- 2009-09-28 (月) 11:39
- MBA留学記

今朝のフィナンシャル・タイムズに、イェール大学の経済・金融論の教授であるロバート・シラー氏が「金融革新の弁護(In defense of financial innovation)」と題した記事を寄稿していた。MITのサイモン・ジョンソン(Simon Johnson)教授は僕たちの入学の日に、金融革新は社会に価値を与えていない、という立場で論じていたから本稿はそのような主張への反論になる。興味深いのは、あらためて「信用」というキーワードが浮かび上がってくることだ。
シラー氏は、金融危機の火種と批判されるRMBS(住宅不動産担保証券)も、現に住宅の取得促進に寄与したことを指摘。他にも、ライフサイクル・ファンドやインフレ連動年金などの新しい金融商品は、個人の経済保障に役立つとしている。けれども、これらの商品に対してその価値に見合うだけの買手がついていないことも論じ、それは金融機関に対する消費者の信用が低いためだ、としている。
現に、これらの商品の真価が発揮されるのは購入から数十年経った後で個人が退職してからだろうから、スーパーのトマトのように帰宅後すぐに品質が明らかになる、というものではない。さらに、実際に格付け機関を誤解させるべく設計された商品もあり、ただでも金融商品の品質が分かりにくいことに加え、金融機関への不信が革新的な商品の普及を妨げているというのが記事の主旨だ。
この議論には一方で、アメリカの消費者に対する金融機関の信用、についても想起させられた。例えばブログ「厭債害債」は「戦略的デフォルト」という記事で、住宅ローンと住宅価格の差額で債務超過になった消費者のうち、金利が払えるにも関わらず債務不履行を選択する事例を紹介している。ブログ「金融日記」はさらに歯に衣着せず「サブプライムローン問題は、結局のところ、貧乏人が分不相応な家を買うと言う真夏の夜の夢がはじけたと言うことです。お前ら、貸した金返せよ!」と断じる。
金融機関に対する消費者の不信が金融革新の価値実現を妨げているとしたら、消費者に対する金融機関の不信もまた、――例えば高い貸付金利となって――マネーの円滑な流通を阻んでいるように見える。先刻の金融論の授業は、例えば僕自身の住宅ローンの「固定金利」を実現した仕組みを改めて意識させるもので、つまり、初歩的ながらも金融技術の社会的便益を思わずにはおれなかった。僕自身の立場はジョンソン氏よりもシラー氏に近く、さらに加えるならば消費者側の信用――あるいは民度――も望ましい金融市場におけるインフラとして考慮すべきだろうと思う。
もちろん、不要に複雑化した金融商品というのは淘汰されるべきだろう。けれど、そのような淘汰もまた、市場原理の中に期待すべきだろう。数週間前のフィナンシャル・タイムズ紙は、「今までの道具で直せるものも新しい道具を使って直したくなるのは、配管工から銀行家まで変わらない」という旨を書いていたと思う。このような誘惑は普遍的な事実だろう。けれど、そのような非効率を排除することこそ、まさに、市場原理の根幹なのではないだろうか。
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