The SYNTAX ERROR Blog » 聴く http://www.thesyntaxerror.net MIT Sloan / London Business School MBA留学記 Mon, 22 Nov 2010 02:24:03 +0000 http://wordpress.org/?v=2.8.6 ja hourly 1 AR Commons設立記念キックオフ・シンポジウム http://www.thesyntaxerror.net/2009/07/11/135235 http://www.thesyntaxerror.net/2009/07/11/135235#comments Sat, 11 Jul 2009 04:52:35 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=959

7月10日、家にいようかと思ったら、金正勲先生のTwitterでAR(Augmented Reality、拡張現実)のシンポジウムを知りドタ参させてもらうことに。ARについては東大のデジタル・ミュージアムでの坂上健教授の作品を見て興味を持っていたけれど、いよいよ盛り上がってきた感じだ。今年2月にTEDで発表されたMITメディア・ラボのシックス・センス(The Sixth Sense)の映像はネット上で話題になり――僕自身も興奮した――、スマート・フォンの普及と相俟って、ARは話題としてかつてほど突飛なものではなくなってきた。

「映像によるプロジェクト・ショーケース: ARの新たな地平を切り開く世界のパイオニアたち」として紹介された世界のAR事例は以下の5つ。

  1. Layar
  2. PTAM/Active Vision Group, Department of Engineering Science, University of Oxford
  3. Amateur Practice enhanced by AR/IRI-Centre Pompidou
  4. Sirikata Project/Stanford Humanities Lab
  5. Sixth Sense /Pranav Mistry from the MIT Media Laboratory

なかでも一番カッコよかったのが、やはりMITメディア・ラボの「シックス・センス」で、これについては岩渕先生も「新しい技術の見せ方として学ぶべきものがある」というコメントをされていた。まさに、百聞は一見に如かず。井口氏によるセカイカメラも実演ということもあって迫力があったし、何よりも、iPhoneとそのアプリケーションで作動する、という点では圧倒的に手近なAR装置であることを見せつけた。

講演では赤松先生が仮想現実(Virtual Reality、VR)とARとの比較で、VRについて、「なぜわざわざ現実を作るのか? それは途方もない徒労である」と一喝。確かに、PC上で現実の劣化コピーを構築するよりも、「何よりも強力なまここにある現実出発点として」情報を付加していった方が効率的に思える。それにしても、「現実空間には一番リアリティがある」なんて議論が真面目になされる現代って、不思議な時代だ。それはまるで、自分の定義からはじめないと自分が誰だか分からなくなるような、そんな危うさ――あるいは可変性――を孕んでいるように見える。

ARはいわば、危うくも便利なその仮想空間を、現実に引き戻すバランサーのようだ。「ネットの向こう側とこちら側をつなげる」、という井口氏の説明がそれを端的に表わしている。ネットに広がる広大な情報空間をそれはそれで肯定しつつ、しかし、最終的な立脚点としてはあくまでも物理空間の側に立つ、という意気込みがある。このシンポジウムで中尾氏が「汗」、「土」、「セックス」というような体感に言及するのはともすると唐突に聞こえるけれど、僕たち自身の構成要素であるそれらから離れるな、という文脈で僕も同感だった。

他に面白かったのは、今後ネット上で非言語による自己表現が広がっていくのではないか、という海部氏の予感。また、荻野氏の、人々はTwitterなどの断片化した情報で満足するようになっているのではないか、という指摘も面白い。情報の権威がフラット化すると同時に、情報の構成自体にも断片化が進んでいるのだろうか。そういえば、Twitterについては海部氏も「コミュニケーションの流しそうめん化」なんて面白い表現をしていた。

一方、硬派なところでは古川氏はARは戦争が生んだ技術であり、これを平和や文化のために利用するべきで、使い方によっては中傷などで人を傷つけうる、という警告は示唆的だった。ARを誰かに説明するとき、「ドラゴンボールのスカウターのようなもの」というのが一番分かりやすいけれど、それって要は戦闘機のディスプレイと同じってことだ。また、ARによるタグ付けについて、加藤先生が提示した「知る権利」、「知る義務」、「知らせる権利」、「知らせる義務」という四象限――、これだけでも随分議論ができそうだ。

VRは結局のところアーケードのレース・ゲームを提供するに留まっているように見えるけれど、ARはいわばカーナビとして僕たちの物理的な生活により直接的な影響を与えうる。もちろんいいことばかりではないかも知れないけれど、技術や僕たちユーザーがこなれていくことを素直に期待したい。楽しみだ。

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サイモン・アンド・ガーファンクル予習 http://www.thesyntaxerror.net/2009/07/10/122806 http://www.thesyntaxerror.net/2009/07/10/122806#comments Fri, 10 Jul 2009 03:28:06 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=953

翌日はサイモン・アンド・ガーファンクルのコンサートなので、夕食のあと、ベスト盤の「The Definitive Simon & Garfunkel」の全曲を歌詞を見ながら聴く。電車で来日公演のポスターを見て、父の誕生祝いにちょうどいいと思ってチケットを予約したのだけれど、このコンサートは僕自身にとってもまた楽しみだ。それに、こんなことを言うのはちょっと不謹慎かも知れないけれど、マイケル・ジャクソンのことを思えば、偉大なアーティスト達は見れるときに見ておかなきゃ、という気分にもなる。

「サウンド・オブ・サイレンス」や「明日に架ける橋」のような超名曲ももちろんだけれど、このアルバムに収められた曲はどれも好きだ。そんな曲を敢えて3つ挙げるとすれば、「アメリカ」、「早く家に帰りたい」、そして「水曜日の朝、午前3時」かなぁ。

「アメリカ」が歌う、恋人たちの若さに満ちた高揚した気分、そして、世界の大きさに戸惑う気持ち。これらはいずれも僕がアメリカという国でいつも感じる気分だ。ll come to look for Americaアメリカという国にいる人々はみな、彼らがそれぞれに抱く「アメリカ」を探しにきている。

「早く家に帰りたい」――中学生や高校生のころから好きな曲だったけれど、それは主にこの弾んだ曲調のためだった。この曲をさらに一段と好きになったのは、仕事をするようになって初めて need someone to comfort meてフレーズに共感したり、結婚をしてようやくnd every stranger’s face I see / Reminds me that I long to beいう気分を味わったりしてからだ。「ボクサー」の描く都会の乾きもカッコいいけれど、この曲の吐露するドサ回りの甘いセンチメントが特別に好きだ。

そして、「水曜日の朝、午前3時」。甘いメロディが描く平和な夜明け前の情景のなかで、しかし、「僕」が酒屋で強盗をして、そのために、愛する人のもとを去らねばならないことが告白される。まるで「罪と罰」を思わせる濃密なドラマで、ここでも男の罪状を未だ知らない女性が登場。犯罪を悔恨しつつ、にもかかわらずそれが scene badly written in which I must playようにも見える。「シュレーディンガーの猫」のようなこの状態は、夜とも朝ともつかない午前3時の時間の曖昧さによく似ている。けれど、朝が来ればすべてが明らかになる。

夜中までかかってようやく出来の悪い資料を作り、それで朝の会議に臨むときなんか、まさにこんな気分(笑)。それを思うと、いまの僕の気分は「59番街橋の歌(フィーリン・グルーヴィ)」が一番近いかも知れない。

I got no deeds to do
No promises to keep
dappled and drowsy and ready to sleep
Let the morning time drop all its petals on me
Life I love you, all is groovy
[The 59th Street Bridge Song (Feelin' Groovy)]

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岩瀬大輔氏・石倉洋子氏講演 - 第5回アントレ研究会セミナー http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/16/015022 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/16/015022#comments Mon, 15 Jun 2009 16:50:22 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=757

 6月15日、MIT Sloan卒業生のYさんの紹介でアントレ研究会のセミナーに出席。講演者はライフネット生命保険副社長の岩瀬大輔氏と一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授の石倉洋子氏。岩瀬氏は僕にとって同世代のロック・スターだし、石倉氏にはeラーニングで戦略論を学んだけれど、いままでお会いする機会はなかった。そんなわけで僕は、かなりミーハーな期待に胸を膨らませてこのライヴに臨む。

 岩瀬氏の講演「ライフネット生命の挑戦」で面白かったのは、「起業すなわちニッチではない」という命題。起業して40兆円の巨大な保険市場に正面から勝負を挑む、という発想がすごい。聞けばこのアイディアは、ブログを通じて岩瀬氏に興味を持った投資家が氏に接触して持ち込んだとのこと。自前で発想することも並大抵ではないけれど、このように斬新なアイディアが持ち込まれるネットワークも貴重だ。これは後半の石倉氏の講演にも重なるテーマだ。

