さっき書いた「浮沈のオーヴァーブッキング – 浮」を読み返して、出発前に読み直した保坂和志「プレーンソング」気分を引っ張っているなぁ、と思う。文章がダラダラしている、という言い方をするとこれは作家に失礼かも知れないけれど。僕の文章がダラダラしている、ということについて、その経緯と思しきことなども含めてダラダラと書き留めておく。もちろん、僕の文章がダラダラしているのは今に始まったことじゃないし、「ダラダラしている」と自省してみたところで、それは僕は本当はダラダラしてない文章を書ける、ということにはならないけれど。
出国前のある日、六本木で飲んだ。相手は商社員A君と編集者B君。話題はコンテンツ事業から中村一義まで多岐に亘ったが、保坂和志の話でも随分盛り上がった。三井物産の磯崎憲一郎氏が芥川賞を受賞して、彼が保坂和志に小説を書いてみろ、と言われたなんて話からだったろうか。僕は「中村橋から豊島園に歩いていく話しか読んだことがないけれど」、なんて話したら保坂和志の熱烈なファンのA君がすかさず「『プレーンソング』ですね」なんて言って、職業上その作家に詳しいB君まで驚かせた。
ところで、ブログを書いていて敬称にはよく悩まされる。面識もないのに、例えば「木村拓哉さん」、というのは気持ちが悪い。けれど一方で、芥川賞受賞の瞬間からいきなり「三井の磯崎」というのも気が引ける。asahi.comの記事では「磯崎さん」となっているから、文学賞受賞までは一般人扱いが妥当なのだろうか。ただ、芥川賞作家をつかまえて今後も「磯崎さんの新作は…」云々というのも気持ち悪いから、今は過渡期ということなのだろう。次回作の出版を「磯崎」解禁のトリガーとしよう、なんて勝手に決める。
閑話休題。たしかコンテンツ事業の話の文脈で僕はB君に編集者としての夢を聞いたら、彼は「ミリオン・セラーを出すことです」とキッパリ言う。その真っ直ぐな気持のいい回答に、僕はちょっと面食らいもしたけれど。ともかくB君は、保坂の作品には分かりやすいドラマがないからミリオン・セラーには向かない、と言う。対して保坂ファンのA君は、「小説にできることは時間を描くことではないか」という磯崎氏の受賞の言葉を引用しつつ、保坂はまさに時間を描くことに長けた作家だ、と言う。言外に「ゆえにもっと評価されて(=売れて)いい」というニュアンスが色濃くあった気がするし、現に彼はそう明言した気もする。シラーズを開けてメルローも空になりかかっていたから、いつもの如く記憶は曖昧だ。
僕の意見もまた、両方に賛成、という面白味のないものだったけれど本音だから仕方ない。ともかく、「プレーンソング」を読んで浮かぶあの風景を映画化したら劇場が埋まるか、というと、とてもそうも思えない。そもそも、同作を人に勧めるにしても「泣きながら一気に読んだ」とか「結末で衝撃を受けた」なんて言い方はできない。だからA君の好評価にも頷きつつ、B君の職業的な判断もまた、極めて妥当だろうなぁと思う。
その翌日。今度はあるアニメ会社の人達と新宿で痛飲する。閉店した店でマスターの弾き語りに合わせてみんなで何かを歌ったというかすかな記憶や、帰りのタクシーで携帯電話を忘れてそれに気づかずに降りたという事実から、「痛飲」と言うのだけれど。
さて、さらにその翌日。レシートを頼りにタクシー会社に電話をしたら、幸いにも「待ち受け画面が犬の写真」の電話は練馬の営業所にあると言う。こういう事は初めてじゃないから、木場辺りも覚悟していたけれど、練馬で良かった。売却間際の車で、ナビを頼りに練馬区貫井というところまで行く。そこで道路標識に「中村橋」なんて地名を見て、これはこのあたりの地理に疎い僕にとっては保坂和志と同義だから、自ずと保坂のことや前々日の会話なんかを思い出す。
そして突然、六本木で話したことや携帯電話を取りに見知らぬ土地に来ていること、さらには、夏の日差しを受けた平和な町並みを歩くことさえもが、僕の人生の一部として記憶にとどめるべき体験のように思えてきた。もちろん、これらは僕が商社を退職してアメリカに留学するという大きな物語に比べたら何ら劇的ではないのだけれど、この大小の狭間にあって両者はまったくの等価に感じられもした。
それは僕がひどい二日酔いで弱っていたかも知れないけれど、弱っていると小さな差異に敏感になるのもまた、経験から言って事実だ。写真を撮るとき、暗い所に絞りを合わせると明るい部分が全て「飛んで」しまうように、小さな物語に近づくと大きな物語は「飛んで」しまう。逆もまたしかり。
どちらの物語がより優れているか、ということはない。保坂は、この小さな方の物語に焦点を当てる、というだけだ。ただ、それゆえに、磯崎氏の言葉を振り返れば、保坂は生活の時間の流れ方を描くことになる。大きな物語はいわば箇条書きにできるので、ゆえに、前後関係さえ合っていれば時間の流れ方そのものはさして問題にならないようにも思える。
練馬を離れて丸の内へ行き、タフツ大学フレッチャー校に行く人達とランチをして、帰宅してから保坂の「プレーンソング」を読み返す。通りで猫を見かけたり、友人が家に来たり、競馬をしたり――僕らの人生を彩るそれらの小さな出来事の物語性。あるいは、それらの出来事ひとつひとつには物語性など何らなかったのだとしても、その集積として感じられる物語。これを描くには、作品中の時間のスピードのなかへ、読者を引き込む必要がある。
僕たちの生活が本当はダラダラと流れるものだ――そんな風にすっかり諦めてしまった上で読むと、「プレーンソング」のこのリズムは気持ちがいい。読み終わっても、僕は泣きもしなければ笑いもしないだろう。だって、僕らの日常というのは大概、そういうものだ。けれど、読んでいてすでに、何かを慈しむような優しい、そしてすこし寂しいような気持ちになる。それはきっと、僕が死んで人生を箇条書きにしたらきっと言及されないだろう、こんな風にダラダラとした一日一日を、それでも――あるいはそれゆえに――いとおしむ、そんな気持ちなんじゃないかな。
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