- 2009-03-15 (日) 17:46
- 観る


2月27日、ジンガロ(Zingaro)「バトゥータ(Battuta)」を観に行く。「騎馬」スペクタクルだから…かどうか分からないけれど、木場。ギャロップ・シートという砂被り席を11月に予約して、待つこと3ヵ月。馬術を取り上げた舞台というのは初めてだから期待も高まる。90分程の舞台は幻想的に始まり、心が躍るような人馬賛歌が繰り広げられ、そしてまた、幻想的に幕を閉じる。馬々が蹴散らす土や、彼らがまとう飼葉の匂いが鼻腔を撫でて、僕たちの生活から欠落してしまった「土」への郷愁を掻き立てる。この舞台の主役は馬であり、そして、馬のような美しさと自由を湛えた人生を生きるジプシーたちだ。それらは、かつて僕たちが根をおろしていたかも知れない土を思わせた。

外は冷たい雨が降っていたから、馬が出入りする時には特設のドームへ外の風が吹き込む。土の匂い、飼葉の匂い、馬の鼻息。弦楽器と管楽器とで別れたルーマニアの2楽団がそれぞれに、滑稽さをともなった興奮や、慈愛をともなった感傷を奏でる。馬乗りたちのアクロバットも、例えばラス・ヴェガスのシルク・ド・ソレイユのような超人的な洗練というよりも、むしろ、大道芸的な荒技という印象だ。観劇がここまで、生の等身大の経験になりうることに驚く。
ジプシーの生活を垣間見ているはずだったのが、その有り様もこれほどの眼前で提示されると本質的な彼我の「垣間」が混乱を来してくる。引っ切りなしに続く手拍子で舞台にのめり込み、夢のような時間を過ごして迎えた終劇は、楽しい夢のあとのような寂しさを残した。ジプシーたちが人馬一体で過ごす人生が遠い異国から切り出されて、それをスーツを着た僕たちが観察していたはずが、土の匂いが遠ざかるにつれて、切り出されて隔絶されているのはまるで僕たちの方であったかのような喪失を覚えた。
ただ、この郷愁や喪失は終劇を待たずとも開演のその時から予感し、あるいはまさに感じていた。禅的と呼べるほどに洗練された幕前から、まるで「ニルスのふしぎな旅」のごとくガチョウに男が連れられて行った先の世界が、土着的な祭りであったことに僕は「やられた」と思った。フランスだとか馬術だとか協賛がエルメスだとかいう記号を、表層的な文脈で勝手に解釈して、舞台は小洒落ているか小難しいかあるいはその両方だろうと予期していた自分の浅薄を恥じる。
男と女が恋に落ち、馬に乗った男が女を父親から奪う場面が印象的だった。「粗にして野だが卑ではない」という、旧国鉄総裁・石田禮助の言葉を思う。粗野だけれども下卑ていないどころか、その実直さにはなかなか何物にも代えがたい気品がある。バトゥータの衝撃はまさに、土の匂いを通奏低音として、この粗野たることの高貴さを描き切ったことにあると思う。僕はここで、茨城のアトリエで土の匂いある生活を体現しよう、という思いをまた新たにする。
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