 他にも新興企業に重要なこととして、岩瀬氏は、A) 誰からお金を集めるか、B) 誰とともに働くかが重要だという。前者に関しては、外部資本はできるだけ入れず、入れるとしてもヴェンチャー・キャピタルのではなくて事業会社の資本を入れるべきだという。その理由を要約すると、事業会社の方が1) 投資回収の視野が長く、かつ、2) 投資先事業とのシナジーも考慮されるため狭義の投資リターンへの執着が薄く、さらに、3) 新興企業側が投資元企業の顧客資産を活用し得る、とのことのようだ。

 ライフネット生命の大株主には三井物産の名前もあるように、上述の3点は日本の総合商社が得意とする投資先育成の手法のように見える。有望な事業に対し、リスク・マネーを供給することも十分意義のあることだけれど、リスク・マネーのみならず事業経営への支援も提供できるのならば、そのような投資家は出資競争に勝つ公算が高い。岩瀬氏の指摘は、被投資企業にとっての助言となるだけではなく、投資企業にとっても見逃せない視点を提供している。

 さらに備忘として、ライフネット生命の出口社長が岩瀬氏に助言したという「トップの仕事」。それは、1) 他の人がやれない方法での営業(ブログや講演など)、2) 従業員の顔をよく見て全員が笑顔で働けているかを確認すること、3) 会社の成功のために何をすべきかを考えること、だったという。2)については特に、全員が60%の力を日々出している方が、120%の力を出しているよりもいい、というのが印象的だった。後者は長続きしないので、前者のスピードで着実に進むことの方が望ましいという。

 「戦略シフトー組織も個人も」という石倉氏の講演もまた刺激的だった。「変化こそ日常」となり、「オープン化した世界」では組織の壁、民と官の境界、営利と非営利の境界が曖昧になる。さらに、学生の方が教授よりも最新事情に詳しいなど、「力関係のシフト」が起こるという。これらは全て、時代の肌感覚として同感だ。特に、アレかコレかのトレード・オフの「or」の関係を「and」に変える、「両極端の共存」という発想も面白かった。その延長線上のように聞こえたのが、今後はある分野での知識や技術よりも横断的な見方・感度・感性が価値を持つ、という石倉氏の主張。全員が横を向いてしまったら「前」が消えてしまうから、トップ・ランナーたちには引き続き各分野の先頭を走ってもらわないと困る。けれども、そのような少数のトップ・ランナーを除いては、確かに、層を横切る視野の方が個性という競争優位を発揮しやすいだろう。

 このように考えると、石倉氏の「人は誰にでも売りがある」という主張が表層的なお題目ではないと気づく。さらに石倉氏は次のように続ける。「売り」には外面的なものと内面的なものがあるものの、内面的な魅力は会ってみないと分からない。人は全員と会うことはできないから、外面的な売りである程度会う相手を絞る。だから、外面的な売りもまた重要になる、という。考えてみれば、今にして当然と思えるこの話を、僕は今まで誰からも聞いたことがなかった。「内面を磨け」という命題には反対しないけれど、それを「内面さえ磨いていたら誰かが拾ってくれる(はず)」という甘えに転化させてはならない。自分自身をマーケティングする責任を、日本の教育は教えてきただろうか。

 岩瀬氏に生命保険事業の話が持ち込まれたのも、彼の華々しい経歴や意欲的なブログがあってのことだろうし、それらを通じて氏がパーソナリティを伝えてきたからだろう。石倉氏は、これから必要な5つの能力として、「基本となる体力とバランス感覚」に加えて、「現場力」・「表現力」・「時感力(時間に対する感性)」・「当事者力」・「直観力」を挙げる。ここに表現力が挙げられていることは、いわば自身のマーケティングの問題と表裏一体の関係なのではないだろうか。誰かが拾ってくれるという前提はもはや成立しない、と言っては言い過ぎだろうか。

 最後に石倉氏は「自分への質問」として次の3つを問うように勧める。1) 何がユニークなのか。私しかできないことは何か、2) 何が今までと違うのか。昨日の自分と今日の自分の違いは何か、3) 目標を達成したらどんな世界やどんな自分になっているのか。これらを自らに問い、将来から逆算して(backcast)行動せよという。

 ほかに、石倉氏がテーブル・フォー・トゥー(Table for Two)について言及したのは興味深かった。同プロジェクトは、世界経済フォーラム年次総会(ダヴォス会議)がヤング・グローバル・リーダーズ(Young Global Leaders)として選出した、浅尾慶一郎氏、茅野みつる氏、堂前宣夫氏、古川元久氏、近藤正晃ジェームス氏、中田宏氏、ヤト・シウ(Yat Siu)氏らを中核メンバーとしているからだ。石倉氏はダヴォス会議には何度も参加されているようで、この言及にはそのような人的ネットワークの強さを感じさせられた。

 備忘として、両者の講演で言及されていた本と発言を記録。伊藤雅俊「商いの心くばり」(岩瀬氏)、西水美恵子「国をつくるという仕事」(石倉氏)。岩瀬氏の著書・訳書も面白そうなので、いずれ。

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http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/16/015022/feed 0
スコットランド友好150周年記念コンサート http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/24/104235 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/24/104235#comments Sun, 24 May 2009 01:42:35 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/24/104235

 4月6日、伯父より招待され、スコットランド国際開発庁主催の「スコットランド友好150周年記念コンサート」を初台のオペラシティで聴く。プログラムの第1部は「スコットランドと日本を題材とした純粋なクラシック音楽」で第2部は「スコットランドのゲストアーティストによる演奏」。曲目もさることながら、途中で民族衣装に身を包んだバグパイプ隊が桟敷で演奏したり、最後には客席のスコットランド人と日本人とが文字通り手に手を取って「蛍の光」を歌ったり、単なる音楽鑑賞というよりは祝祭として楽しい時間を過ごした。


 第1部で印象に残ったのはハーミッシュ・マッカン(Hamish MacCunn)の「山と溢れる泉の土地(Land of the Mountain and the Flood)」で、オペラ音楽を思わせるような音楽で迫力ある音楽空間がコンサートの幕開けを飾った。次に演奏された伊福部昭の「交響譚詩」は前の曲と同様に劇的ではあるのだけれど、それはオペラというよりももう少しポップで映画のシーンのようだった。プログラムによれば伊福部昭は「ゴジラ」の映画音楽の作曲家ということで、納得。これが「純粋なクラシック音楽」というのかはよく分からないけれど。
 第2部ではバグパイプ隊の加わった「ハイランド・カテドラル(Highland Cathedral)」が圧巻で、人々をして息をのませる自然の優美、そして自然への畏敬の念が立ち上るようだった。スコットランドの音楽を、少なくともそう意識して聴くのは初めてだったけれど、全体を通じて繊細さや素朴さが感じられた。管楽器が奏でる勇壮さの中にも、ともするとメランコリックな悲哀がある。このあたりが、日本人の気質に好まれる所以なのかも知れない。
「勇敢なるスコットランド」

「ロッホ・ローモンド」

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ジプシーの呪い - ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」 http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/20/041601 http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/20/041601#comments Thu, 19 Mar 2009 19:16:01 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/20/041601


 2月28日、メトロポリタン歌劇場(Met)でヴェルディ(Giuseppe Verdi)「イル・トロヴァトーレ」(Il Trovatore)を観る。前日東京で観たジンガロ「バトゥータ」が描いた自由の民としてではなく、どこか空恐ろしい呪詛の民としてジプシーが描かれる。ジプシーの女アズチェーナが、先代の伯爵に母を殺された報復に、その伯爵の子である次代の伯爵をしてその実の兄弟(お互いにそうと知らない)を殺させる、という復讐劇だ。多少無理のある筋書きでも、しかし、壮麗なアリアの連続がぐいぐいと観客を牽引していく。「復讐は成った!」というアズチェーナの最後の叫びには無常感とカタルシスが同居していて、この「引き」の目線が本作の醍醐味なんじゃないかな。



 まず、本作はデイヴィッド・マクヴィカー(David McVicar)による演出で指揮はイタリア人指揮者のジャンアンドレア・ノセダ(Gianandrea Noseda)。Met、リリック・オペラ・オブ・シカゴ(Lyric Opera of Chicago)、サン・フランシスコ・オペラ(San Francisco Opera)の共同制作による新作で、2006年にシカゴで初演されたらしい。原作の舞台は15世紀初頭の内戦下のスペインであったものを、マクヴィカーは19世紀の半島戦争中の同国にしている。そこで舞台美術のチャールズ・エドワーズ(Charles Edwards)は、同戦争を生きたスペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco de Goya)の連作銅版画「戦争の惨禍」に着想を得たという。

 このゴヤのイメージは驚くほどフィットしていて、真骨頂は上に貼り付けた金床の情景だ。絵画が動いているとしか思えないシーンで度肝を抜かれた。このシーンではさらに、ジプシーの男たちがリズミカルに金鎚を金床に打ち下ろすので、まるで「マッスル・ミュージカル」を観ているかのようなキャッチーな楽しさがある。ニュー・ヨーク・タイムスによると、どうやらこれは、本来舞踊のない歌劇にも関わらず振付師リア・ハウスマン(Leah Hausman)が制作に参画していることによるみたいだ。ともすると重苦しいだけの復讐劇のなかで、このシーンの軽快さは際立って楽しい。

