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花咲爺 - レオナール・フジタ展

  • 2009-01-18 (日) 10:32
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 1月9日、僕はプロジェクトの終盤で徹夜明けだったのだけれど、一念発起して上野の森美術館の「レオナール・フジタ展」へ行く。そこで僕はフジタの作家性に初めて触れ、そして、彼の生活への愛情に大いに反省させられる。今回日本初公開となった大作壁画もさることながら、というか、それを踏まえた上で見る、アトリエの小物たちに感銘を受けた。フジタは職業的にというよりはむしろ、人生に対する態度の結果として、触れる品々をことごとく美術に変えていた。敬意を込めて彼を、花咲かじいさん、と呼びたい。

 展覧会は作家を時系列に追う構成になっていて、金曜の夕方にオフィスを少し早く出た僕は、滑らかにフジタの追体験へと離陸する。渡仏直後の初期の作品には特に作家の野心が感じられて、「家族」という人物画にはモディリアーニを彷彿とさせる雰囲気もあった。それは円熟の最晩年までを見終えて振り返ると、どこか若々しいトンガった風を感じさせた。一方で、縁取りのはっきりした浮世絵風の――あるいは漫画風の――、画風は渡仏初期から明らかな個性を放っていた。

 大作の「構図」と「闘争」はもちろん見ごたえがあるのだけれど、僕にとっては裸婦像の方がしっくりきた。フジタの真骨頂はそのおやかさあって、ミケランジェロ風の筋骨隆々は実は彼の語彙にないじゃないんじゃないか。フジタもまた、猫なのではないか。皮とも骨ともつかないぐにゃりとした所作で、浅薄な大義を巧みに避けながら、しかし気丈に、内面の真理を掘り続けている。そんなことを思う。
 特にそう感じたのは館内に再現されたフジタのアトリエを見た時だ。道具箱から衝立、そして鏡に至るまで画家の手製で、それらに傾けられた時間と情熱は一目で伝わる。それらは単に道具というよりも、レオナール・フジタという泉からこぼれる感性が、まるで成り行きで咲かせた草花のような自然さがあった。彼は道具だけでなく教会やらアトリエやらの実に精巧な模型までをも作っていて、触れる品々をことごとく作品に変えてしまうかのようだ。八角形の鏡に僕はその真骨頂を感じで、どのような鏡も、フジタの周囲に配されたや否や、このような姿に昇華させられる運命にあることを思い知らされた。
 フジタの生活への愛情は、作品「フランスの48の富」に結晶している。この画家が生活のなかにいかに多くの美しさを見出しているかを、あるいは、僕たちがそれらをいかにあっさりと忘れてしまうかを、痛感させられた。そこには大義はないかも知れないけれど、美や生への忠義を色濃く感じる。その忠義は最後期の宗教画で沸騰していて、例えばイヴの絵で描かれたエデンの自然の豊かさに思わず息を呑んだ。それらの絵は彼にそうであったのと同様に、程度の差こそあれ、観る者にとってもやはり、ある種の宗教体験なのだ。この文脈で僕は、黙示録の円熟に完全に圧倒されてしまった。
 それは恐ろしい終末の絵なのだけれど、漫画みたいな爆発があったり、おどろおどろしい中にもどこかコミカルな雰囲気を醸し出す色づかいがあったりして、なんだか飄然としているのだ。その黙示録は俗世のお仕着せの解釈を免れて、いわば「ありのままの終末」を達観してポンと描いたような、そういう超越したものがあった。もちろん、各種の資料は画家がその作品のためにどれほどの下準備をしたを物語っているのだけれど、それらにはあまり労苦という雰囲気がなくて、むしろ無邪気な熱中のようなものを僕は勝手に感じていた。
 搾り出すというよりは溢れ出るというような、押し出すというよりは引き出すというような、フジタのしなやかさを堪能した。世界がなにも変わらなくとも、フジタは花咲かじいさんのように、その世界を色付けていく。一方で僕は、非力なくせにいわば世界の形状を変えんとして夜も寝ずに足掻いていた。ありのままの生活を楽しめば世界の色彩の方が変わっていくんじゃないか、なんてヒントをフジタにもらった気分で美術館を出る。

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