The SYNTAX ERROR Blog » 読む http://www.thesyntaxerror.net MIT Sloan / London Business School MBA留学記 Mon, 22 Nov 2010 02:24:03 +0000 http://wordpress.org/?v=2.8.6 ja hourly 1 保坂和志「プレーンソング」 http://www.thesyntaxerror.net/2009/08/08/141509 http://www.thesyntaxerror.net/2009/08/08/141509#comments Sat, 08 Aug 2009 19:15:09 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=998

さっき書いた「浮沈のオーヴァーブッキング – 浮」を読み返して、出発前に読み直した保坂和志「プレーンソング」気分を引っ張っているなぁ、と思う。文章がダラダラしている、という言い方をするとこれは作家に失礼かも知れないけれど。僕の文章がダラダラしている、ということについて、その経緯と思しきことなども含めてダラダラと書き留めておく。もちろん、僕の文章がダラダラしているのは今に始まったことじゃないし、「ダラダラしている」と自省してみたところで、それは僕は本当はダラダラしてない文章を書ける、ということにはならないけれど。

出国前のある日、六本木で飲んだ。相手は商社員A君と編集者B君。話題はコンテンツ事業から中村一義まで多岐に亘ったが、保坂和志の話でも随分盛り上がった。三井物産の磯崎憲一郎氏が芥川賞を受賞して、彼が保坂和志に小説を書いてみろ、と言われたなんて話からだったろうか。僕は「中村橋から豊島園に歩いていく話しか読んだことがないけれど」、なんて話したら保坂和志の熱烈なファンのA君がすかさず「『プレーンソング』ですね」なんて言って、職業上その作家に詳しいB君まで驚かせた。

ところで、ブログを書いていて敬称にはよく悩まされる。面識もないのに、例えば「木村拓哉さん」、というのは気持ちが悪い。けれど一方で、芥川賞受賞の瞬間からいきなり「三井の磯崎」というのも気が引ける。asahi.comの記事では「磯崎さん」となっているから、文学賞受賞までは一般人扱いが妥当なのだろうか。ただ、芥川賞作家をつかまえて今後も「磯崎さんの新作は…」云々というのも気持ち悪いから、今は過渡期ということなのだろう。次回作の出版を「磯崎」解禁のトリガーとしよう、なんて勝手に決める。

閑話休題。たしかコンテンツ事業の話の文脈で僕はB君に編集者としての夢を聞いたら、彼は「ミリオン・セラーを出すことです」とキッパリ言う。その真っ直ぐな気持のいい回答に、僕はちょっと面食らいもしたけれど。ともかくB君は、保坂の作品には分かりやすいドラマがないからミリオン・セラーには向かない、と言う。対して保坂ファンのA君は、「小説にできることは時間を描くことではないか」という磯崎氏の受賞の言葉を引用しつつ、保坂はまさに時間を描くことに長けた作家だ、と言う。言外に「ゆえにもっと評価されて(=売れて)いい」というニュアンスが色濃くあった気がするし、現に彼はそう明言した気もする。シラーズを開けてメルローも空になりかかっていたから、いつもの如く記憶は曖昧だ。

僕の意見もまた、両方に賛成、という面白味のないものだったけれど本音だから仕方ない。ともかく、「プレーンソング」を読んで浮かぶあの風景を映画化したら劇場が埋まるか、というと、とてもそうも思えない。そもそも、同作を人に勧めるにしても「泣きながら一気に読んだ」とか「結末で衝撃を受けた」なんて言い方はできない。だからA君の好評価にも頷きつつ、B君の職業的な判断もまた、極めて妥当だろうなぁと思う。

その翌日。今度はあるアニメ会社の人達と新宿で痛飲する。閉店した店でマスターの弾き語りに合わせてみんなで何かを歌ったというかすかな記憶や、帰りのタクシーで携帯電話を忘れてそれに気づかずに降りたという事実から、「痛飲」と言うのだけれど。

さて、さらにその翌日。レシートを頼りにタクシー会社に電話をしたら、幸いにも「待ち受け画面が犬の写真」の電話は練馬の営業所にあると言う。こういう事は初めてじゃないから、木場辺りも覚悟していたけれど、練馬で良かった。売却間際の車で、ナビを頼りに練馬区貫井というところまで行く。そこで道路標識に「中村橋」なんて地名を見て、これはこのあたりの地理に疎い僕にとっては保坂和志と同義だから、自ずと保坂のことや前々日の会話なんかを思い出す。

そして突然、六本木で話したことや携帯電話を取りに見知らぬ土地に来ていること、さらには、夏の日差しを受けた平和な町並みを歩くことさえもが、僕の人生の一部として記憶にとどめるべき体験のように思えてきた。もちろん、これらは僕が商社を退職してアメリカに留学するという大きな物語に比べたら何ら劇的ではないのだけれど、この大小の狭間にあって両者はまったくの等価に感じられもした。

それは僕がひどい二日酔いで弱っていたかも知れないけれど、弱っていると小さな差異に敏感になるのもまた、経験から言って事実だ。写真を撮るとき、暗い所に絞りを合わせると明るい部分が全て「飛んで」しまうように、小さな物語に近づくと大きな物語は「飛んで」しまう。逆もまたしかり。

どちらの物語がより優れているか、ということはない。保坂は、この小さな方の物語に焦点を当てる、というだけだ。ただ、それゆえに、磯崎氏の言葉を振り返れば、保坂は生活の時間の流れ方を描くことになる。大きな物語はいわば箇条書きにできるので、ゆえに、前後関係さえ合っていれば時間の流れ方そのものはさして問題にならないようにも思える。

練馬を離れて丸の内へ行き、タフツ大学フレッチャー校に行く人達とランチをして、帰宅してから保坂の「プレーンソング」を読み返す。通りで猫を見かけたり、友人が家に来たり、競馬をしたり――僕らの人生を彩るそれらの小さな出来事の物語性。あるいは、それらの出来事ひとつひとつには物語性など何らなかったのだとしても、その集積として感じられる物語。これを描くには、作品中の時間のスピードのなかへ、読者を引き込む必要がある。

僕たちの生活が本当はダラダラと流れるものだ――そんな風にすっかり諦めてしまった上で読むと、「プレーンソング」のこのリズムは気持ちがいい。読み終わっても、僕は泣きもしなければ笑いもしないだろう。だって、僕らの日常というのは大概、そういうものだ。けれど、読んでいてすでに、何かを慈しむような優しい、そしてすこし寂しいような気持ちになる。それはきっと、僕が死んで人生を箇条書きにしたらきっと言及されないだろう、こんな風にダラダラとした一日一日を、それでも――あるいはそれゆえに――いとおしむ、そんな気持ちなんじゃないかな。

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ゆっくり行く人は、安らかに、遠くまで行く。 http://www.thesyntaxerror.net/2009/07/04/173124 http://www.thesyntaxerror.net/2009/07/04/173124#comments Sat, 04 Jul 2009 08:31:24 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=925

部屋の片づけをするのに、古新聞や古雑誌を読まないままで捨てられないのが僕の悪い癖だ。そんなわけで、JALが毎月送ってくる雑誌「アゴラ」2月号を今さら読む。40歳にしてNHKの技術職を辞してヴァイオリン職人になった菊田浩氏の記事が面白かった。氏が師事したクレモナのロレンツォ・マルキは、「バイオリンは人間の赤ちゃんのように人々(演奏家)の手によって、成長してゆくものなんだ。でもね、大切なことはーシェ・ベーネ健やかに生まれること)」と言ったという。いかに育つかだけではなく、いかに生まれるか。僕らはつい行動を急いでしまうけれど、「ナーシェ・ベーネ」にもまた価値がある。

