- 2009-11-01 (日) 16:31
- MBA留学記


中間試験が一段落ついたので、以前Kajken氏がツイッターで「素晴らしすぎて人に会いたい。この本について心から誰かと共感したい。」と絶賛していたトルーマン・カポーティの短編「誕生日の子どもたち」を読む。全体としてはノスタルジックなんだけれども、一方で細部の小気味良いテンポはスタイリッシュだ。この作品を読み終えたのは3日前だけれど、僕はまだ、特に冒頭と結末とに置かれたスパイシーな数行の余韻に浸っている。


1ヶ月以上寝かせた単行本と電子辞書を片手に家を出る。レンガと紅葉とは本当に良く似合う。僕はチャールズ街のピザ屋アッパー・クラスト・ピッツェリア(the Upper Crust Pizzeria)へ。そこで本日の一切れを頬張り、同じ通りのカフェ・ベッラ・ヴィータでごつごつのチョコチップが入ったミントのアイス・クリームを食べる。こうして数時間を過ごす。同級生とのパーティの前に訪れた、とても久しぶりの静かな時間だ。こういう時の一冊が「誕生日の子どもたち」であったのは幸運だった。
主人公ミス・ボビット一流の言い回しにはいちいち痛快な気分にさせられる。「さあ、よく聞きなさい、プリーチャー・スター。私は恋人なんか欲しくないし、仮に欲しかったとしても、それはあなたじゃないわ。現にあなたは、レディーが部屋に入って来た時に立ち上がりもしないじゃない」。この台詞の主が10歳の女の子だなんて、実に英雄的じゃないか。彼女が退屈な田舎町を揺さぶる英雄譚は、もちろん、こんなものではない。


破天荒な少女がバスの土煙とともに田舎の停留所に現れる。そんな出来事は、いつまでたっても垢抜けない小僧であるところの僕たちにとっては、やはり永遠の憧憬なのだろう。
「メンフィスや、ニュー・ヨークや、ロンドンや、ハリウッドや、パリのような町の男の子たちもこんな風に振る舞うとでも思っているの?」なんて詰問されると、小僧たちはたじろいでしまう。だから小僧たちはいずれ、実際にどう振る舞えばいいものかと、それらの都市――あるいはボストンを――を覗いてみたりもする。結局のところ僕たちは未だにプリーチャー・スターやビリー・ボブのように未熟であって、そして幾ばくかはミス・ボビットのように外の町に夢見がちであることを、この短編は思い起こさせてくれる。
これはコジツケになるかも知れないけれど、話は「世界を大いに盛り上げるミス・ボビットの団」のごときボビットのマイペースな企てを中心に回り、そう思うとボビットは涼宮ハルヒっぽくもある。彼女たちは田舎や地球に辟易していて、ハリウッドや宇宙を夢見るのだ。進行は三人称による叙述が主で、「私」は単独ではほとんど登場しない。中盤ようやくで「ミスターC」――カポーティ本人のように思える――と名が明かされる「私」はあくまでも観察者なのだ。それはちょっとキョンを思わせなくもない。
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