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メトロポリタン歌劇場


 木場で「バトゥータ」を観た翌日の2月28日、ニュー・ヨークのメトロポリタン歌劇場(Met)でヴェルディのオペラ「イル・トロヴァトーレ」を観る。機内では「007 慰めの報酬」、「マダガスカル2」、「たそがれ清兵衛」の3本も映画を観てしまったせいで大して寝てもいないのだけれど、晴れた午前の空に伸びる摩天楼を見ると気分が高揚する。レキシントン街と53丁目の角で地下鉄を降りて、西に歩きながら考える。MoMAも気になるけれど見送って、ちょっと小腹が空いたのでホット・ドッグをかじりながら、やっぱりMetに行こうと決める。土曜のマチネーで新作のヴェルディ「「イル・トロヴァトーレ」をやると調べていたので、憧れのMet初体験を飾ることにする。


 窓口でドレス・サークル(Dress Circle)という4階席のチケットを125ドルで買って、まえに出張の合間に訪れた隣のエイヴリー・フィッシャー・ホールのトイレで、盛り上がった気分の表出としてスーツに着替えてタイを締める。英国王立歌劇場で買った紙製のオペラ・グラス、出番もないのに長々と旅行用ポーチに入れていたんだけれど、なぜか今日に限って持ってきていない。劇場の地階で本式のグラスをレンタルして準備万端。
 赤いカーペットが敷き詰められたメトロポリタン歌劇場の内部は想像以上に華麗だった。さらに、うろうろ検ていて行き当たったレストランでは、そこが会員制である旨を伝えられて丁重に追い返されつつ、その空間が持つ、市井の喧騒から隔絶された重厚さに驚いた。このザ・メトロポリタン・オペラ・クラブ(The Metropolitan Opera Club)は紹介制とのことで、アメリカにおけるクラブ社会の外壁に触れた気分だった。

 さて、初めて足を踏み入れる場所の新鮮さと、上記のような多少のウェー感ほぐしてくれたのは隣の座席に座った老婦人だった。彼女の夫は日米協会か何かに勤めていて60年代に夫婦で東京に住んでいたそうだ。「東京文化会館が出来てすぐ上演する作品にプッチーニの『蝶々夫人』を選ぶのははいかがなものでしょう」、という彼女に僕が言えることといったら、「数年前に新宿の近くに新しい歌劇場ができましたよ」くらいだったけれど。
 彼女はこの4階席の3列目で通路側の席がお決まりのようで、視界が通路によって開けているからオーケストラ・ピットの中を含めて全体が見渡せて気に入っているという。こちらは飛び入り参加だから、そういう熱心なファンにはいろいろと教わることが多い。「イル・トロヴァトーレ」については改めて書くとして、例えば、「金融危機で協賛が減ってオペラの製作資金が減っている」なんて話も興味深い。
 僕がMetを初めて意識したのは1988年製作のプッチーニ「トゥーランドット」をDVDで観て、その舞台の絢爛に圧倒されてからだ。老婦人は、Metの舞台が時に派手すぎて「ブロードウェイ的」になるのは好まないと言っていたけれど、良くも悪くも派手さはMetの特徴じゃないかと思っていた。僕は「簡素な舞台の方が音楽に集中できるでしょうね。本来オペラは音楽ですから。」なんて、あながち嘘でもないものの適当なことを言って隣人を喜ばせつつ、「イル・トロヴァトーレ」の幕開けを待つ。
 思えば前回のニュー・ヨーク出張は、夕方空港に降り立ってホテルに直行、チェック・インしてすぐに1番街あたりのピアノ・バーで同僚たちと合流。ウィスキーの水割りを飲みながら日本人の女の子たちとを他愛もない話をして、2件目のカラオケでオレンジ・レンジを歌う、なんて具合で六本木と瓜二つだったから僕の旅情は不完全燃焼だった。
 それに比べて今回は休暇だから、空港からはタクシーではなくて地下鉄で移動して、ホテルも定宿のシェラトンではなくてアッパー・ウェスト・サイドの安宿で風呂も共同。けれど、この旅情と自由はプライスレスだ。学生時代に初めてこの街を訪れたときも、YMCAに泊まって旅費を削りながら美術館代とビール代を捻出していた。
 学生時代のそれに似たスピリットを持って、マンハッタンに足を踏み入れるこの気分は何物にも代えがたい。そして、初めてのメトロポリタン歌劇場をこの気分で迎えられたことが、ただそれだけで嬉しく思える。ニュー・ヨークはなぜか、どうでもいい若さをどうしようもなく輝かせる。

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