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サントリー・ホールとメセナの民主化

表参道の病院で髄膜炎の予防接種を受けたとき、僕は待合室の雑誌をあらかた読んで待つことになった。うっかり予約の時刻に遅刻して、1時間ほど待つハメになったからだ。自業自得なんだけどね。そこには「MUSE」というサントリー・ホールの会員向け雑誌もあって、指揮者ズービン・メータのインタヴューが載っていた。サントリーがキリンと統合して資本市場により直接に晒された時、この企業のメセナはどうなるのだろうか、なんてことを思わずにはおれない。このホールを今後維持する主体は企業であるべきか、創業者等の資産家であるべきか、あるいは、個々の聴衆であるべきか。

会報誌でメータは、サントリー・ホールに請われて開催した子どもか何かのためのコンサートの出演料を全額寄付した、と話す。そして、それはそのような企画を支援する佐治敬三氏個人への敬意と賛同のためだ、という主旨が続いている。別のページには同ホールが誇るパイプ・オルガンが如何なる苦労――端的に翻訳すれば費―の末に設置され、さらに維持されているかが語られている。佐治氏という個人とサントリーという企業とが分かち難く一体となり、結果として、東京に素晴らしいコンサート・ホールが存在し、また、世界的指揮者がこの土地で公演する物理的および属人的な素地を形作っている。

コンサートのチケットは安くはないけれど、それでも、実費を考えたら破格の安さだろう。このホールが、機会費用はもとより運営費をも回収できてはいないだろうから、その差損はサントリーの株主が負担していることになる。このホールがなければ主軸商品のウィスキーや、ようやく黒字化したビールが売れないとは思えないから、広告宣伝費という正当化も難しい。結局のところ、僕らは佐治氏の寛大さに支えられてコンサートを聴いているのだ。オーケー、いい話じゃないか。けれど、と思う。キリンの株主は佐治氏ほど寛大だろうか? まさか。僕が株主だったら、都心の贅沢なホールなんかさっさと手放して、1円でも多く配当して欲しい。あと1週間で晴れて無職のこの身なら、これくらい期待したって投資家の傲慢と謗られることもないだろう。

個人投資家として投資先にメセナを期待する理由は、少なくとも僕にはない。けれどこれは、文化芸術など廃れてしまえ、と言っているのではない。僕はコンサートに行くが好きだから、配当が増えればその剰余で、ウィーン・フィルのチケットを買うことも充分にあり得る。これはいわば、国に公共事業をやらせるのか、定額給付金で自分の好きなものを買うのか、という対比にも似ているかも知れない。後者の方が意思決定はより自由で透明で、ゆえに主的言えるかも知れない。けれど、と思う。その民主的なメセナの分担は果たして、次のサントリー・ホールにつながっていくのだろうか? CDの売り上げが減り、有料配信がそれを補うわけでもないコンテンツ市場を見ていると、いわば権者投票すなわち消費は文化や芸術に向かっているように見えない。それが悪い、とは言わないけれど。

あるいは、消費者の視線で。プレミアム・モルツやC.C.レモンがある日から1円安くなって、その代わりに「その1円をホール建設に寄付してください」って言ったら、みんな寄付するんだろうか? 僕だったら、趣旨には賛同するけれど、なんか面倒くさい。「面倒くさいなぁ、でも、やんなきゃなぁ」なんて言っているうちに、一定期間気にしたらそれで気も済んで、その1円はじきに財布に溶けていくだろう。サントリー・ホールに関してサントリーの果たした機能は、まさに、こういう1円を消費者/株主から掻き集めて、実際にホールを建設してしまったことにある。いわば芸術振興における疑似国家の機能を発揮して、独裁と呼ぶ人もあるかも知れないけれど、ともかく立派なホールを出現させた。

とはいえ、オーナー企業でもない限りこんな荒技はできないし、また、すべきでもないように思える。僕たち個人の感性と行動力が試される訳だけれど、メセナは民主化・分権化した方が――つまり企業よりも個々人がタニマチであったほうが――文化の下支えとしては底堅いだろう。会った事のない資産家が何百万円も寄付するより、自分自身が1千円でも2千円でも寄付した方が、よほどオーナーシップを感じる。もちろん、そういう千円単位の活動を刺激するのはやはり百万円単位あるいはもっと多額のロール・モデルだろう。この率先垂範の担い手はここ数十年は企業の独壇場であったかもしれないけれど、先の民主化の文脈の中で、今後は企業という漠たる存在よりもむしろ、事業家個人に回帰していったらいいんじゃないかな、と思う。

乱暴な試案だけれど、サントリー・ホールを佐治氏が買い戻して佐治ホールなんて名前にしたら、「よーしオレも○○ホール造っちゃうぞ」っていう若い起業家がもっと生まれて活気が出るんじゃないかなぁ。企業自体は個人のロール・モデルにはならないけれど、個人は後達の手本や目標になっていくからだ。

ぐっちーさんの記事「プレミアムモルツ一番搾り」へのコメントで下記のようなものを読んで、ふと思ったことを書いてみた。

サントリーという会社は恐らく、日本の文化のタニマチ意識の非常に強い会社で、大正以来、資生堂や出光興産と並んで、日本の芸術・スポーツなど、「文化」の牽引車だった企業の代表格です。収益性が低いのも恐らくそのせいでしょう。(略)サントリーが時価会計の洗礼を受けてしまうと、経済原理以上の文化面でのネガティブインパクトが計り知れないと思うのですよ。半分カーネギー・メロン財団みたいな志向の強い企業でしたから。少なくとも企業メセナの担い手が変質してしまうでしょう。

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  • Tanachu

    興味深く読ませていただいたよ。

    例えば私の身近な例でいうとビルボード福岡はこの8月に閉店なんだけど、ブルーノート時代を含めると今回が3度目の閉店(正直?)。

    で、閉店が発表されるたびに、閉鎖反対の署名運動が起きたり、何らかのアクションがユーザーサイドからおきるのだけれど、結局それって、しかるべき対価を払ってお店(文化?)を支えるユーザー(たにまち)の絶対数が少なかった訳で、それが一度ならず2度までも、最後は3度目の正直を迎えた訳です。

    (幸いにも)私の会社の持ち物ではないのでこのような客観的な物言いが出来るのだけれども、その度に閉鎖反対のなんらかのアクションをおこす方々は、閉鎖に追い込まれるような状況になる前にもっと具体的な(ここでは経済的、営業的な)支援をなぜ出来なかったのか?

    特にブログやSNSが発達した今、そのような感傷的な声はすぐに広まるのに、なぜこれらのメディアを使って、別の形の支援をもっと早い段階で出来ないのか?

    経営を断念しなければならない主体者にももちろん問題があるのだと思うのだけど、本来であればマーケティング活動が多少弱くとも、その土地のユーザーの文化的民度がもう少し高ければあの程度の小箱であれば維持はそれほど難しくないはず。

    下高井戸に面白い映画館があって、ここは一度閉館された映画館を地元の有志が集って後援会を作り再開し、単館上映作品中心のだけどマーケティングにはなかなか乗ってこない良い作品を紹介していて、年会費3000円(2回分の上映チケット付き)だけで運営をされている。
    純粋に映画として質の高い作品を求めて皆さん年会費を納めるので、作品をブッキングする側も妥協の無い(但し結果的に民主的なセレクトによる)ラインナップをされている訳です。

    なんだかとりとめの無い感じになって来たけど、前者と後者の違いって、根本的なところが真逆な感じがしてものすごく興味深いし、私の場合はこれからのライフワークとしてものすごくこのような問題は切実に感じてます。

    たな

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