4月29日、中学校の同級生たちと御殿場の青龍寺を訪ねる。僕たちが前にこの寺を訪ねたはたしか中学3年生の春だから、それから15年経って倍の年齢になっての再訪となる。中山和尚と昼食をご一緒して、寺の本堂と縁側でそれぞれ30分の座禅をする。そして、お茶を飲みながらの哲学談義。新緑の晴天の下、静かな禅寺での思索は最高の知的散策を与えてくれた。考えるってのは、それ自体がアナーキーな魅力を放っているように思える。
事故で渋滞した東名をなんとかやり過ごし、御殿場インターからほど近い青龍寺へ。正門は閉ざされていたので、車を降りて通用口――といっても石畳が敷かれた立派なものだけれど――から境内に入る。途中の池には蓮の葉がびっしりと広がっていて、小さな蛙たちがケロケロと鳴いていた。
本堂と正門を結ぶ通路の半ばにある鐘楼は木漏れ日の中に凛として建っていて、周囲の空気に心地よい緊張を与えている。以前この鐘楼に登らせてもらって記念写真を――しかも戦隊モノのポーズなんかで――撮ったりしたのが懐かしく思い出されて、もう戻れないその無邪気さに老けた感傷を感じたりもする。いや、僕たちは実際に老けたのだ、と思う。
建物の中には、社寺特有の簡素さと清潔さがあって、それだけで襟を正される思いがする。さらに釘を刺すように玄関には「照顧脚下」の文字がある。靴の脱ぎ方と食事の仕方で人間の品格は大抵バレてしまうだろうに、そんな「足元」はともすると忘れてしまいがちだ(だからバレるんだけど)。
そういうわけでテニス・シューズをちょっと丁寧に脱ごうかと思ったら、脱いだ瞬間に靴下についたどこかのテニス・コートの砂がパラパラと落ちてきて参った。したかなく足で払って知らん顔をした、なんてのは仏のみぞが知る秘密だ。結果として、我が身の罪深さを玄関からして思い知らされる。ブログで告白したってなんの免罪にもならないけれど。
座禅の一区切りとして線香1本が燃え尽きる時間があって、これを1炷という。中山和尚は小さな置時計を使って15分を計ったので語源通りではないけれど、これを1炷と呼ぶならば、僕たちは合わせて4炷を座った。ほの暗い本堂で2組に分かれ相対して2炷、そして縁側で中庭に向かって2炷。
全身の力を抜いて呼吸を整える体操をしてから、本堂で1炷目を座る。
何しろ15年ぶりの座禅だから、1炷目は「呼吸はこんな感じでいいんだっけ?」とか「どこを見ればいいんだっけ?」とか「何を考えればいいんだっけ?」なんてあれこれ思案するばかりで過ぎてしまった。そして「僕は向かいのアイツより姿勢がいいんじゃないか」なんて妙な対抗心まで出てきて、さすがにこのアイディアのょうもなさ気づき、そのことが試運転としての1炷目の収穫となった。こういう小さくて固い、それでいて移ろいやすい無意味な対抗心が、どれほど自分の思索を阻害することか。ちなみにこれには後日談があって、帰京して自宅で友人たちと飲んでいたら、僕の隣に座ったA君の姿勢は向かいから見て実に良かったらしい。
2炷目はもう少し建設的で、僕がこのところどれほどい呼吸急き立てられるように生活してきたかを思い知らされた。局所局所ではそれなりに善戦していたとしても、全体としての人生戦略はツギハギだらけだ。だから、ビジネス・スクールへと退避して立ち位置をオーバーホールしようという直観はあらためて適当だったようにも思える。ぴかぴかに磨かれた本堂の床は向かいの級友の鏡像をおぼろに映して、彼の肩越しには明るい初夏の新緑が見えた。この謙虚で静かな時間が永遠であればと思わず願ったけれど、それはただただ僕のマインドセット次第だった。
2炷目の途中で中山和尚が警策を持って回られて、一同4人のうち3人が願ってこれを受けた。この樫の棒で背中をパンと打つ警策、居眠りする者を罰するものだと誤解されている節もあるけれど、実は願って受けるものなのだ。少なくとも僕が経験した例では常にそうだった。前屈して背を打たれると、同じところをぐるぐる回っていた思考が、警策の与える衝撃でその軌道を飛び出す。艦載機がカタパルトで離陸するように、外部からの物理的な力が思考に与える推進力というのは、現に存在する。
力学的エネルギーをこの効率で以て形而上エネルギーへ変換できたら、原発一基で人類はみんな悟りを開いちゃうんじゃないか、なんてSFまがいのことを考える。これはまぁ我ながら途方もない話だとしても、原発何万基分ものエネルギーを消費しながらそれに見合うだけの幸福を人類は勝ち得ているか、というのは現実的なトピックだろう。座禅の充実が、どれほど少ないエネルギーで実現されるかを考えると、これほど高効率な事業はないんじゃないだろうか。
3炷目と4炷目は、生まれてのはじめて屋外を向いた座禅で、僕は中庭の草木や池や岩の膨大な情報量に圧倒されてしまった。このところのガーデニング熱もあって、特にツツジの安定した生命力にはあらためて魅力を感じたし、風に吹かれては葉を落としながらも決して痩せ細ることのない高木の緑には、僕の浅薄な想像の範疇を超えた営みの均衡を感じた。その高木には、こんなに葉が落ちたらすぐに丸裸になってしまうだろうに、なんて思わされたけれど、決してそうはならない。一方で、地球規模での均衡はいままさに崩れつつあって、それは僕たち人間の行動力がその浅薄な想像の範疇を超えたところにまで膨張してしまったからだ。
子供たちは「想像力>行動力」の不等式を生きているとしたら、大抵の大人たちは「想像力<行動力」の不等式を生きている。15年の時を経て、僕も立派な大抵の大人になった。僕がビジネス・スクールでの2年間に期待しているのは結局、この不等式を等式に、できれば拡大均衡として変えていくことだ。
それにしても、と思う。この思索は臨済宗の教義とは直接に関係がなさそうで、これは座禅という方法論を僕なりに実践してみた結果だ。教義としてレクチャーされたら僕のような性格だから必ずしも素直に従ったか分からないけれど、瞑想という形で自分自身が造形した発想ならば受け入れやすい。瞑想という方法論は実に分権的あるいはアナーキーで、そして、それだけに個人に対しては内側からの推進力を与えやすいんじゃないだろうか。実務的な、例えばコーチングのようなシーンでも、案外有用かも知れない。
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