記事は、「イタリア人なら誰でも知っていることわざ」として「キ・ヴァ・ピアーノ・ヴァ・サーノ・エ・ヴァ・ロンターノ(ゆっくり行く人は、安らかに、遠くまで行く)という言葉を引用する。ゆっくりであること、健やかであること、あるいは、急いだり無理をしたりしないこと。30歳を区切りに職業的にも個人的にも新しい段階を迎えつつある僕にとって――まだ実感をまでは伴いはしないものの――、この言葉には人生という長旅のヒントがあるように感じられた。

同誌の他の記事では、マンハッタンの幼稚園受験競争のレポートも面白い。アメリカにおける東海岸のアイヴィー・リーグの権威に、僕はいままで触れる機会がなかった。けれど、ビジネス・スクールの受験で訪問したアイヴィー・リーグの各校には「名門」を体現したとしか思えない風格があったし、アメリカ人の受験生同士の会話に出てくる「アイヴィー・リーグ出身」というフレーズには単なる出身校以上の社会的な文脈が感じられた。恐らくアメリカの社会ではその――少なくとも建前上の――フラットさゆえに、却って学歴が放ちうる威光があるのかも知れない。日本人が期待する、西海岸に表象される陽気なアメリカとは違う、切実な素顔のアメリカが垣間見えた気がする。

パタゴニアの旅行記にもロマンを掻き立てらた。いい写真だなぁと思ったら、筆者の田中克佳氏は「ナショナル・ジオグラフィック」誌でフォト・アシスタントを務めていたという。フォト・アシスタントというのがどういう仕事かは知らないけれど、「ナショジオ」で写真関係というだけで、ミーハーな僕は勝手に我が意を得たりと膝を打ってしまう。それにしても、地球の裏側にあるチリの港町で、全量を日本に出荷するためにウニを獲って加工してるなんて知らなかった。いつか日本人がウニを買い負けてしまう日がくるのだろうか。

シャネル日本法人社長のリシャール・ラコス氏のエッセイ、今号は特段に格調が高く渋い。

日本を象徴する花は桜である。私も桜は好きだ。しかし桜に対する愛情は、別れ際に臆病になる女性に対して感じるような、あまりにも儚く、花びらの涙を見るときの愛惜の情である。私はやはり、桜よりも梅が好きだ。この反骨精神旺盛で勇猛な木は、厳しい冬に立ち向かう最強の戦士である。放棄することも、隠れ家に逃げ帰ることも、不名誉な降伏を受け入れることも許されない残酷な戦闘の場において、武器の穂先に繊細な花を誇らしげに咲かせるのである。

梅雨時に今さら読んだのが悔やまれるけれど、僕もまた梅の花が好きなのでこうやって持ち上げられると我が事のように嬉しい。

ほかには、ヴァレンタイン・デーを日本において「チョコレートの日」にした森永製菓の創業者・森永太一郎がキリスト教に帰依していた、という江上剛氏のコラムを面白がったり。確かに、同社のロゴは天使だ。森永太一郎は23歳でアメリカに渡って菓子職人の修業をしたという。ニトリの似鳥昭雄社長の記事にもアメリカは登場する。親戚から借金をしてまで行ったアメリカの視察で、現在の同社のビジネス・モデルのヒントを得たという。渡米した彼らの成功よりも、人生の手がかりを求めて彼らが渡った先がアメリカだった、という事実が面白い。かの国が持つ抗いがたい求心力、一体なにゆえなのだろう。

あとはイグアスの滝にいつかは行ってみたいなぁと思ったり、以前行った人形町の芳味亭が載っているのを見て満悦したり、なんて旅行誌としても満喫。この雑誌、好きだ。「アゴラ」誌は、沈みかけた日本航空の見果てぬ夢、あるいは梅の花だ。冬を越えて頑張って欲しいなぁ。

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http://www.thesyntaxerror.net/2009/07/04/173124/feed 4
鈴木貴博「カーライル―世界最大級プライベート・エクイティ投資会社の日本戦略」 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/21/124923 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/21/124923#comments Sun, 21 Jun 2009 03:49:23 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=875

http://blogs.wsj.com/deals/2009/05/29/carlyle-group-humbler-but-in-many-ways-bigger/

5月29日のウォール・ストリート・ジャーナル紙が「カーライル・グループ: より質素に、しかし多くの点でより巨大に」という記事で伝えるところでは、カーライルの年次報告書によると同社の運用資産額が2007年から2008年にかけて40億ドル増加し、850億ドルに達したという。そこで、ガディッシュ他「プライベートエクイティ 6つの教訓 経営のための知恵袋」に続き、鈴木貴博「カーライル―世界最大級プライベート・エクイティ投資会社の日本戦略」を読んで同社の理由の秘密を学ぶことにする。

カーライルの会長、ルイス・ガースナー(著書に「巨象も踊る」)は「とどのつまり、カーライル・グループは株主です。株主の立場で長期的に企業の価値が高まることを目指します」と言う。また、著者は「米国のように一年で交代する株主には、長期の視点で経営者を統治するインセンティブはない。一方で、長期にわたって株式を保有する日本の機関投資家の場合は、物言わぬ株主であり続けた結果、企業ガバナンスからは遠い存在となっている」と解説する。プライベート・エクイティ(PE)の価値の源泉は、このような企業統治の間隙を埋めることにあるように思える。例えばマネジメント・バイアウト(MBO)について、本書は次のように言う。

株式会社では通常、これ(MBOのこと、引用者注)と逆のメカニズムが働いている。つまり、「株主による経営陣の交代」である。この株式会社としてのあたりまえのメカニズムが、ある経営環境においては経営にとってマイナスになる現象が起きる。そのときに経営者は、株主を後退させたいと考える。そのようなケースが、カーライル・グループの考えるMBOの本質である。

岩瀬大輔氏が先日の講演で「誰からお金を集めるかが」も重要であると言っていた。僕もまた、資本は無色透明ではなく多様な思惑に染まっている以上、どのような色の資本構成にするかもまた、企業に対して経営者が負う責任のようにも見える。もちろん、経営者は第一義的には既存株主に対して責任を負う(MBOには既存株主との観点では情報格差などの課題もある)。その一方で、副次的ではあるもののより長期的な観点では、経営者は永続的な存在としての企業の成長に責任を負い、それによって製品/サービスや雇用の供給の形で社会的な責任を負っているといっても言い過ぎではないだろう。

上記に引用した「ある経営環境において」の例として本書は、東芝セラミックスの事例が挙げられている。同社は上場を維持したまま大規模な設備投資を行っていれば、株価下落を招いた可能性があったという。既存株主の意向に沿って投資を行わなければ長期的な企業価値が損なわれ、また、既存株主の意向を無視して投資を行えばそれは経営陣による背任的行為だ。そこで第3の選択肢として「MBOによる株主の交代」があるという。ちなみに、設備投資について次のような興味深い言及があった。

株式市場についての研究論文によれば、時価発行増資を伴う大規模投資の発表により、上場企業は平均して25%の企業価値を失うというファクトがある。株式市場は投資により得られるはずの長期リターンよりも、増資によって希釈される足元の企業価値に過敏に反応するのである。

