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美にとって言語とは何か - 耳鼻咽喉の美と言語

From Blog 2009

 年末に仕入れた2本の残り1本、ムルソー(Meursault)を飲む。ネゴシアン、フランソワ・ダレン(François llaine)による2006年。一番搾りのテート・ド・キュヴェ(Tête de Cuvée)。旨い。琥珀色のこのワインには角のとれた果実味があって、口腔でしばらく転がしていたい気分になる。意外なのは飲み込んだあとの多少ザラつくような後味。これを何と呼ぶのか。いくつかのウェブサイトがムルソーのワインを「ミネラル」と形容していて、僕は膝を打つ。そして、NHKで観た吉本隆明の講演を思い出した。

 楽天のあるお店では「リアル・ワイン・ガイド」に載った2005年物へのコメントが引用されていた。いわく、「ムルソー的というよりも完全にダレン的。後半で少しバターが加わる。きれいでしみじみする香味。味がくっきりとして張りがある。旨味が多く、滑らか。バランスの良さは特筆だ。アフターの心地よい苦みとミネラル感がいい。」という。味覚と嗅覚を言語化することに僕は馴染みがなかったから、自分の舌と鼻が感じたことを表現できないもどかしさを強烈に意識させられる。吉本隆明のいう「自己表出」としての言語力がこの分野で僕に欠落している。
 
 そしてさらに、その欠落は単に、自分が経験したワインをブログでうまく「指示表出」できない、という以上の問題を孕んでいることを感じる。別のあるサイトは、2003年のヴィンテージを指してこう形容する。

香り  バジル。スイートバジル。オイル。カスタード。樽。
味  ミディアム。甘味有。アルコール辛さ。
味や香りの変化   アーモンド、ジンジャー、キウイの風味出る。

 僕はこのように香りを嗅ぎ分けたり味を見出したりすることができなかった。僕の語彙が足らないがゆえにこのように表現できなかっただけではなくて、僕の語彙が足らなかったがゆえにこのような経験を知覚することすら出来なかった、と思い知らされる。言語を超越して飛び込んでくる痛烈な美の経験ももちろんあるけれども、過去を振り返れば言語を足掛かりによじ登ってこそ見えた美の景色も多かった。美術館で絵画の前に初めて立ったときに前者が、その絵の解説を見聞きして反芻して、あるいはその絵を言語で咀嚼して、そして後者が訪れる。
 ヴィンテージは違うけれど、そこに言語があろうともなかろうとも、僕が飲んだムルソーにもアーモンドやジンジャーのニュアンスはあったのだろう。けれど、僕の経験の中にそれらはなかった。嗅覚も味覚も心もとないけれども、せめて言葉さえあれば、僕の五感が許す程度にはムルソーへの扉が開いて、僕は中を垣間見ることができたかも知れない。いわば僕が言語を持たなかったがために、ムルソーの少なくとも一部分は僕のなかで「起こらなかった」。真空の宇宙空間が、強烈な太陽光線の中でも暗く寒い漆黒を保つように、美を受け止める「何か」で満ちていなければ僕たちの世界に光はない。
 「何か」は五感や感性そのものでもいいけれども、より多くの光を受けようとするならば、そのうち最も確実な手段は言語だろう。なぜなら、言語はより明確に学ぶことができるからだ。ならばその手段にすがりついてでも、僕は耳鼻咽喉の美に触れたい。その瞬間的な光は、その時に「何か」で受け止めなければ一瞬で僕の人生を通り過ぎてしまう。特に記憶力がひどく悪い僕にとっては。今年の目標は、僕の言語を耳鼻咽喉科で鍛錬することにしよう。まずは言語側のテキストとして、吉本隆明「定本 言語にとって美とはなにか〈1〉」、「定本 言語にとって美とはなにか〈2〉」、そして「共同幻想論」を注文した。

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