 隣に座った老婦人によると劇場の幕も話題になっているそうだ。パンフレットによると、その幕はゴヤの1821年の作品「サン・イシドロの泉への巡礼(Pilgrimage to San Ishidro)」の部分拡大なのだそうだ。この幕に描かれた、怒り、悲しみ、あるいは絶望する人々の姿は「イル・トロヴァトーレ」の悲劇そのものだ。母を火あぶりにされたアズチェーナが、その無慈悲な火刑を下した伯爵家への復讐を誓う。彼女は伯爵家の二人の息子のうちマンリーコを我が子として育て、彼にその出自を教えぬまま、彼の実の兄弟であるルーナ伯爵への仇討をけしかける。この兄弟は悲劇のヒロインとなるレオノーラをめぐる恋敵でもあって、さらに内戦の混乱が物語に影を落とす。

 ここでジプシーのアズチェーナは魔女のようにも見えるのだけれど、そうではないことは物語の冒頭に注意すると明白だ。アズチェーナの母は伯爵家の幼子の様子を見ていただけで、子どもに呪いをかける魔女として火あぶりにさせられてしまう。その伯爵家へ復讐を誓う彼女の動機に不思議はない。この物語が描く最大の理不尽は、母が魔女と疑われ焼き殺されたそのことによって、娘がまさに魔女のような復讐鬼となってしまうことだ。アズチェーナの母の話は、冒頭の衛兵の会話を聴き逃すと(僕は字幕なので「見逃すと」だけれど)、なぜ火刑になったかが分からなくなってしまう。

 いや、その「なぜ」が再度説明されることなく物語が進むそのことこそ、実は、この物語が描く諍いの呪いなのかも知れない。復讐劇の火蓋は、幼いアズチェーナが、母を焼き殺されるのを目の当たりにしたその時に始まっている。その昔話として語られる動機が、救いのない結末へと愛憎劇を転げ落ちていく。それは物語の遠景をなす戦争そのものにも通じて、ゴヤの「戦争の惨禍」に結像する。ジプシーの呪いなどない、ただし、そんな濡れ衣を着せることは災いを招く呪いに他ならない。この歌劇にもしも教訓を求めるとしたら、そういうことなのかも知れない。

 ちなみに、エイヴリー・フィッシャー・ホールでオーケストラを聴いたときもそうだったけれど、Metでも劇場で配られるパンフレットがめちゃくちゃ充実している。全体で73ページもあり、あらすじやキャストの紹介があり、今回の演出の見どころが説明され、さらに「イル・トロヴァトーレ」についてローマでの初演からMetでの公演履歴まで詳説されている。巻末の3分の1くらいは本公演や劇場への協賛者のリストになっていて、この1冊だけでオペラで人々を魅了して新しいパトロンを獲得しようとする、いわば歌劇の守護者としてのMetの情熱が感じられる。

 さらにMetの配慮で驚いたのは字幕表示装置で、各座席の手許、ちょうど前の席の背もたれに据え付けられている。ボタンを押せば英語、ドイツ語、スペイン語の字幕が表示されて、もちろん字幕を消すこともできる。隣の老婦人は、これがお気に入りで、Metの常連として自慢気でもあった。確かに通常の舞台上部にある字幕は、特にお年寄りには遠くて読みづらいだろうし、ドイツ語やスペイン語を同時に表示するのは無理がある。さらに、この手元の字幕も、ただでも必要にして十分な薄い光なのだけれど、それが隣席に漏れないように表面に偏光フィルムが貼られている。芸が実に細かい。

 ともするとハンバーガー的豪快さがアメリカの骨肉、というような印象を持ってしまうのだけれど、オペラというハイ・カルチャーを通じて、この偏光フィルムのようなアメリカの繊細さに触れられたのも到着初日を飾るに相応しい発見だったなぁ、と思う。

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http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/20/041601/feed 0
メトロポリタン歌劇場 http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/15/200207 http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/15/200207#comments Sun, 15 Mar 2009 11:02:07 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/15/200207


 木場で「バトゥータ」を観た翌日の2月28日、ニュー・ヨークのメトロポリタン歌劇場(Met)でヴェルディのオペラ「イル・トロヴァトーレ」を観る。機内では「007 慰めの報酬」、「マダガスカル2」、「たそがれ清兵衛」の3本も映画を観てしまったせいで大して寝てもいないのだけれど、晴れた午前の空に伸びる摩天楼を見ると気分が高揚する。レキシントン街と53丁目の角で地下鉄を降りて、西に歩きながら考える。MoMAも気になるけれど見送って、ちょっと小腹が空いたのでホット・ドッグをかじりながら、やっぱりMetに行こうと決める。土曜のマチネーで新作のヴェルディ「「イル・トロヴァトーレ」をやると調べていたので、憧れのMet初体験を飾ることにする。



 窓口でドレス・サークル(Dress Circle)という4階席のチケットを125ドルで買って、まえに出張の合間に訪れた隣のエイヴリー・フィッシャー・ホールのトイレで、盛り上がった気分の表出としてスーツに着替えてタイを締める。英国王立歌劇場で買った紙製のオペラ・グラス、出番もないのに長々と旅行用ポーチに入れていたんだけれど、なぜか今日に限って持ってきていない。劇場の地階で本式のグラスをレンタルして準備万端。
 赤いカーペットが敷き詰められたメトロポリタン歌劇場の内部は想像以上に華麗だった。さらに、うろうろ検ていて行き当たったレストランでは、そこが会員制である旨を伝えられて丁重に追い返されつつ、その空間が持つ、市井の喧騒から隔絶された重厚さに驚いた。このザ・メトロポリタン・オペラ・クラブ(The Metropolitan Opera Club)は紹介制とのことで、アメリカにおけるクラブ社会の外壁に触れた気分だった。

 さて、初めて足を踏み入れる場所の新鮮さと、上記のような多少のウェー感ほぐしてくれたのは隣の座席に座った老婦人だった。彼女の夫は日米協会か何かに勤めていて60年代に夫婦で東京に住んでいたそうだ。「東京文化会館が出来てすぐ上演する作品にプッチーニの『蝶々夫人』を選ぶのははいかがなものでしょう」、という彼女に僕が言えることといったら、「数年前に新宿の近くに新しい歌劇場ができましたよ」くらいだったけれど。
 彼女はこの4階席の3列目で通路側の席がお決まりのようで、視界が通路によって開けているからオーケストラ・ピットの中を含めて全体が見渡せて気に入っているという。こちらは飛び入り参加だから、そういう熱心なファンにはいろいろと教わることが多い。「イル・トロヴァトーレ」については改めて書くとして、例えば、「金融危機で協賛が減ってオペラの製作資金が減っている」なんて話も興味深い。
 僕がMetを初めて意識したのは1988年製作のプッチーニ「トゥーランドット」をDVDで観て、その舞台の絢爛に圧倒されてからだ。老婦人は、Metの舞台が時に派手すぎて「ブロードウェイ的」になるのは好まないと言っていたけれど、良くも悪くも派手さはMetの特徴じゃないかと思っていた。僕は「簡素な舞台の方が音楽に集中できるでしょうね。本来オペラは音楽ですから。」なんて、あながち嘘でもないものの適当なことを言って隣人を喜ばせつつ、「イル・トロヴァトーレ」の幕開けを待つ。
 思えば前回のニュー・ヨーク出張は、夕方空港に降り立ってホテルに直行、チェック・インしてすぐに1番街あたりのピアノ・バーで同僚たちと合流。ウィスキーの水割りを飲みながら日本人の女の子たちとを他愛もない話をして、2件目のカラオケでオレンジ・レンジを歌う、なんて具合で六本木と瓜二つだったから僕の旅情は不完全燃焼だった。
 それに比べて今回は休暇だから、空港からはタクシーではなくて地下鉄で移動して、ホテルも定宿のシェラトンではなくてアッパー・ウェスト・サイドの安宿で風呂も共同。けれど、この旅情と自由はプライスレスだ。学生時代に初めてこの街を訪れたときも、YMCAに泊まって旅費を削りながら美術館代とビール代を捻出していた。
 学生時代のそれに似たスピリットを持って、マンハッタンに足を踏み入れるこの気分は何物にも代えがたい。そして、初めてのメトロポリタン歌劇場をこの気分で迎えられたことが、ただそれだけで嬉しく思える。ニュー・ヨークはなぜか、どうでもいい若さをどうしようもなく輝かせる。

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そうかヘリウムだったのか - パフューム http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/110602 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/110602#comments Sun, 28 Dec 2008 02:06:02 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/110602