個別の事例の中で、カーライルがキトーに出資した際、カーライルのマネージング・ディレクターである山田氏が行った提案が面白かった。同氏はキトーの北米、欧州、中国の現地法人経営者を集めた経営会議(グローバル・コミッティ)の創設を取締役会に提案して実現させているのだけれど、同会議体の発言の順序に一計を案じたという。発言の順序を米国→中国、の順にしたという。

米国人の新しいCEOは、経営計画を語るにあたって必ずグローバルな視点を加える癖のようなものがあった。米国の利益だけではなく、今キトー全体がどこに向かおうとしているのかをまず語り、いかに成長の可能性があるのかグローバルな事業機会を語り、その絵の中でキトーの米国法人がなすべきミッションを語るようになる。次に中国の発言の番だ。当然、対抗意識を持つ。最初に発言したアメリカのCEOがポジティブに事業機会を示した以上、自分もポジティブに語らなければならない。グローバルな絵の中での中国の役割についても意識せざるをえなくなる。

このようなソフト面での経営への関与も、株主が企業統治のために取るべきひとつの手法だろう。ちなみに上記の米国人CEOは、カーライル側がヘッドハンターを通じて雇用したもので、同社はそれに先立って前任者の責任について証拠を集めて提示し、訴訟回避の準備をしたうえで経営陣を交代させているという。企業の成長にとって必要なアクションは建前としては経営陣によって実施されるべきだけれども、それが何らかの理由で完遂されないときは、新たな経営陣あるいは株主の手によって補完される必要がある。PEはこのような事態の安全網として機能しているように見える。本書はこの点について次のように説明している。

メインバンク制と株式持ち合いという歴史的経緯の影響で資本市場が機能しにくかった日本においては、成長の停滞や部分的に非効率を抱える企業が欧米と比して相対的により長く放置されてきた。放置される期間が長引くことで、当該企業の成長機会を実現するリスクはより高まる。こうした企業の成長を実現するためには、より高いリスクを許容することができ、同時により強いガバナンスを発揮できるリスクキャピタルの担い手が必要となってきた。(略)企業へ直接リスクマネーを投下するのではなく、企業へのガバナンス能力を持つプライベート・エクイティという存在に機関投資家はリスクマネーとガバナンスを同時に委嘱することで、この矛盾を解決しようと図っているとも言えるのである。

日本における資本市場の未発達は、経営者市場のそれとリンクしているだろう。リスク・マネーの供給は、当然に企業統治(ガバナンス)を追求し、場合によっては経営権を直接に要求する。この最終段階で実際に経営にあたれなければ、つまり伝家の宝刀が錆びついていては、リスク・マネーと企業統治とが成すべき表裏一体の関係が剥離してしまう。本書の指摘を引用する。

日本の経営陣はまだまだ経営のプロと呼ばれるほどの人は少ない。欧米のように経営を専門に学び、経営者として何社もの企業を経営し、その結果現在の地位にあるといったプロの経営者は、日本にはほとんど存在していない。多くの日本の大企業ではつい数年前まで社員だった人々によって企業がと経営されているのが実態であるがゆえに、多くの企業は彼らプロになったばかりの経営者によってアンダーマネージされている。

伝統的な日本企業であればあるほど、先輩である経営者が後輩である従業員を指導するというヒエラルキーがピラミッドのほぼ全ての階層を構成していて、不特定の株主に対する責任を意識する機会は驚くほど機会が少ないだろう。僕もまた、大学を卒業してすぐに株主側として投資先の事業計画をともに作成したり役員会に陪席したりしたけれど、僕自身が負うべき自分たちの背後の投資家への責任について本当に意識をしたのは、それからもうしばらく経ってからだった。このような状況を鑑みると、カーライル日本代表の安達氏の考えは明快に響く。

投資をした以上、資金の提供者である企業年金や生命保険などの投資家はリターンを得なければならない。投資家は自らリスクを負いながらリスクマネーを提供しているのだから、その資金を集めたファンドのゼネラルパートナーは経営者の行動に直接責任があるのである。「だからもし経営者ができないとなったら、カーライルは自分で腕まくりをして経営するぐらいの覚悟をもった人間でなければならない。」(と安達は語る、引用者注)

本書はカーライルの日本における投資事例を知る情報源として有益だったけれど、それだけに、全体に散見される「カーライルはいい企業だ」という論調や、ともすると「プロジェクトX」ばりの情緒的な描写が耳障りで残念だった。一方、僕はこのあとで、ダン・ブリオディの「戦争で儲ける人たち―ブッシュを支えるカーライル・グループ」という対照的な論調の本を読んだりもした。結局のところこの分野の――つまり、非文学的な――本における論調や描写なんて、その向こう側にある事実の重要性に比べたら、フィルターで濾してしまえる澱に過ぎない。

]]> http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/21/124923/feed 0 中田安彦「世界を動かす人脈」 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/20/235354 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/20/235354#comments Sat, 20 Jun 2009 14:53:54 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=870

中田安彦「世界を動かす人脈」を読む。どこか陰謀説を匂わせる題名だけれども、しかし、本書の内容はむしろ事実に即した抑制の効いたもので、読み応えがあった。たとえば僕が引用したヒラリー・クリントンの「有益な相互依存という事実」という言い回しが、デイヴィッド・ロックフェラーの主張そのものであることに本書を読んで気づく。これは偶然の一致だろうか? 彼女の夫のビル・クリントンはウィンスロップ・ロックフェラーの息子の個人的な相談に乗る間柄であったとしても。早合点はできないけれど、本書は資料集としても充実しているし、諸事実が示唆するものは刺激的だ。

米国に亡命した政治学者のハンナ・アーレントは、『全体主義の起源』の中で、ドイツ元外相ラーテナウが、「欧州世界は互いに顔の知り合った300人くらいの貴族たちによって統治されている」と発言したことを紹介している。また、フランスでナポレオン以降、フランス銀行の大株主が200人いたことにちなんで、「フランスはそれまで200家族によって支配されてきた」とする議論もある。

ビルダーバーグには、GS(ゴールドマン・サックス、引用者注)社などの巨大投資銀行、世界の中央銀行総裁も毎年参加している。中央銀行が生みだし、巨大銀行、投資銀行、投資ファンドのところに集まる資金が資本主義経済の原動力である。マネーを支配し、その支配の仕組みを作ってきたのが、このグローバル・エリートたちである。ゆえに、私の書いているのはいわゆる「陰謀説」ではない。

これらが本書の出発点だ。例えば、ビジネス上の合意がどれほど、レストランやゴルフ場で実現してきたかを想像すれば、そのような擦り合わせが世界の次元でもなされていると考える方が自然に見える。1954年にオランダのビルダーバーグ・ホテルで、ポーランド人外交官のユゼフ・ヒェロニム・レッティンゲルを事務局長として、デヴィッド・ロックフェラーなどの有力者を集め、第1回目のビルダーバーグ会議が開かれたという。

この会議は、レッティンゲルの主張する欧州統合を最終目的にしていたものの、当初は戦争によって分裂した大西洋地域の国々の信頼関係を回復させ、ビジネスの面での協力関係を深めることが目的だった。(略)当然、米欧間で意見の対立はあった。意見の対立があるからこそ、このような会議は開かれるのである。

