や志なくして社会自体の成長は望めない。ならば、こういう「吹きこぼれ(志向)」を活かさずして、社会や組織自身は生き残れない。それぞれの分野ごとの吹きこぼれに居心地の悪い思いをさせている場合じゃない。組織と個人とのある種の健全な緊張関係のなかで、自らより望ましい環境を求めていく個人に対し、どうやって組織自身がその「望ましい環境」へと変容していくのか。

 いまだに「勉強ができる」ことが子どもたちにとってどこか居心地の悪いことだとしたら、それは日本にとってひどく悪いニュースだ。それは意図せざる結果にせよ、事実上のマイノリティ差別だ。ただしそれは、じゃあ勉強が不得意な子どもを冷遇すれば相対的に得意な子が優遇される、なんていう単次元の話じゃない。日本の教育は一定程度の学力水準にほぼ全員を到達させるという絶対値の問題はうまく解決したように見える。けれど、どのような組織にも必ず上位5%と下位5%が存在するというような、分布の問題は未着手のように思えてならない。勉強の不得意な子に不必要なプレッシャーをかけないよう、しかし同時に、勉強が得意な子どもには適切な動機付けができるよう、そういう設計はなされてきたのだろうか。

 けれど、こういう多元的な制度設計はおそらく、日本が全体として不得手な分野なんじゃないか。そんな風に先回り心配しておく。だってこれは、いわば「多様性の肯定と促進」の問題に他ならないからだ。いろんな才能があるのは「仕方ない」として何とか肯定することはできても、「じゃあ算数の出来る3年生は6年生と一緒に勉強しましょう」と促進するところまで覚悟を決められるか。「僕は算数が得意だから算数は6年生の授業に出るけど、運動音痴だから鉄棒は1年生の授業に出るんだ」なんてことがもし屈託なく言えていたら、僕の小学校生活は無用の気苦労が少なく、その代わりに多くの成長の刺激に満ちていただろう。歳の違う子どもと一緒に授業を受けるなんて、とても刺激的で、それでいてとても実社会的じゃないか。

 肯定しようとも否定しようとも、多様性はすぐそこにある。その風に抗って、気づかぬふりをして船を漕ぎ続けるのか。あるいは、その風を帆に受けて世界へと滑り出すのか。これはそういう、「キメ」の問題なんじゃないかなぁ。

  • SEO
  • loading
  • The SYNTAX ERROR

    関連記事




Comments:0

Comment Form

Trackbacks:0

TrackBack URL for this entry
http://www.thesyntaxerror.net/mt/mt-tb.cgi/748
Listed below are links to weblogs that reference
「勉強ができる」マイノリティの問題 from The SYNTAX ERROR * BLOG = 脳髄の失禁

Home > 学ぶ > 「勉強ができる」マイノリティの問題



フィード
注目ブログ


Return to page top