 「原資産なきデリヴァティヴ」などと言って込めていた力がへなへなと抜けるような映像を発見。忘年会シーズンは過ぎてしまい、かつ、上司諸兄がパフューム(Perfume)を知っているか怪しいけれど、ネタとしてはありなんじゃないかと。


 ちなみに、「パフューム クチパク」でググってみるとこんな投票を発見。

      クチパクのままでいい …48.2% 228票
      クチパクやめたらボロボロだろ …22.4% 106票
      クチパクなら歌わなくてもいい(解散しろ!) …16.3% 77票
      加工なしの生声で歌ってほしい …4.9% 23票
      一発屋なので興味なし …3% 14票
      生声で息づかいを聞きたい …1.7% 8票
      Perfumeでは口パクで良し。ソロ展開して生声を聞かせて。 …1.1% 5票
      安室・マイケルのようにどっちも取り混ぜ …0.8% 4票

      武道館では生バンドがつくよね …0.4% 2票
      生ボコーダーで歌ってほしい …0.4% 2票
      総合芸術だと分からない奴は可哀想 …0.4% 2票

      ウチパク …0.2% 1票
      クチパクにしたからこそ成功した …0.2% 1票
      3人の間隔が広がるとポジション入れ替わりが大変だ …0% 0票
      テクノだし歌い上げる音楽で無いのでむしろECO …0% 0票
      勝ち組セレブですから・・・0% 0票

 ヴォコーダーというシンセサイザーの存在を知る。ようはヘリウムのようなものらしい。

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http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/110602/feed 0
原資産なきデリヴァティヴ - パフューム http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/26/214528 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/26/214528#comments Fri, 26 Dec 2008 12:45:28 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/26/214528


 テレビをつけたらパフューム(Perfume)が出てて、1年前の衝撃を懐かしく思い出しながら「ポリリズム(Polyrhythm)」のライヴを聴く。ん、ライヴ? その番組は「ミュージック・ステーション・スーパー・ライヴ」と銘打っているのだけれど、パフュームにとってのライヴってのは何なんだろう? テクノにライヴはあるのか、というテーマへ回帰。そして、パフュームはつまるところ、原資産なきデリヴァティヴなのではないか、と。


 まず、「パフュームはクチパクではない」という命題を謳おう。これはファンの妄信度ではなく、被写体深度の問題として、だ。あるいは、電子的な加工を経てようやく創出された楽曲に対し未加工の生声を乗せるのは「生演奏」なのか? 生がそもそも存在していない音楽を、生で「再現」することはできない。それはいわば新たなインスタレーションか、あるいはカラオケというべきものだろう。つまり、「本来は」生の声で歌うべきところを音源に頼る、という意味でのクチパクはパフュームにはできない。
 中学生の頃、赤坂のゲーテ・インスティチュート(Goethe-Institut)へテクノ音楽についてのパネル・ディスカッションを聴きに行ったのを思い出した。その議論から飛躍して勝手に意識し、そして独り衝撃を受けたのは、「テクノ音楽は再生されるまで一度も空気に触れていない(ことがある)」ということだ。録音媒体を自室のステレオで再生することを思い浮かべて欲しい。クラシック音楽もロック音楽も空気の振動を記録したものを再現しているのであるから、それは例えば左右のスピーカーの位置の問題として、再現性の巧拙が問題になる。ところが、テクノ音楽には再現すべき物理的な位置関係なんてそもそも宇宙空間にかつて存在していない。それは再現ではなくて、デザインの結果としてそこで初めて表出する音なのだ。
 パフュームの場合は単なる器楽曲よりも入れ子構造になっていて、彼女たちの歌声は確かに声帯を通じて一度空気を揺らしているのだけれど、それは飽くまでも、しかし意図的に、作品の素材として「サンプリング」されたものだ。だから、パフュームの声は西脇綾香、樫野有香、大本彩乃の声とは等しくない。それはいわば原資産としての西脇らの声から派生したデリヴァティヴだから、もし厳密な意味で生演奏をしようとしたら――それすらも近似的でしかないけれど――、リアルタイム・エフェクターを使うことになるのだろうか。
 原資産としての西脇らの声はどこかのスタジオのマイクを通じて電子化されてハード・ディスク・ドライヴに格納され、それらは少なくとも商業的には再現を目的として再生されることはもうないだろうし、そうでない部分はとうに消音壁に吸い込まれてしまった。パフュームのライヴは、ある意味では、西脇らがパフューム的なるものを追悼するレクイエムなのだ。だから、それをクチパクと呼ぼうと何と呼ぼうと、聴く者は結局のところ「やっぱり本物がいい」ということでYouTubeをクリックしたりするんだ。原資産がないがために、逆説的に、パフュームというデリヴァティヴが生み出すバブルもまた、弾けることがない。

くり返す このポリループ
ああプラスチック みたいな恋だ
またくり返す このポリリズム このポリリズム
(中田ヤスタカ「ポリリズム」)

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三宿ナイト - ビストロ喜楽亭とWeb http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/18/121549 http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/18/121549#comments Sat, 18 Oct 2008 03:15:49 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/18/121549

 ふかわりょうが回すということで、三宿のWebに行くことに。クラブに電話したら、ふかわは23:00から回すということで、早めの展開。店に入る前に、前から評判を聞いて気になっていたビストロ喜楽亭で壺焼きカレーを食べることに。先週末に車で通ったら行列ができてて諦めた分、それでさらに気になっていた分、行列なしにすんなり入れたフライデー・ナイトは嬉しいような拍子抜けのような。下手したら10年ぶり近いWeb、ファンキーでいて大人っぽい印象は相変わらず。とはいえスーツでごめんなさい。


 喜楽亭で、僕はスペシャル・ビーフ・カレーを、妻は普通のビーフ・カレーを注文。フツーに旨いんだけど、とはいえフツーに旨いというくらいなので、あんまり高いの頼まなくていいかも、という至ってフツーの結論。スペシャル・ビーフ・カレーは1,500円で、ビーフ・カレーは900円くらいだったかと思うけれど、後者の方が圧倒的にコスト・パフォーマンスが良くて――というか同店比1.7倍の価値を創造するのは大変だよね――、その差額600円はビールに回した方がいいかもなのです。といいつつ、もちろんビールは飲んだ上にガーリック・ナンまで食べて準備万端。
 さて、Web。入店したらもうふかわが回してるわけですが、良く言えばラウンジー、悪く言えば枯れた選曲。かなり神経質そうなDJが醸す朝方のチル・アウトみたいな雰囲気に飲まれ、僕も思わずミモザなんかを飲まれてしまうのだけど、これは始めだけだったみたい。次に入った坂井壱郎のアゲっぷりといったら。m-floありbirdありと泣けるJポップを織り交ぜつつ、ロック・チューンでぐいぐいと突き上げる。DJブースの本人が没入感満点で、「スタッフが空き時間をつないでます」的な前任のふかわとのギャップに衝撃。ミモザなんか飲み干してコロナ、首持って踊れコロナ。
 フロアが過熱したところで、ふかわ。今度のふかわは打って変ってテンション高め。身振り手振りでクラウドを先導。エレクトロで多少ストイックな世界観はそのままに、厚めのベースラインを轟かせて、これぞクラブ的なカタルシス。久しぶりのクラブだったけれど、異様に女の子が多かったなぁ――8割くらい?――という印象。確かに僕も妻に誘われなければ来なかっただろうから、男子も元気出して家内と。いや、出してかないと。

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ベーゼルドルファーとスタインウェイ http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/11/234020 http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/11/234020#comments Sat, 11 Oct 2008 14:40:20 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/11/234020

 親族が半ばライフワークとして主催するコンサートへ、もしかしたら10年くらいぶりに行く。「オペラの魅力」と題した今回は、小松勉氏のピアノと島田美香氏のソプラノで、オペラのアリアとピアノのソロをほぼ交互に織りなす構成。ステージ上には2台のピアノが並んで、ソプラノの伴奏にはベーゼルドルファーを使い、ソロにはスタインウェイを使うという小松氏曰く「贅沢な構成」。「2台の音の出方を聴き比べてください」という助言通り僕は耳を澄ますのだけれど、聞き比べればその違いは明白で、いままで「ピアノはピアノ」と思っていた僕は耳から鱗が落ちる感じだったんだよね。


 まず、プログラムは次の通り。精神科医でラジオのクラシック番組も担当するという長崎達朗氏のコメントによれば、フィナーレを飾るような難しい声楽曲を冒頭に持ってくる意欲的な構成とのことで、その解説を待たずとも僕らは、島田氏の伸びやかなソプラノにのっけから圧倒。