現在の欧州連合とビルダーバーグ会議は無関係ではあり得ないだろう。ちなみに、レッティンゲルは第2次世界大戦中、「イギリス軍の航空機に乗ってポーランド上空からパラシュートで降下し、国内の政府要人・軍人との戦略会議を行った」という。これって、まるでジェームズ・ボンドだ。ともあれビルダーバーグ会議は、「欧州の財閥や大企業と、アメリカの大企業と、政治家、官僚たちが、多国籍企業主導のいわゆる『新世界秩序』を形成していくための政策フォーラムに転化していった」という。会議の出自を考えると、これはむしろ自然な成り行きのように見える。

ビルダーバーグ会議などの会議体もさることながら、それぞれの勢力の競争関係も興味深い。

スタンダード石油で財をなしたロックフェラー家はやがて、事実上の中央銀行として君臨してきたモルガン家と比肩するまでに影響力を持つようになる。ジョン・ロックフェラー2世の義父にあたるネルソン・オルドリッチが議員として連邦準備制度(FRB)の設立(1913年)に関与し、義弟にあたるウィンスロップ・オルドリッチはグラス・スティーガル法の制定(1933年)に暗躍したという。FRBはJ.P.モルガンの影響力を弱め、グラス・スティーガル法はJ.P.モルガンを商業銀行としてのJ.P.モルガンと、投資銀行としてのモルガン・スタンレーに分割する。

J.P.モルガンとモルガン・スタンレーの分離は今日にも続いている一方で、本年のバンク・オブ・アメリカによるメリル・リンチ買収などで、商業銀行と投資銀行の分離というグラス・スティーガル法の当初の昨日は有名無実となっているようにも見える。経済情勢が流動的な現在こそ、勢力図を塗り替えるような動きが水面下で起こっているのだろう。ルー・ガースナーは「人間には4つのタイプしかない。何かを起こす者。起きた何かに翻弄される者。起きたことを傍観する者。そして何が起きたかに気づかない者である」という言葉をカーライルの会議室に飾っているそうだけれど、これから起こるであろう変化、気づかないよりはせめて傍観してみたい。

本書ではヨーロッパやアメリカの財閥のほかにロシアの動向も詳説されていて、これも面白い。ガスプロムの拡張主義はサハリン2プロジェクトで見せつけられたけれど、同社は「07年現在でもすでに欧州市場の天然ガス流通量の25%を占めており、これを2015年までに33%に増やす意向だという」。さらにガスプロムの影響力はいまやメディアにも及んでいるという。「同社は、ガスプロム・メディアというメディア産業も抱えている。この会社は、リベラル派のテレビ局NTV、『イズベスチャ』紙や『プラウダ』紙までも吸収している」というのには驚いた。

著者は「政府資金の財閥への払い下げが腐敗と汚職の温床になったのは、明治時代に近代化を目指した日本と同じである」と、エリツィン政権下のロシアの状況を形容している。著者はブログで、かんぽの宿問題に関して「小泉構造改革を支持してきたオリックスの宮内義彦会長に対する論功行賞だった」との立場から鳩山前大臣を支持する立場を取っている。僕自身はそう信じるに足りる根拠を持っていないし、むしろオリックスへの売却価格は公正な市場価格と看做せるとも感じているので、著者とは違う印象を持っている。

僕は郵政民営化についてはむしろ、それが下記のようなアメリカ側の意向を沿ったものである点をメディアがあまり言及しないことに違和感を覚える。例えば最近アーミテージ元米国務副長が、日本がアメリカの核の傘にあることを再確認する発言をしているように、日本の安全保障は依然としてアメリカに依存している。そのような地政学を出発点に、日本がアメリカの核の傘に対して外交面あるいは内政面でどのような対価を払うべきかという「価格決定」の議論こそが、原価ですら所詮2400億円でしかないかんぽの宿をめぐる価格決定の議論――ゆうちょ銀の総資産200兆円の運用に比べたら誤差の範囲だろう――よりも重要に思える。その議論は自ずと、ガスプロムに見るようなロシアの拡張主義への対応をも含むだろう。これらの課題を考えるに際して、世界の力学における人的な側面という新しい視座を本書が与えてくれた。

米国は、郵政の民営化と改革が完全に市場志向型で実施されるならば、日本経済にとって多くの潜在的利益があるプロセスであるとの認識から、引き続き重大な関心を払っている。さらに、米国は、このような改革が透明性を持って進められ、銀行、保険、エクスプレス便市場で、日本郵政株式会社およびその子会社(日本郵政グループ各社)と民間の競争相手との間に対等な競争条件が整備されることが重要であると考える。従って、米国は日本に対し、対等な競争条件を担保するために必要なあらゆる措置を講ずることを引き続き求める。
(出所:日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書)

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http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/20/235354/feed 0
徳はなくても徳あるごとくふるまえ - カーネギー「人を動かす」 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/11/232438 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/11/232438#comments Thu, 11 Jun 2009 14:24:38 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/11/232438


 友人Oとの課題図書交換、「僕たちに不可能はない」に続く2冊目。なんだかいけ好かない題名だけれど、友を信じてとにかく読んでみることに。だって、「人を動かす」っていかにもアザトイ感じがするじゃんか。原題に至っては「友達を作って人々に影響を与える方法(How to Win Friends and Influence People)」という直球勝負。ところが、この本に書かれているのは、寝技の手練手管というよりはむしろ「おばあちゃんの知恵袋」的な人間理解だった。読み進むにつれて、僕は自分の小さなエゴがどれだけ無用の摩擦を生み得るか――いや、んできたか―を痛感させられた。人に薦めたくなる良書だった。

われわれは、子供や友人や使用人の肉体には栄養を与えるが、彼らの自己評価には、めったに栄養を与えない。牛肉やじゃがいもを与えて体力をつけてはやるが、やさしいほめことばを与えることは忘れている。やさしいほめことばは、夜明けの星のかなでる音楽のように、いつまでも記憶に残り、心の糧になるものなのだ。

 この言葉には思い至る所がある。僕のこれまでの成長を支えてきたのは、やはり「優しい褒め言葉」やそれに類する態度だった。思えば母が極めて前向きな人だったから、僕の骨肉が和食によって形作られたように、僕の精神もまた建設的な態度によって育まれた。そんなわけで僕の臓器は「優しい褒め言葉」を徹底的に消化してエネルギーにするよう順化してしまい、否定的な言説に含まれる1割の肯定でも生きていけるようになった。
 そう考えれば、ほかの誰かを「活(生)かす」のも同じだろう。だからこそ、文中に引用された「成功に秘訣というものがあるとすれば、それは、他人の立場を理解し、自分の立場と同時に、他人の立場からも物事を見ることができる能力である」というヘンリー・フォードの言葉が現実味を帯びる。
 それだけに、同様に引用された逆パターンの戒めには耳が痛い。心理学者アルフレッド・アドラーのいわく、「他人のことに関心を持たない人は、苦難の人生を歩まねばならず、他人に対しても大きな迷惑をかける。人間のあらゆる失敗はそういう人たちのあいだから生まれる」という。そうかも。もちろん、必ずしも苦難や迷惑や失敗が悪いとは思わない。けれど、かといって犬死じゃあ英雄譚になるべくもない。
 あるいはニコラス・バトラー博士いわく、「自分のことだけしか考えない人間は、教養のない人間である。たとえば、どれほど教育を受けても、教養が身につかない人間である」という。それでも僕は内向的な知識の蓄積にも敬意を禁じ得ないけれど、確かにそれが善としての教養であるかとなると否定的だ。情報が知恵に変質するその転換点にはやはり、他者が――少なくとも、想定されては――いるんじゃないかと思うんだよね。
 そういう態度に立った時、一見すると小技のように見える次のような指南も実は、より大局的な人間観に基づく行動だと感じられる。

