- 2009-05-02 (土) 19:54
- 旅する

4月4日の夜にアトリエ「一、館」に行き、そこで一泊して翌日は筑波山をトレッキングした。このところアトリエでは何かと作業ばかりしていたから、今回はあくまでも別宅としてゆっくり過ごすことにする。ガスを止めているせいで風呂には入れないけれど、キャンプ用のバーナーで湯を沸かしながら妻と焼酎のお湯割りを飲る。最近僕はこの手の野趣にかなり傾倒しているのだけれど、筑波山の峰でお湯を沸かしてカップラーメンを食べ、ついに小さな悲願を達成する。
常磐道を降りてから筑波山を目指す道は広い平野を横切っていて、それはアメリカの――たとえばヨセミテを目指す――それのようだ。僕は生まれも育ちも神奈川で、特に十代の頃に住んだ秦野は丹沢の麓の街だったから、茨城の広大な土地はいつも新鮮でならない。
つづら折りの坂道を登って駐車場に車を停めて、数件の温泉宿と何軒もの土産屋が並ぶ通りを歩く。何しろ僕らは前夜風呂に入っていないから、日帰り湯のクーポンなんかをしっかり集めておく。そして、筑波山神社へ。境内からは、上品な山桜を近景にして4月の澄んだ空がよく見えた。
当時、MIT Sloanからの合格通知待ちだった僕は絵馬に同校合格祈念を託して、いざ登山開始。合否の心配は晴れない雲のように垂れこめていたけれど、足を動かして山を歩いているとそういう憂慮を忘れられるのがいい。
登山口にほど近い境内には「となりのトトロ」に出てきそうな大木があったりして、大山もそうであったけれど、あらためて山と信仰の関係を思う。事前に見たつくば市観光協会のウェブサイトを思い出しながら、僕たちは、筑波山神社→つつじヶ丘→女体山→男体山→ケーブルカーで下山、というコースをとることにした。
筑波山神社からつつじヶ丘に向かう道は杉林のなかの緩斜面で、山道もさることながら杉林の手入れが入念で、いつか聞いた「人手をかけないと山が廃れる」という話を思い出す。人手など入らない方がよほど山は然ろうと思ったけれど、人間が手を加えることによって生まれる調和もまた、あるのだろう。その一方で、立ち枯れた大木につる性の植物が巻きついた前衛的な風景もあったりして、小規模ながらも気まぐれで猛々しい自然の姿もまた目を楽しませてくれた。
山道を抜けて着いたつつじヶ丘には大きな駐車場や売店があった。自動車で来られるからといってトレッキングの価値が減るわけではないけれど、ちょっと残念な気がするのはなぜだろう。そんなことを考えていたら、突然、パラグライダーが一機、駐車場に降り立った。不時着なのか狙ったものかは分からないけれど、アスファルトに着地してそそくさと生地をまとめる様子が珍しかった。
一番珍妙なのは巨大なガマガエルを据えた小さな遊園地で、わざわざ壁を黄色に塗る悪趣味も、それでいてなんだか独特の旅情を醸していた。写真を見ても「ガマ洞窟」、「小鳥園」、「ダチョウ王国」、「SLのりば」、「ゲームコーナー」とまるで取りとめがない。「イノシシ」の文字まで見える。敢えて行こうとは思わないけれど、地方独特のこの奔放な商業施設にはなんだか憎めないものがある。
この駐車場からが実は意外にも大変で、女体山までは岩がゴロゴロする道を息を切らしながら登ることになった。駐車場から僕たち同様かそれ以上の軽い気持ちで来た親子連れは、「もう無理!」という子どもを励ましながら親も親で予想外の難路に閉口していた風だった。そんな岩にもしっかり根を張った木があったりして、植物が過酷な環境にいかに辛抱強く対応しているか驚かされる。
その先には「母の胎内くぐり」と題された岩があって、巨岩と巨岩の間の狭い穴を抜けろということらしい。妻から以前、熊野古道で同様の岩を通った話を聞いたけれど、こういう母体信仰には何か元ネタがあるのだろうか。それとも、人間というのはそもそも穴を見れば直観的にこう連想するのだろうか。僕も生まれ変わろうと思ったけれど、その穴は垂直に登るような格好だったので途中で断念して横から出てきてしまう。そして、ついに女体山山頂へ。
女体山から男体山へと続く尾根道の傾斜は緩くて、途中にはカタクリの花が咲いていた。さて、僕は前週末に大山の山頂でコッヘルを使ってうどんを茹でている一団を見て羨望を感じていたのだけれど、ついにその雪辱を晴らすことになる。売店で水を分けてもらって、持参したバーナーで湯を沸かし、カップ麺をつくる。お湯を沸かしただけだけれど、アウトドア感満点で満悦至極。
尾根は風が強くて思いのほか寒かったので、カップ麺で暖を取ってすぐに男体山を目指す。お湯が沸くまでに奪われた体温とカップ麺が与えた温かさのどっちが大きいかは正直、微妙なところだけれど、「コッヘルで湯を沸かして暖をとる」という響きが何ともいい。妻は同意しないかもしれないけれど、このあたりの価値考量はジェンダー・ギャップが最も大きい分野のひとつだろうから仕方ない。
頂上から眺める麓の風景もそうだけれど、男体山から望む女体山には達成感を覚えたし、男体山山頂の真上に広がる空は今までよりも青く見えた。トレッキングは自分の足で進んで風景を変えるという、文字通り地に足の着いた充実をもたらしてくれる。
そして、その後の温泉がまた、いい。僕たちはケーブル・カーで筑波山温泉街まで戻って、青木屋という温泉宿の露天風呂で汗を流す。屋上の風呂からは関東平野が一望できて、何を焼いているのか麓の畑のそこここから煙が上がっていて、海岸沿いにはコンビナートなのか工場が並び、その先の水平線には貨物船が浮かんでいる。
筑波山が手つかずの自然というよりは信仰と営林という生活の山であるように、そこから見える風景にも人間の営みがあった。それらの営為は人間性の輪郭であって、ゆえに美しいと思う。足を動かしたからこそ特に思うのであろうこういう感想は、眺望や温泉をも上回るご褒美かも知れない。
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