  1. ショパン ワルツ第4番 ヘ長調 「華麗なる大円舞曲」
  2. ヴェルディ オペラ「椿姫」より 「ああ、そはかの人か~花から花へ~」
  3. モーツァルト オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」より 「恋人よ ぞうぞ許して」
  4. ショパン ノクターン ロ長調 作品9-3
  5. プッチーニ オペラ「ジャンニ・スキッキ」より 「私の優しいお父様」
  6. ガーシュイン 3つの前奏曲より 第1曲、第3曲
  7. ガーシュイン オペラ「ボギーとベス」より 「サマータイム」
  8. ショパン ポロネーズ第6番 変イ長調 「英雄」
  9. ヴェルディ オペラ「マクベス」より 「早く来て! 灯をつけてあげましょう」
  10. ベッリーニ オペラ「ノルマ」より 「清らかな女神よ」
  11. ラフマニノフ 「リラの花」
  12. プッチーニ オペラ「トゥーランドット」より 「氷のような姫君の心も」
  13. プッチーニ オペラ「トスカ」より 「歌に生き 愛に生き」

 小松氏は「スタインウェイは音がぽーんと上から出る」と話されていたけれど、たまたま最前列に座った僕はそれをある意味で検証することになる。最前列でステージを見上げるように聞いていた僕は心底「このピアノは調律が狂っているか、さもなくば、小松先生はソロで間違えまくっている」と思ってしまった。そんなことは、もちろん言うまでもなく、ない。休憩の後で席を後方、つまりステージよりも数メートル高い所に移して『英雄』を聴いて、僕は、自分の愚にもつかない懸念が杞憂であったことと、スタンウェイという楽器の特徴とを同時に知ることになる。
 最前列で聴いていた時、ベーゼルドルファーには違和感を覚えなかったけれど、スタインウェイの音は――あくまでも僕の主観だけれど――まったく聴くに堪えなかった。特に高音部はひどく調子っ外れに聴こえて、そのせいで、ソロも2曲目あたりになるとピアニストが手を右に伸ばすと僕は思わず身構えてしまうくらいだった。楽器の違いに考えが及ぶまで僕は、これは調律師か奏者かどちらが悪いのだろうかとばかり思案し、よもやピアニストとの十数年来に及ぶ親交が損じられないかと勝手に葛藤したりもしていた。スタインウェイの高音域と、それが生んだこの取り越し苦労で、前半のソロは僕は全く楽しめなかった。
 ところが、席を移ってから、スタインウェイは音をこちらめがけて明瞭に投げ込んできた。僕は杞憂が晴れたことも手伝って、ノリノリで『英雄』を楽しむ。実際に小松氏はこの曲をかなりンス・チューンに解釈していたようにも感じたけれど、観測地点を変えて音の立体的な軌跡を体感したために、僕は弦から飛び出す音符が見えるかのような印象すら感じ、それはミラーボールが反射するライトを浴びるような、そういう恍惚の感じだった。ファミコンの『忍者ハットリくん』のボーナス面で、跳ね上がっては飛び込んでくるくわけをただひたすらに浴び続けるような。
 そういう意味では、前半最後のソロで弾かれたガーシュインで、このミラーボール体験あるいはくわ験が出来なかったことは実に惜しい。
 一方のベーゼルドルファーに僕が感じたのは安心感だ。ソプラノを中心に据えた音の世界を半球体として半ば包み半ば縁取り、客席に向けてショーケースしていく音の豊かな厚みを感じた。指輪ケースのような重厚なプレゼンテーションだ。だから、島田氏の歌声に聴き入りながらふと、眼前のステージにはたった2人しか居ないことを意識すると、僕はひどく不思議な気分になる。1台のピアノが木張りの舞台にヴェルヴェットの内張りを一瞬で広げるがために、アリアをぶつ切りに聴く唐突さを感じさせないまま、オペラの文脈に聴衆を引き込んでしまう。僕たちもまた、そこに安心して飛び込んでいく。
 音色に加えたスタインウェイとの比較では、ピアノより下の位置で聞いても特段の違和感はなかったというのも安心感と言えば安心感だ。
 ともかく、世のスタインウェイが全部ああいう風に鳴るのであれば、もう下からは二度と聴くまいというのが今回の教訓。とはいえ、事前にピアノの種類を確認するほど僕は熱心じゃないから、ピアノのコンサートなら席を後ろに陣取りましょう、というあたりが現実解。これはもしかしたら、財布にも優しいんじゃないか、なんてことも小賢しく思ってみたりして。

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あらすじ買い - ストラヴィンスキー「放蕩者のなりゆき」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/15/081227 http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/15/081227#comments Tue, 15 Jul 2008 13:12:27 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/15/081227


 英国王立歌劇場のスケジュールを確認したら、水曜日はストラヴィンスキー「放蕩者のなりゆき(The Rake’s Progress)」という作品が上演されるようだった。結局、その晩は会食になって観劇は叶わなかったけれど、ストラヴィンスキーのこの作品、なかなか面白そうだ。それにしても、英国王立歌劇場(Royal Opera House)がYouTubeで興行の告知をしているのには驚いた。


 まず、ストラヴィンスキーの「放蕩者のなりゆき」、ネットで調べたらなかなか救いのない話で、それゆえに僕は不思議と興味を持った。歌劇は演劇体験である以上に音楽体験であって、言ってみれば芝居としてハッピー・エンドであろうがなかろうが、とりあえずのカタルシスは音楽鑑賞から摂取する自信がある。僕は感動屋だから。ストラヴィンスキーの音楽にじっくり浸るだけでも幸せだろう。
 もちろん、こうして逃げを打っておきながらも、やっぱり気になるのは話の筋だ。あるサイトによると主人公は恋人がいるのに定職に就かず一攫千金を夢見て、ロンドンに行ったら行ったで女遊びにハマってしまう。ようやく荒唐無稽な事業に手を染めるも案の定失敗して借金まみれ。ついに精神を病んで入信したところを恋人が見舞いに来てくれるのだけれど、彼女は父親に連れ戻されてしまう。うーん、実に救いがない。
 僕自身としてはこの放蕩者ことトムのダメさ加減はなんとなく他人事でない。いち男子としては世の男子なんぞ大抵はこんなもんじゃないかと思ったりもするけれど、こういった男子のダメな部分は、できれば女子に伏せておきたい部分でもある。世の女子が山本モナ女史を非難するごとく、男子としても政治的にトムを非難しておきたい。でも、それは一方でトムに親近感を感じてしまうことの反動なのかも知れない。
 そんな訳で、この作品は敢えてカップルで観に行くこともないだろう。ワーグナーの「タンホイザー」の観劇後、父親とふたりで観にいってちょうど良かったと思ったけれど、この「放蕩者のなりゆき」もまた同様という予感がする。出張先で――ちょうど舞台もロンドンだし――ひとり観劇するにはうってつけのように思えただけに、惜しいことをしたなぁ。わざわざDVDを買って観る、という気までは起きないし。DVDを再生するよりも、劇場に足を運ぶ方がよほど退屈するリスクが低いからだ。
 それにしても「The Rake’s Progress」と検索してYouTubeが出てきて、誰かがDVDから違法に抜粋した映像化と思いきや、どうしてどうして英国王立歌劇場のれっきとした告知だったのには驚いた。ニュー・ヨーク・フィルハーモニックにしても英国国立美術館にしても、欧米の古典芸能はハイテクをうまく利用しているなぁ、という印象を抱く。古典を愛するがゆえに現代のトレンドにも敏感なのだろうかと、僕は勝手に想像する。

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深刻のまどろみ - フェネス・サカモト「サンドル」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/06/210735 http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/06/210735#comments Sun, 06 Jul 2008 12:07:35 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/06/210735

 坂本龍一とクリスチャン・フェネス(Christian Fennesz)のユニット、フェネス・サカモト(Fennesz Sakamoto)のアルバム「サンドル(Cendre)」を借りて聴く。大枠で言えば、チル・アウトなエレクトロニカ、という感じになるのかな。奇妙でいて不愉快ではなく、そして、刹那的でいて示唆的な、浅い眠りの短い夢。これが僕の印象だ。チル・アウトな曲なのにユルさがなくて、むしろ深刻だ。まさにこの深刻な口調が、ともすると退屈なつぶやきを神託めいたものにしている。このアルバムを聴きながら眠るべく、僕は書斎からコンポ一式を抱えて枕元に据えた。


 このアルバム全体を通じて、ピアノはシンセサイザーなんだ、とあらためて思い知らされる。あるボタンを押すとドの音が、その隣のボタンを押すとレの音が、それぞれ鳴る。そういう機械だったのだ。そんなデジタルなピアノは一発撮りのアナログな生音で再現される。一方でアナログな弦楽器であるフェネスのギターはむしろ徹底的なデジタル・エフェクトの洗礼を受けて再生される。コラボレーションというよりは超克と呼ぶべきような緊張感。
 さて、問題はどんなシーンでこのアルバムを聴くか、かも知れない。無難かつ最適なのは寝室じゃないだろうか。きっと哲学的で深い眠りに僕らを導いてくれるだろう。静かで眩しい「異邦人」的な浜辺が手近にあったら、そこもいいだろう。ヘッドホンをして街中で聴くのにも魅かれるけれど、外界とのギャップが吉と出るか凶と出るか。穏やかな気持ちならば食後の居間もいいだろうけれど、食堂で食事中に流すのには禅的すぎるかも知れない。
 そして、これを聴くのにどこにも増して一番危険なのが自動車の中だろう。ステアリングを握ったままデイヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」みたいにブッ飛んでしまうのが目に浮かぶ。そうそう、深刻のまどろみ、あるいは瞑想的な音楽というのは、心理的にはブッ飛んでいたりもするのだ。心を自由に遊ばせるなら、やっぱり、ベッドの上で目を閉じて聴くのが一番かも知れない。