人と話をするとき、意見の異なる問題をはじめに取り上げてはならない。まず、意見が一致している問題からはじめ、それを絶えず強調しながら話を進める。互いに同一の目的に向かって努力しているのだということを、相手に理解させるようにし、違いはただその方法だけだと強調するのである。

 例えば電話会議で交渉をしているとき、僕の上司はよく「同じページを見ていることを確認しよう」と言って合意済みの基本的な事柄に立ち返っていた。初めはそれに仰々しいような勿体ぶったような感じを覚えたけど、これがどれほどの時間(つまり、お金)の節約していたか、今になるとよく分かる。この一歩後退して全体を俯瞰するのと同様、次のように一歩横にずれて相手の帽子をかぶるのも、結果的には「急がば回れ」かも知れない。著者は「あなたがそう思うのは、もっともです。もしわたしがあなただったら、やはり、そう思うでしょう」と言ってから別の意見を言うべきだ、と説く。同じ商品でも、売り手と買い手とでは見え方が違う。そして厄介なことに、往々にして「見え方が違う」ということが自覚さらには共有されない。視点の差異を共有するという後退もまた、俯瞰図を与えてくれる。
 これらの示唆はまた、焦る気持ちを抑えることで多くを生み出す次のような知恵につながっていく。

命令を質問のかたちに変えると、気持よく受け入れられるばかりか、相手に創造性を発揮させることもある。命令が出される過程に何らかの形で参画すれば、だれでもその命令を守る気になる。

 これは僕にも経験があって、論理的な思考力のある相手であるほど、こちらの断定的な話に対しては猜疑心を持ってしまう。これは健全な脳の生理だ。だからこそ、課題を提示して解決策を求めるとか、あるいはそこまで「丸投げ」することが許されなければ、こちらの話を仮説だと言い切って改善を依頼する、なんてことで複数の脳の生理をチームの推進力に変えていけるのだろう。チームワークという観点では、他人の評価についても著者はサンテグジュペリの興味深い発言を引用している。

相手の自己評価を傷つけ、自己嫌悪におちいらせるようなことをいったり、したりする権利はわたしにはない。たいせつなことは、相手をわたしがどう評価するかではなくて、相手が自分自身をどう評価するかである。相手の人間としての尊厳を傷つけることは犯罪なのだ。

 もちろん僕は、本書が描くような寛大で思慮深い、つまりはデキた人間じゃない。けれど、同書に引用されたシェイクスピアの「徳はなくても、徳あるごとくふるまえ」という言葉には勇気づけられた。徳あるごとく振る舞ったら、それってまさに有徳の人じゃんか。寛大で思慮深いかのように振る舞えば、それって寛大で思慮深い人だよね? ともかく、まずは謙虚に模倣からはじめましょう、ということで。
 さて、本書は最後に「幸福な家庭をつくる七原則」についても触れてあるのだけれど、ここで引用されていたドロシー・ディックス女子なる人の発言が面白かった。この部分だけでは本筋には関係ないけれど、備忘。「結婚という出来事にくらべると、出生は単なるエピソードにしかすぎないし、死もまた取るに足らない事件にすぎない。」

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Finance予習 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/03/234938 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/03/234938#comments Wed, 03 Jun 2009 14:49:38 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/03/234938


 ビジネス・スクールの必修科目のうち、苦労しそうなところを予習しておこう、という企画。教科書に関する在校生の意見は二通りで、一方は「時間がかかっても原書のみで読んだ方が身につくし英文を読む速度が早まる」というもので、他方は「和訳も併用した方が時間の有効利用になる」というもの。それぞれに説得力がある。結局、僕は過去の経験から前者に近い立場を取って、まずは原書に挑戦してみることにする。そして、必要に応じて事後的に和書を参照しようという腹積もりだ。ところが、この原書という奴が想像以上に分厚い。先が思いやられるなぁ。


 MITスローン校が必修科目のFinanceで使う教科書は、ロンドン・ビジネス・スクールのリチャード・ブリーリー(Richard A. Brealey)教授とスローン校のスチュワート・マイヤーズ(Stewart C. Myers)教授による「Principles of Corporate Finance」。最新の第9版には、ペンシルバニア大学ウォートン校のフランクリン・アレン(Franklin Allen)教授も執筆陣に加わっていると言う。勤務先の先輩からひとつ前の第8版を借りる。第9版はボストンで読むとして、その時に2つの版の違いが分かるくらい内容を飲み込めたら自分を褒めてやろう、という算段だ。
 ところが、手渡されたこの本の重みで、僕の甘い計画はぺしゃんこに押しつぶされそうになる。アメリカの本は厚い。それはスカスカの紙に印刷されているからであって、決して分量が多いからというわけではない――という通説は霧散した。この本は薄く上質な紙に印刷されていて、1000ページ近くある。推理小説の最後を読んで興味を失うのにも似て、僕は最終ページのページ番号を見て自信を失ってしまう。重版の違い云々という以前に、とても読みきれる気がしない。
 けれども、原書のみを読むべしと勧めてくれたある先輩ですら「最初の1, 2週間は教科書5, 6ページ読むのにも1時間かかった」という。それが、量をこなすうちに「最近は斜め読みが出来るようになって1時間もあれば20~30ページは読める」というから、乗りかけた船だし、これを愚直に信じてやってみよう。
 思えばこれに似たことは経験済みだ。2002年の冬、サン・フランシスコの図書館とドーナツ店で、辞書と首っ引きでマイケル・ポーター(Michael E. Porter)の「Competitive Strategy」と「Competitive Advantage」を読んだ。はじめて読む洋書に、なぜこんな本を選んでしまったのかと自分を恨みながら。あの時に比べれば、多少は読解力もついたのではないか。否、読解力は上がっているべきだ、という前提で行こう。結局のところ、僕はあれから7年後に立っているべきところに自らを押しやるしかないのだ――現在地がそこに至っていなかったとしても。
 ミクロ経済学も読んでおこうと思ったけれど、1時間10ページ読んだとして「Principles of Corporate Finance」を読み終わるのに100時間。うーん。ともあれ、まずは目の前の敵からやっつけてしまおう。

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ガディッシュ他「プライベートエクイティ 6つの教訓 経営のための知恵袋」 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/03/092425 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/03/092425#comments Wed, 03 Jun 2009 00:24:25 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/03/092425


 本書はプライヴェート・エクイティ(PE)事業の詳説というよりは、副題の通りPE側から事業会社側に対する助言、という内容だった。前書きは「本書をその一助とされながら、正しい時期によいパートナーを選択され、名実ともに業界内でのグローバルリーダーシップをお取りになる日本企業が、たくさん出てこられることを、祈念してやまない。」と訳者であるPE幹部が宣伝調で結んでいる。時折見えるこのような論調がポジション・トークの疑いを無用に招くのが残念だったけれど、それを差し引いても、PEの競争力の泉源を示唆する良書だった。