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愛の港に平和を求めよ - 英国王立歌劇場/ヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/09/000548 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/09/000548#comments Fri, 09 May 2008 05:05:48 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/09/000548

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 ロンドンに着いて会食の予定を最終確認し、空き時間を確かめる。泊まっているコヴェント・ガーデン(Covent Garden)は劇場街だから、オペラを観よう。王立歌劇場のサイトを見るとヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」という作品が上演中で、座席も僅かに残っている。50ポンドの桟敷席を見つけて早速予約する。そんなび込み観劇ながら、話の筋も音楽も素晴らしかった。男子の権力闘争と女子の愛。平和は愛の港にこそあるんだよね。


 この作品について僕は何も知らなかったから、チケットを買うなりネットで検索して、まずは次のようなサイトを読み込む。

オペラ・データベース
hasidaの部屋
オペラの合唱曲

 読んでふと感じたのは、話が一見複雑で、劇場で理解できるだろうか?という不安。それは杞憂に終わるのだけれど、予習をしたときは、平民派だとか貴族派だとか、実は娘でしたとか実は孫娘でしたとか、なんだかヤヤコシそうな印象を受けた。
 杞憂といえば、笑い話のようなものがもうひとつ。劇場で、字幕表示装置が見当たらない。僕は焦って、イギリス人はイタリア語だけでオペラを観る/聴くのかと面喰ってしまった。はじまってみれば舞台の上部に英語字幕がちゃんと表示されたんだけど。こういう時は、フランクフルトの劇場で英語・ドイツ語の字幕があったことなど、すっかり忘れてしまっているのだ。
 芝居は軽快なテンポで進んで、飽きさせない。戦争だとか政争だとか、この物語に出てくる男子は老いも若きも好戦的だ。それは現実に男子がそうであるのと同じように。「女は子宮で考える」なんて言ったりもするけれど、そういう意味では、それほど生産的な思考器官がない男子は、得てして不毛ないざこざに血道を上げがちだ。それを救ってくれるのが女子だ。いつもように。
 行方不明だった私生児のヒロインが現れて、それぞれに政敵である彼女の祖父と父、そして彼女の恋人とを和解に導く。それを歌ったのが彼女だったか彼女の母だったか忘れてしまったけれど、「愛の港に平和を求めなさい(Seek peace in harbor of love)」とヴェニスの男子たちに歌った歌が印象的だ。男子は馬鹿な航海が大好きだけれど、本当の平和、あるいは安らぎというものは港にしかない。その港はまさに、愛と呼ぶほかない。
 たとえば騒乱のシーンなど、ヴェルディの音楽的な盛り上げ方は観る者をぐいぐいと引き込んでいく。上述の通りオペラの常として設定としてはリエナイ理を感じるけれど、心情劇としては血が滲むほどリアルだ。甘い恋愛劇に渋い政争劇を重ねたことで、ティラミスのようなバランスが成立していて、そのことで愛の甘美が劇的に際立っている。
 感極まって終劇に僕はシモン役に「ブラヴォー(Bravo)」の最上級「ブラヴィッシモ(Bravissimo)」を浴びせていたのだけれど、それを聞き逃さなかった隣の老婦人は「そうよ、そうよ(Si, Si!)」とイタリア語で賛同してくれた。この老夫婦は先月イタリアに行ってヴェルディ作品を初演したパルマの劇場などを観てきたそうで、かなりのオペラ好きのようだ。
 その老婦人には「東京でもオペラをやるのか?」と訊かれた、「やるよ」と答えたら、「それは西洋のオペラか?」と念を押された。彼らは教養人と見えるから、これは別に「日本人もフォークを使うのか?」という質問とは同列ではないだろう。単に、オペラは極めて西洋独特だろうという認識の現れだろう。「ロンドンの柔道ってレスリングじゃないよね?」という確認なら僕もしてしまうかも知れない。
 論より証拠ということで、僕は「先月、小澤征爾の指揮で『エフゲニー・オネーギン』を観ましたよ。」と言ったら、なるほどと納得していた。司馬遼太郎式の分類でいう特殊の「文化」も、それでいて、なかなかに浸透するものなのだ。この老夫婦だって、観劇前には寿司を軽くつまんで来たのかも知れない。
 話を戻す。平和は愛の港にある。いま僕はヒースロー空港のラウンジで出帆を待っているけれど、ここにあるのもので僕を慰めてくれるのはビールと稲荷寿司くらいだ。東京の平和の港に早く帰ろう。

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コヴェント・ガーデン王立歌劇場 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/08/231927 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/08/231927#comments Thu, 08 May 2008 14:19:27 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/08/231927

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 空き時間ができた。絵画を愛する上司は国立美術館に、歌劇をかじる僕は王立歌劇場に行く。1週間ほど前にニュー・ヨークのキャバクラでオレンジレンジを歌いながら半裸になっていたのと同じ組み合わせだけど、守備範囲の広さが売りなのです。さて、王立歌劇場。歌劇そのものの話とは別に言及したくなるほど、素晴らしい劇場だった。多くの歌劇場を知っているわけではないけれど、ダントツの予感。


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 1990年代に建て直されたというこの歌劇場、公共空間の広さと食堂の充実に圧倒された。巨大な吹き抜けの下がバーになっていて、僕は「なるほど、ここがバーか」、と覚えてエスカレーターを登る。すると、吹き抜けの中段に設けられたレストランを通り過ぎる。これに限らず、レストランはいずれも白い木綿のテーブル・クロスがかかった立派なものだったと思う。エスカレーターを降りると、桟敷席の階にも広いバー・カウンターと、さらに別のレストランがある。
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 屋内だけでなく、屋上にもテーブルが用意されていて、こちらはテーブル・クロスなしのアルミニウムの簡易のものだけれど、木製のデッキに並べられていて気分がいい。コヴェント・ガーデンが見下ろせて、下から「スタンド・バイ・ミー」なんかを演奏するパフォーマンスが聞こえてきて、遠くに目をやればテムズ側南岸の大きな観覧車が、そして、トラファルガー広場のネルソン記念柱が見える。
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 遠景ばかりではない。目を内側に向ければこのバルコニーからは歌劇場の衣装室が見えて、大量のドレスと裁縫用のトルソーたちが見える。常に舞台裏を見せるのがよいとは思わないけれど、僕は今さらながら手芸の晴れ舞台としての歌劇をも感じ、あらためて総合芸術としての歌劇としての愉しみを覚える。これは言わばガラス工房の横でワイン・グラスを求めるような、そういう興奮なのだ。
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 あるのはガラス工房ばかりではない。館内をうろうろ歩いていて、僕はワイン畑にも出くわす。この王立歌劇場は英国王立バレエ団の本拠地でもあるとは階下で知ったのだけれど、桟敷席のさらに上の階にはバレエの練習場があった。ドアのフィルムの破れ目から、10代と思しき子どもたちがピアノに合わせてバレエの練習をする様子が見える。彼らこそが、未来の熊川哲也であり、シルヴィ・ギエムなのだろう。
 観劇にまつわるインプットは主にふたつあって、ひとつは食事と酒、ひとつは周辺の物語だ。各階ごとにあると思われる充実したレストランとバー、そして建物を覆う舞台芸術の守護者としての1世紀半の矜持が、座席に向かう僕の気持ちを満たしていった。

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ニュー・ヨーク・フィルハーモニック 第14,616回公演 http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/25/210050 http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/25/210050#comments Fri, 25 Apr 2008 12:00:50 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/25/210050

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 午後6時半、打ち合わせを終えた僕はホテルで上司と別れ、いそいそと北を目指す。目指すはリンカーン・センターでの、ニュー・ヨーク・フィルの演奏会。ピアノのマルタ・アルゲリッチ(Martha Argerich)が体調不良のためお休みで残念だったけれど、マンハッタン最後の夜を楽しむ。(写真は練習風景)


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 もともと2泊の予定だった出張を、こちらに着いてから仕事の都合で1泊延長。こうして突如生まれた新たな一晩を、どう過ごすか考えるのは楽しい。ブルックリンでのポール・サイモン(ニュー・ヨーク的!)のコンサートがまず目にとまったけれど、こちらは残念ながら売り切れ。そこで趣向を変えてニュー・ヨーク・フィルの演奏会に行くことにする。
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 当初ピアノを弾く予定だったアルゲリッチは体調不良のためお休みで、代わりはアンドレ・ワッツ(Andre Watts)。指揮はシャルル・デュトワ(Charles Dutoit)。曲目は次の通り。

モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」序曲 作品492
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第1番 ハ長調 作品15
ラフマニノフ 交響的舞曲 作品45
ラヴェル 「ラ・ヴァルス」

 「フィガロの結婚」序曲が燦然たる幕開けとなって、いやがうえにも盛り上がる。そこでベトベン。時差ボケの脳味噌に快楽の波状攻撃を受けて、僕は最前列で寝てしまった。まったく不本意なことに。ただ、僕は寝惚けた頭で、ピアノ協奏曲第1番はなんだか昼下がりのセックスに似てるなぁ、なんてことを鮮明に思った。
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 後半は眠気も吹き飛ぶ刺激的な曲目で、なんといってもラフマニノフの近代的都会的な音楽はこのマンハッタンに抜群に似合う。交響的舞曲では、アルト・サックス、ホルン、トランペット、チューバといった管楽器が登場して、映画音楽のような興奮をもたらせてくれる。「パイレーツ・オブ・カリビアン」のワン・シーンを思い出させた部分があったのだけれど、それはどこだっただろうか。
 最後を飾った「ラ・ヴァルス」には心を掻き乱すものがあった。冒頭のコントラバスからして不安な予感を与えるけれど、極めつけはなんと言ってもフィナーレだ。パンフレットにも「暴力的で脅迫的で苦々しい結末の残酷さには衝撃を受けるだろう」と書いてあったけれど、その警告もいまでは虚しく聞こえるほど、僕はそのフィナーレびっくりした。
 このショック状態のまま立派なコンサート・ホールから夜のブロードウェイに放り出されるのは、それでいて、なんだか痛快な気分でもある。全身の毛穴が開いたところに、イエロー・キャブのクラクションが押し込まれる。果たして、きょう僕は本当に「クラシック」のコンサートに行ったのだろうか? この刺激的な後味、大きな収穫だ。

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東京のオペラの森/チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/19/192358 http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/19/192358#comments Sat, 19 Apr 2008 10:23:58 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/19/192358

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 東京文化会館で小澤征爾指揮の歌劇、チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」を観る。原作も読み込んで、ボリショイ劇場のDVDも観た。「魔笛」も「フィガロの結婚」も「タンホイザー」も、そもそもは準備体操としてここに観に来たのだ。いやがうえにも高まる期待と、それを超える舞台。そして、一面識もないはずの小泉純一郎氏とホールのどこかでちゃっかり握手してくる、父の意外な瞬発力。


 もっとも印象的だったのはファルク・リヒターが緻密に構築した演出だ。
 まず目を引くのは第1幕と第2幕で降りしきる雪。いま手元に本がないので確かめられないけれど、原作の設定は冬ではなかったと思う。天井からしんしんと降りつづける粉雪が、物語に通底する閉塞感を見事に体現していて、結末に向けた心情的な伏線になっている。農村にあるべき牧歌的な彩りを排しすることで、むしろ舞台が極寒の地であることを際立たせる。
 同様のミニマリズムはラーリナ家の使用人たちの服装にもあって、原作からは彼らは農夫/婦と推察されるのだけれど、舞台では工員然とした制服に身を包んでいる。このダーク・ブルーの制服は、彼らの階級的画一性、そして、従来からの許婚制度のもとで取り決められるであろう結婚の不自由を一目で知らしめる。さらにこの制服は、第2幕の祝宴における列席者のカラフルな服装と好対照をなし、僕らはその両者の差異を一瞬で見てとれることになる。
 そして、心象風景の描写。第1幕、舞台の奥で雪のなか抱擁する7~8組のカップル。彼らは戸外の情景に見える。ところが、同幕第3場でオネーギンが冷たい言葉を放つにつれ、カップルの男は抱擁を解いて女を離れていく。最後の組の男が離れるとき、女は追いすがろうとするのだけれど、途中で立ちすくんでしまう。そして前景のタチヤーナは、ただただ俯いてオネーギンの言葉を噛み締める。僕らは後景の抱擁がタチヤーナの憧れた恋愛であり、また、追いすがる女がタチヤーナのオネーギンに対する本音だと理解しているから、タチヤーナの苦しみと抑制との深さや強さを思わずにはおれなくなる。舞台上でタチヤーナ本人が大袈裟に嘆かなくとも。
 これらの色彩的あるいは演技的な抑制(とそれらによる効果の増大)もさることながら、時代設定や舞台設定を敢えて明らかにしないという抑制も、一幕毎にその効果をまさに劇的に発揮していく。
 原作を読みかじった僕らが当然抱く「帝政ロシアの物語だろう」という思い込みを、第1幕は否定も肯定もしない。それは情報が抑制されているためで、しいて言えば上述のような制服に対する違和感くらいだ。そして第2幕の祝宴、男たちはダーク・スーツに身を包んで、あまりいい趣味とは言えない派手なシャツとネクタイで胸元を飾って、まるで1980年代の東京のようだ。そして、第3幕の社交界はプラダかグッチのステージのようにシックで代的に練されていて、僕は目から鱗を落とす。
 そうか、これは大昔の物語ではなく、さらには、ロシアの物語かも疑わしいのだ。むしろ、最後の最後に明らかになるのは、これは現代の僕らが経験しつつある物語だ、ということだ。「オネーギン」のテキストの普遍性を、その普遍性自体を、最終幕で僕らはまざまざと実感することになる。だめんず「オネーギン」は対岸の火事ではないのだ。してやられた! この演出に、僕は鳥肌が立った。
 もちろん、世界のオザワにも言及したいのだけれど、僕の音楽的な解像度はさらに荒いから、なにをどう書いていいかよく分からない。ただ、オーケストラの音々が僕がいままで経験したことのない程度にまで融合されていて、オーケストラ・ピットのなかには実はひとつの楽器しかないのではないか、と訝りたくなるくらいだった。これが小澤征爾、あるいは彼の求心力なのだろうか。
 ソリストで際立っていたのはタチヤーナ役のイリーナ・マタエワで、第1幕の手紙の場面は胸に迫るものがあって、「乙女の恋心とはかくも美しいものか!」などと、我がことのように感銘する。誕生日も迎えてオッサン街道を邁進する僕にも、ジェンダーの壁を突き抜けて届く歌。この作品において純粋な感情的クライマックスはこの冒頭の場面で到達されて、あとは社会的な状況との折り合いになっていくんだよね。人生もそうなのか、などと思ってみたりもするけど。
 なんて、観劇後に僕が思ってみたりもしている間に、父はホールのどこかで小泉純一郎氏を発見し、とっさに手を差し出したところ握手されたりしていたらしい。まるでアイドルの追っかけのような、この思い切りと瞬発力は意外だ。ともかく、小泉氏もこの舞台に上機嫌だったんだろう、なんて想像してみる。

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オーヴァーフローする/しない音楽 http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/19/124242 http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/19/124242#comments Sat, 19 Apr 2008 03:42:42 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/19/124242

 東京オペラの森が発行する「ノモリ・プレス(Nomori Press)」2007年秋号で、脳科学者の茂木健一郎がこう書いていた。

涙というのは自分が受け取っているものを処理できないときに出るもの、オーバーフローです。音楽というのは常にオーバーフローの状態にあって、私たちは鳴っているものを全部把握できない。温泉でいえばかけ流しの状態です。

 僕は同感で、その温泉に身を沈めるのが好きだけれど、人によってはそうではない、ということも別の機会で知る。


 そうではない、というのは、音楽が好きではない、という意味ではない。ある友人は絶対音感を持っていて、オーケストラのなかでオーボエが半音ずれると気づくそうだ。気づいてしまう、と言ったほうがいいかもしれない。ともかく、少なくとも彼女のケースでは茂木の「私たちは鳴っているものを全部把握できない」というのは当たらない。
 いま僕は英文の朗読をCDで聞きながらこれを書いているのだけれど、注意して聴けば内容を把握することもできるかも知れないものの、注意をそらせば「原泉かけ流し」になる。日本語の朗読だったらこうはいかないだろう。日本語の朗読を流しながら日本語のブログは書きづらい。干渉してしまうからだ。
 僕も茂木と同じようにオーヴァーフローする音楽に、それゆえに圧倒されながら没入していくのだけれど、もしも音楽がオーヴァーフローなかったら音楽はどのように聞こえるんだろう。
 僕は最近、あるレストランで食後のチーズに髪の毛が落ちているのを見つけて落胆したのだけれど、それにもし気づかなければ――と思うと吐き気がするけど、本当に気づかなければ――満足のいく夕食になったかも知れない。絶対的に店の落ち度だけど、この発見は誰も幸福にしない(気づかず食べても病気にならないとして)。あるいは、知らぬが仏。
 絶対音感の持ち主は、調子外れのオーボエに、そういうき気るいは違和感を覚えながら、オーケストラを聴くことになるのだろうか。そして、そして一方、より重要な点として、その敏感さゆえにより豊かな音楽的感動を得ることができるのだろうか。