 著者は「結局のところ、フルポテンシャルを追求するための現実的で実施可能なタイムフレームは、ほとんどの場合、3~5年ということになる。つまり、それがPE投資家の標準的なタイムフレームなのだ。」という。僕は3~5年の時間軸が絶対的に意味があるとまでは思わない。それは「フルポテンシャル」というゴールの高さ自体が時間軸によって伸縮するだろうからだ。3~5年という時間軸は、しかし、それでも相対的な意味があるだろう。それは、四半期決算に一喜一憂する短期保有の投資家にも、企業統治が弛緩しがちな長期保有の系列会社にもない、新しい時間軸だろうからだ。その傍証として次のような記述がある。

いまや企業総価値が1億ドルを超える資産のほぼすべての売却は、意欲的な投資銀行によって競売にかけられているのが現実だ。さらに、1980年代にはプライベートエクイティのリターンが非常に高かったことから、雨後のたけのこのように新しいファンドが設立され、競争も激化している。今日では、資産を潜在的価値より割り引いた金額を買うことはほとんど不可能だ。

 競争を通じて市場の値付けが機能しているからこそ、裁定取引の余地は小さい。この状況下で重要度を増すは、より根源的な企業価値の向上になる。そこで威力を発揮するのがPE投資家の行動力だ。「最初のイニシアチブを100日以内に着手することを目指して、ブループリント・プロセス作成作業に2~6ヵ月ほどの期間をあてるように計画する」という。企業価値向上のための数か月単位のプロジェクトはコンサルティング会社も実施するけれども、PE投資家は自己資金を投じており、主として機関投資家から集めたその資金には期待収益という重荷が課せられている。企業価値向上を早期に仕上げる動機はPE投資家の方が高いだろう。そのためにPEが採用する指標も徹底している。

「顧客1人当たり利益」を測定するのは事後を振り返ることでしかない。それに対して、「先月獲得した、高い価値を持つ顧客の数」の測定は、将来の重要な行動指針を明らかにする。同様に、「売り上げ減少」の測定は確かに問題の指摘にはなるが、何人の顧客が解約したかという顧客チャーン(離反率)の測定は、マネジメントがどういう奨励策を打つべきかの指針を与えてくれる。

 外部の投資家が、投資先事業の「決算報告で明らかになる前にモニターできるような指標」が何であるかを見極めるのは容易ではない。そこで興味深いのはTPGキャピタル共同創業者のジェームス・カルター氏の(James Coulter)次のような発言だ――「私たちは、たちではなくらの価指標を使う。コーポレートセンターが先入観で押しつける経営指標ではなく、ここの事業部門にとって意味のあるパフォーマンス指標を使うべきだ」。それは例えば、下記のような事例に象徴される。

たとえば、投資先の1つがワイン醸造会社だったあるPEファームは、指標に総資産利益率や経済的付加価値(EV)ではなく、キャッシュフローとそのキャッシュの回転サイクルを使った。なぜなら、ワイン醸造業は固定資産が非常に重要な意味を持つ特異な事業だからである。収益から減価償却費を引く評価指標を使うことは、長期的に企業価値を高めることになるブドウ園とワインセラーを持ち続けるワイン醸造会社には、短期的には実態以上に会社の価値を過小評価させることになるからだ。

 このような実直さは投資先の功労者への報酬についても明言されている。「重要なイニシアチブで抜群の功績をあげた幹部に、(かなりの金額の)ボーナスを支給することには何の問題もない。」と著者は断言し、投資先の経営陣への経済的誘因の与え方について次のように説明する。

たとえば、マネジメントチームは当初その企業の全株式の5~10%を保有し、さらにあと20%を手にすることも可能な形だ。つまり、投資期間(3~5年が多い)の最後には、その企業の価値の4分の1が彼らのものになるというタイプのインセンティブだ。これはかなりの金額になる。給与とボーナスを足した額よりもはるかに大きい。それぞれの企業の事情にもよるが、このシステムに数十人が関与するとしたら、全体のパフォーマンスには相当な影響を与えるだろう。

 著者は優秀な人材を引き付けるための要素として、「会社の使命」、「地理的場所」、「出張の有無」、「魅力的な幹部」、そして「刺激的な上司」を挙げている。けれども、その最前列で述べられるのは「人材に対する金銭的オファーは、少なくとも彼らが負うリスクに見合ったものであるべきだ」との哲学だ。そして、次のように続ける。

古くさい給与等級や、時代遅れの階級システムの考え方に縛られてはいけない。ほかの企業が有能な人材にどのような報酬を提供しているかを調査し、そのデータに基づいて、他社と比べて見劣りのしない給与を保証すべきだ。

 ここで語られる経済原理は――その冷たい語感とは裏腹に――、たとえば獲得した顧客の数であったり、人材への報酬であったり、ひたすら実態に根差している。棚卸資産管理や受取・支払勘定管理を通じた現金創出能力向上のくだりなどは、商店街の青果店のそれと全く変わらない基本を説いているに過ぎない。けれど、この愚直さはどこか青臭い危うさを孕みつつ、しかし、若さに満ちていて魅力的だ。ここにPEの熱源があるのではないだろうか。

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ジラール「マティス 色彩の交響楽」 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/30/111948 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/30/111948#comments Sat, 30 May 2009 02:19:48 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/30/111948


 「マティスの時代展」を観たあと、ブリヂストン美術館の売店でこの画家についての本を買う。グザヴィエ・ジラール(Xavier Girard)による「マティス 色彩の交響楽」。図版と資料が豊富に盛り込まれたこの本は、二部構成になっている。前半は時代背景とともに画家の生い立ちを解説し、後半は本人や周囲の発言によって画家の内面に迫っている。一番の収穫は、華やかで装飾的な作品を描くこの画家の、苦悩や渇望、そして思考に触れられたことだ。


 過去の巨匠たちに学んでいたマティスは、しかし、旧来の手法から脱出する。彼は「飲みこまれること、つまり自分を見失うことを恐れて、ルーヴルは見ないようにしていた。ただし、日本の絵は見た。そこには色彩があったからだ。」として、浮世絵に「色彩はそれ自体で価値をもち、独自の美しさをもっている」と書いている。環境についても「だから精神性を抑圧することのない、より素朴な方法を身につけるため、田舎に出かけるのです」と言ってコルシカ島を目指す。マティスは田舎の素朴な生活に、大地に根を張る生命力を求めたのだろうか。
 生活に根差す、という点でジラールは次のように指摘する。

 マティスは、芸術は日常生活に参与すべきだという、アールヌーヴォーの芸術家に共通する考え方を持っていた。しかし装飾に対するマティスの考え方には、別の側面もあった。彼は「表現と装飾は、ひとつのものにすぎない」と娘婿のジョルジュ・デュテュイに語っている。

 のちにニースのホテルで滞在したマティスは、葉巻の灰が落ちて開いてしまったシーツの穴をふさぐのに、助手のジャクリーヌに「簡単なかけはぎではなく、ひなげしの刺繍にしてくれ」と言うらしい。そうして、ひなげしの刺繍が点々と施されたシーツで79歳の画家が寝起きしていたと思うと、僕はその事実が何よりも、マティスが装飾と生活に寄せた思いを物語っているように感じる。「装飾」というと、あたかも「余分なもの」の同義語のように聞こえるけれど、マティスはむしろ、その装飾にこそ生命を見出したのだろう。美しく飾られたひたむきな生命、それは花々の命を思わせる。この飾の実体性でも呼ぶべき発想は、画家の次の発言に集約されるように思う。

 駝鳥の羽の帽子をかぶった、この若い娘の肖像を見てください。羽は飾りであり、装飾的要素のように見えるが、物質でもあるのです。つまり、軽さ、はかなさを感じさせるもの、ふっと息を吐きかけることのできそうなものなのです。(略)私は典型的なものと個別的なものを同時に、すなわち対象を前にして自分が見、感じるものすべてを要約して表現したいのです。

 このように情報量の多い画面がどうやって創られるのか、マティスは次のように説明していた。

必然的な色調の比率というものがあり、それにしたがって物体の形態(フォルム)を変えたり、構図を変えたりします。この色調の比率を初めから全体的に獲得することができないので、それを求め、仕事を進めていくのです。そのうちに、あらゆる部分と部分の関係が決定的なものになる瞬間がやってきて、それ以後は全面的に描き変えるのでないかぎり、タブローに筆を加えることはできなくなります。
(ジョルジュ・デュテュイ「フォーブたち」)

 
 一枚の絵画はその一枚のみで雄弁に語りうるものだけれど、残念ながら僕が美術館でそれと対峙する数分間で聴き取れるメッセージは限られている。だから、このような説明の助けがあると絵画体験が深まる。上のような言葉があってようやく僕は、例えば「ダンス」のような作品で、少ない色数にも関わらずなぜあれほど凝縮された空間が生まれるのか、ということを意識できるようになる。

 孫引きした上の文章に加えて、画家自身が「芸術に関する著作と言葉」とか「画家のノート」といった文章を残していたというのは意外だった。僕はもしかしたら、画家は絵だけを描く人間だと早とちりしていたのかも知れない。さらに、その誤った前提をもとに僕は、ある絵画についてはその絵画のみを情報源として理解しなければならない、という印象を抱いていたこともあった。
 もちろん美術館に行けば壁の解説を食い入るように読んだり、また音声ガイドに聞き入ったりするのだけれど、そこには若干の後ろめたさもあった。それはちょうど、デートの最中に相手の履歴書を読むかのようで。けれど、マティスの次のような文章を読むと、履歴書を読んで理解が深まるならばそれでいいじゃないか、と背中を押されるような思いがする。鑑賞者もまた、特定の手法――つまり美術館で絵を観るだけ――、に依存することはないのだ。

画家の思考はその表現手段と別個に論じられるべきではありません。思考が深まれば深まるほど、表現手段も完全(完全ということは複雑ということではありません)になるのです。私が生に対して抱く感情と、私がそれを翻訳するやり方とを区分することは不可能です。
(アンリ・マティス「芸術に関する著作と言葉」)

鋭い感受性をもちながら特定の手法に依存せざるを得ないとき、あるいは鋭い感受性が特定の手法に頼ることを妨げるとき、人生はいかに苦痛に満ちたものになることでしょう。そのことを考えると私はまったく途方に暮れてしまいます。私の人生はずっとこんな調子でした――(略)。
(A. ルヴェールあての手紙)

 この創元社「知の再発見」双書、手軽な分量でありながら深く掘り下げられていて、素晴らしい出来だと思う。これから他の画家についても読み進めて行こうと思う。

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ルイス・ガースナー『巨象も踊る』 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/11/214740 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/11/214740#comments Mon, 11 May 2009 12:47:40 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/11/214740

 Lilacさんのブログで紹介されていたルイス・ガースナー『巨象も踊る』を読む。前のエントリーで取り上げたリチャード・ブランソンを異端と呼ぶならば、ガースナーはそれとは対極の正統に位置する経営者だろう。けれど、ふたりに共通するのは原則を曲げない信念と、そして、あくまでも実行にこだわる姿勢だ。さらに著者としての共通点は、驚くほど簡素で、ゆえに力強いその言葉にもある。この分かりやすさ、信念や実行力の強さと無関係ではないだろう。

当社は市場でぶっ飛ばされている。競争相手が当社の事業を奪っている。そこでわたしは、今度は当社がぶっ飛ばす番になるように望んでいる。
(中略)
競争への注力は感情によるものでなければならず、理性によるものであってはならない。頭で考えるのではなく、肚の底からのものでなければならない。競争相手は、われわれの家に侵入して子供たちや孫たちの教育資金をもっていこうとしている。これが実態だ。

 この野蛮にすら聞こえる訓辞で、400人超の経営幹部を鼓舞する。当時のIBMには往年の栄光に浸る雰囲気や内向的な官僚主義があったようだから、新しいCEOであるガースナーのこのような発言はどれほど新鮮であったことだろうか。この発言には演出の側面があったかと思いきや彼はそれを否定し、「わたしは競争相手をぶっ飛ばすのが大好きだ。負けるのは心底嫌いだ。」なんて明言する。誰だって上辺くらいお上品に化粧したい誘惑に駆られるだろうに、この直球勝負。
 同様に、彼は「小さいものは美しく、大きいものは醜い」という言説についても、「まったくの戯言だ」と一刀両断。これは耳が痛い。僕自身も大企業に身を置くと、例えば中小企業の経営者と話をするときは、期せずして「大企業は鈍重で、官僚的で、反応が鈍く、効率が低い」と卑下しがちだ。なぜなら、日本的な謙譲の美徳もあって、その方が心地いいからだ。問題は、その謙遜の自己認識がいつしか、本来自分たちが負っている能力と果たすべき責任をすら過小評価してしまうことだ。
 だから、次のような彼の言葉がどれほど、大組織ゆえに生まれがちな甘えを戒め、組織を通じた個々人の才能の発揮を促すことか。逆説的だけれども、ガースナーは、重要なのは組織の大小ではなく組織員が活躍できるか否かだと説いているように聞こえる。個々人の貢献が肝要であるがために、結果として、多数の人々が属する大組織はそうでない組織以上に成果を生むべきなのだ。 そして経営者は組織をそのようなるべき姿と率先して導くのだ、と自らにもまた高いハードルを公言して課しているように見える。大企業の組織員にも規模ゆえの言い訳を与えないのと同じ厳格さを以て、彼は、大企業の経営者からも同様の口実を奪っている。

大きいことはいいことなのだ。規模は力だ。幅と深みによって、巨額の投資、思い切ったリスク負担、投資の成果を根気強く待つ姿勢が可能になる。/象がありより強いかどうかの問題ではない。その象がうまく踊れるかどうかの問題である。見事なステップを踏んで踊れるのであれば、蟻はダンス・フロアから逃げ出すしかない。

 この正統派の矜持はドット・コム・バブルに沸く業界に対しても掲げている。たとえば、「誇張をお許し願いたいが、狂った科学者(マッド・サイエンティスト)やハーメルンの笛吹きのような経営者が幅を利かせる業界だからこそ、われわれが成功する必要があるのだ」なんて、カッコイイじゃんか。これは彼がハーヴァード・ビジネス・スクールを卒業してマッキンゼー、そしてアメックスの部門責任者やRJRナビスコのCEOを経験した、という外見上の正統性を振りかざしているのではなさそうだ。当然それらの経歴が彼の価値観と無関係とは思わないけれど、この自負はビジネスのあるべき姿へ強いこだわりからくるのだろう。例えば、ドット・コム・バブルについて次のような言及がある。