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離陸のアリア - 野狐禅「フライング蝉」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/02/03/160813 http://www.thesyntaxerror.net/2008/02/03/160813#comments Sun, 03 Feb 2008 07:08:13 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/02/03/160813

 僕は人もまばらな雪の茶沢通りを三軒茶屋に向かって歩きながら、野狐禅「フライング蝉」を聴いていた。6月上旬、季節外れのセミの鳴声に思いを馳せるのだけど、実はそれはセミの鳴声ではなくて洗濯機の音だった。そのミの鳴声刺激された感情は、しかし、消えない。そんな歌だ。そしてふいに、オペラのアリアにも似た、超望遠の空撮のような躍動のカメラワークを、この曲に感じたのだった。


 オペラのアリアについては、お馴染みのアッティラ・チャンパイにご登場いただこう。

アリア、それもオペラ・アリアの美的基本条件は、それが感情の流れを描写することである。(略)たいていのアリアでは外面的な筋書は停止するが、つねに内面的な行動、内面的な時間の流れが存在し、それが登場人物を劇の上で先に進め、その結果アリアの終わるときには始まったときとはちがった気分になっているのである。

(アッティラ・チャンパイ「モーツァルト『魔笛』」)

 竹原ピストルの「フライング蝉」は、「俺」のこんな感情的な高まりからはじまる。

6月上旬の晴天に響き渡る堂々たるフライングをかました蝉の声
「然るべき季節に鳴きなさいよ」と舌打ちしたくもなかったが
いや それはそれで妙に胸に染み渡るものがあったのだ
すっぽ抜けた人生の先っぽで高らかに歌うがいいさ
全くお呼びでないそのタイミングで高らかに歌うがいいさ

(竹原ピストル「フライング蝉」)

 季節外れのセミに寄せる感情に聴く者を引き込んだ上で、竹原は痛快なコミカルさでもってその前提を崩す。「俺」やこの歌を聴く僕らが感情を寄せたミど、実はいなかったのだ。

「確かに蝉の声によく似てるけど、これはほら、あそこん家の洗濯機の音だよ」
野暮ったらしい真実を指差して 友の声
俺ときたら とことんこれかよと ため息も出たが
いや それはそれで有意義な発見もあったのだ
すっぽ抜けた人生の先っぽだからこそ歌える歌があったじゃないか
全くお呼びでないそのタイミングだからこそ歌える歌があったじゃないか

 6月上旬のセミなどいなかったとしても、それが洗濯機の音の聞き間違いだったとしても、しかし、僕たちの内面で感情は不可逆に進展していく。この歌の外面的な環境は、始めから終りまで、洗濯機の音が鳴っているだけだ。その停止した筋書きのなかで、「俺」の感情は2段階の前進を経験する。季節外れのセミへの応援、そして、季節外れのセミのようなもの全てへの共感だ。
 前半でシンクロするかに見えた外的な事実と内面的な感情だけれど、あえて後半で梯子を外す。そんな外的な事実などなかったのだ、と。しかし、内的な感情はすでに外的な事実を離れているから、離陸後に滑走路が消滅しようと機体は揺るがない。
 むしろ、その離陸を奇貨として僕たちの感情はさらに高度を上げる。滑走路があったはずの場所を鳥瞰しながら、かつて自分がいた時とは違う新しい世界を、そこに見出す。舞台全景から人物にズーム・インして、感情の流れに引き込む、そして再度、すでに新しい意味を与えられた舞台全景にズーム・アウトする。
 演劇的だ。

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ゆきこもり http://www.thesyntaxerror.net/2008/02/03/144001 http://www.thesyntaxerror.net/2008/02/03/144001#comments Sun, 03 Feb 2008 05:40:01 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/02/03/144001

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 雪の日曜、朝から雑食に音楽を聴く。きのうの友人の結婚式、チャペルで生演奏されたバッハ「無伴奏チェロ組曲」、披露宴でのプッチーニ「誰も寝てはならぬ」、そして、ライブの余韻醒めやらぬ野狐禅。でも、いちばん似合ったのはワイヨリカ(wyolica)「フォーキー・ソウル(Folky Soul)」。下北沢で開かれるホームパーティは夕方だから、それまでは存分に引き篭もるぞ!という意気込みで、三軒茶屋に燃料を仕入れに行く。


 この「ゆきこもり」の情緒的契機となったワイヨリカも、実は僕はアルバム「フォーキー・ソウル」しか聴いたことがなかったので、ベスト盤を借りる。野狐禅の新しいアルバム「ガリバー」も押さえておこう。この2枚は、既定路線だ。三軒茶屋ソナタの第一楽章は、内省的感傷的な動機を忠実に展開していく。
 第二楽章では、三軒茶屋店の人気作というディスプレイから郷土音楽を取り入れる。パフューム(Perfume)。アメリカでPCを盗られてデータがなくなってしまったので借り直し――そうか、借り直すほど気に入っていたのか――、中田ヤスタカつながりでカプセル(capsule)に歩を進める。そして、微笑ましい明るさに満ちた「シャングリラ」が気になっていたチャットモンチー。軽やかな明るさと同時代性に彩られて第二楽章を閉じる。
 そして、ヒラメキは突然やってくる。僕はなぜか唐突に、いま安室奈美恵を聴いたら素晴らしく面白いんじゃないかと思い立ち、アルバム「181920」を取る。この懐古的な着想はさらにダイナミックさを増しながら、trfのベスト盤で終楽章のクライマックスを飾る。今夜はパーティが終わって家に帰ったら、「寒い夜だから…」とか聴こう。外は雪だし、さぞよかんべぇ。よかんべぇ。

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ゴーイング・コンサーン - 野狐禅ライブ (下北沢 Club Que) http://www.thesyntaxerror.net/2008/02/03/111337 http://www.thesyntaxerror.net/2008/02/03/111337#comments Sun, 03 Feb 2008 02:13:37 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/02/03/111337

 最近教わった現代版フォーク・デュオ、野狐禅をはじめて生で堪能。直前まで「鈍色の青春」を聴き込む。もう1枚借りた「東京23区推奨オモイデ収集袋」は結局1度通して聴いたかどうか、ってくらいだ。なぜか? たまたま先に再生した「鈍色」が絶対値としてとても良かったもんだから、餓えた野良犬が角食べしないように、僕はまず与えられた「鈍色」に食らいついていた。ライブの音楽も、それ以上の怒涛の勢いで、僕の空きっ腹に流れ込んできた。


 どの曲が良かったのどうの、というのは3つの理由で書かない。まず、野狐禅初心者の僕はライブの時点で曲と曲名が一致していなかったから。次に、ライブ以降さらにアルバムを聴きまくったせいでライブ体験と反芻体験との境界がもはや判然としないから。最後に、このライブを構成した一曲一曲もまた、発されるそばから場に融けていったから。
 僕はただ、一曲終わるごとに感極まって、一緒に行ったR氏のフラスクを奪ってはウィスキーを流し込んでいた。そのフラスクは、僕が贈った誕生日祝いなのに、中身はほとんど僕が飲んじゃったんじゃないかな。僕はロックな「自殺志願者が線路に飛び込むスピード」やバラードの新曲「シーグラス」が引き起こす感情の波に揺られるに任せて、感傷の海で素潜りする。
 僕には、マテリアルな問題を先に解決しよう、という信条とも性癖ともつかない傾向がある。マテリアルな、というのは「重要な」という意味でもあって、「物質的な」という意味でもある。野狐禅が歌う歌は対照的だ。極めて個人的な情景で、ひたすらな心情の吐露で、解決というよりは前進だ。大小の諸問題が解決しようともしなくとも、生きる、という簡素で力強いメッセージ。
 問題はときに解決されないかも知れないし、解決するにも想像以上の労力を要したりする。僕のカイゼン思想は、それ自体は建設的だと信じるけれど、ともあれ疲れることもある。野狐禅は、解決の問題に立ち入る前に、前進の前提を歌う。僕らは結局のところ、問題という問題でジャラジャラと全身を飾りながら、それら個々の解決度合いとは無関係に、前へ歩いている。
 それが僕らの継続の前提、ゴーイング・コンサーンだ。一見するとアクの強そうな野狐禅の歌が、それでも聴く人を選ばないとした、それはまさに彼らがこの揺るぎない前提をこそ歌っているからだ。僕は以前「君には野狐禅の歌の気持ちが分からないんじゃないか?」と言われたこともあるけれど、結果的にそれは杞憂に終わって、僕は野狐禅を教わったことに感謝!

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