投資家、そして顧客にとっての教訓は、近道はないということだ。多くの人にとって、eビジネスの「e」は、「イージー」の「e」になったのではないだろうか。イージーな金儲け、イージーな成功、イージーな生活。だが、骨組みまでそぎ落とせば、eビジネスも結局のところビジネスなのだ。そして、本物のビジネスは真剣なものだ。

 ガースナーの、ビジネスマンとしてのこの自負は企業の社会貢献の在り方にも関連する。彼は企業からの寄付による社会貢献では「企業は本来の力を出し切っていない」という。

企業は社会のなかで独特の性格をもった組織であり、いくつかの点で、他のどの組織よりもすぐれた力をもっている。とくに重要な点を挙げるなら、企画、資源管理、顧客や関係者へのコミュニケーションなど、各種の生産的活動の方法を知っており、これらはほぼすべての非営利団体にも必要だし、重要なものだ。 (中略) 非営利団体が卓越した組織を築き、維持しようとするとき、支援を要請できる相手が企業以外にあるだろうか。

 ガースナーは、家族、教会、仕事を除けば、公立学校制度の質を高めることが「人生の中心」になっていると言う。そのためにアチーブ(Achieve, Inc.)という組織を立ち上げ、各州知事と企業経営者らによる教育改革のための協業に取り組んでいる。本人は言及していないけれど、これはコミュニティ・カレッジの職員だったという母親や、「四年ごとに自宅を担保に教育費を借り」た両親という、教育熱心な家庭環境の影響かもしれない。
 ガースナーの魅力は、彼のストイックなまでの実行へのこだわりや、好戦的とも言える勝利への執念よりもなによりも、それらの背後に見え隠れするビジネスへの高い期待と、ビジネスマンであることの矜持にあるように思える。企業の活動自体や企業経営のスキルが社会をより良いものにしていくという信念が、ただ彼の中にあるというだけではなく、行間から滲み出ている。

言うまでもなく、こうした攻撃はアメリカを混乱させ、麻痺させることを目標にしている。(中略) 過去数時間に、当社は多数の大手顧客から業務再開のための支援要請を受けており、IBMチームが対応の準備を始めている。したがって、二〇〇〇年問題での「溶解」を防ぐために努力したのと同様に、いま当社は破壊されたインフラストラクチャーの再建に重要な役割を担わなければならない。現時点でできる最善の動きは、仕事に集中し、要請があれば支援できる態勢を整えておくことである。

 2001年9月11日にテロの悲劇が起こったその日に、このようなメールを全社員に発信できる経営者、惚れてしまうなぁ。

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リチャード・ブランソン『僕たちに不可能はない』 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/11/195016 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/11/195016#comments Mon, 11 May 2009 10:50:16 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/11/195016

 友人Oと、気に入った本を4月から毎月一冊ずつ紹介し合おう、ということになり、彼から紹介された1冊目がこれ。レコード店から航空会社、そして宇宙旅行会社までを立ち上げた異才起業家の人生哲学が書かれている。小難しい経営論ではないからどんどん読める。そして、読み終えた時、ブランソンに対する畏敬の念が僕を襲う。あまりにも型破りで彼にはおよそ太刀打ちできそうもないけれど、しかし、こういう経営者が存在し得る以上はビジネスは捨てたものじゃない。ならば、自分も何かやってやろう、という興奮が止まらない。


 船での大西洋横断や、気球での大西洋と太平洋の横断など、冒険家としての彼の破天荒さは圧倒させられる。けれども、冒険家は手品師と同様に世間をアッと言わせるのが性分というような職業なのだから、僕の反応もいわば当然かもしれない。
 けれど、それ以上に僕が驚いたのは経営者としての彼の実直さや、実直さゆえの奔放さだ。たとえば、いちど株式公開した自社株を、株価暴落後に投資家の値買い戻す創業者なんてそういないだろう。MBOのなかには経営陣がその立場を利用して一般投資家から有利に株式を買い戻している、なんて指摘を受けたりするものがある中で、ブランソンの実直さは際立って見える。

 だが、シティのやり方に愛相が尽きるまで、そんなに時間はかからなかった。シティと僕とは、結局相容れないのだ。公開したあとは、どのバンドと契約を交わすか話し合うために、それまでのように自宅兼仕事場の船でパートナーたちとリラックスしたミーティングを持つ代わりに、取締役会のご意見を頂戴しなければならなくなった。彼らのほとんどは、音楽ビジネスとは何かをてんで分かっていなかった。
(中略)
 その後、大規模な株価暴落が起こった。自分のせいではなかったが、僕はヴァージンの株を買った人全員を落胆させてしまっているように感じた。株主の中には友人も家族も社員もいれば、貯金をはたいた夫婦もいる。僕は決心を固めた。株を全部買い戻そう。彼らが株を買った値段で。そんなことをする必要はなかったのだが、でも僕はみんなをがっかりさせたくなかった。買い戻しのために僕は個人的に1億8200万ポンド(約370億円)を調達しなければならなかったけれど、自由と名誉と、自分のキャラクターを守り切るには、必要なことだったと思っている。

 自宅兼仕事場が船っていうのもすごい――この船を手に入れたエピソードもまたユニークなのだ――けれど、落胆した株主に対して経済的な穴埋めを提供する創業者/経営者というのもすごい。企業統治の問題にしても、音楽事業にあたって取締役会が理解と迅速さを欠いたからといって、いちど公開した企業を非公開化するまでのエネルギーを割く必要があるだろうか。この常識人の疑問は本書を通じて1ページごとに湧いてくる。
 1990年にイラクがクウェートを侵攻し、さらに15万人の難民がヨルダン国境を越えたとき、ブランソンはヨルダン国王に電話をする。そしてヴァージン航空機は4万枚の毛布と食糧と医薬品を積んでヨルダンに飛び、同地からイギリス人を救出してくる。さらにその物資が難民に行き渡ってないと聞いたブランソンは自らヨルダンに行き、「物資を止めていた大臣と激しくやりあったあと、物資を難民キャンプに届けさせた。」
 さらに、イラクのサダム・フセインがイギリス人を捕虜にしていると知り、ヨルダン国王を通じて、フセインに対して医薬品と捕虜の交換を提案する。そこで、航空機が押収されるリスクを冒して自らもイラクに飛んで捕虜を乗せて帰還する。彼はこの経験を振り返って「僕は『ビジネスマン』だったからこそ大きな『良いこと』を実行できたのだと分かる。(中略)ビジネスマンには、政治家にはない『継続性』があるのだ。」と書いている。
 この本は、企業戦略や企業統治、リスク・マネジメントの教科書としては大して役に立たないかも知れない。ブランソンだからこそ成功裡に実行できたのだろう、と思わせられることばかりだからだ。けれど、そのように型にとらわれないユニークな方法で目標を達成し、のみならず、新しい目標を設定して挑戦を継続していく、彼の人生観は理想の経営者像を背中で語っているような気がした。
 もちろん、僕が株主や債権者の立場でいて、自分の投資先/融資先の経営者がこんな冒険家だったら気が気じゃないだろう。ブランソンのような経営者がヴァージンをして非公開化するしかなかったとしたら、それは一方で、金融市場の臆病な側面を図らずも示唆しているのかもしれない。こういう経営者にこそ、潤沢なリスク・マネーを供給できたら面白いのになぁ。

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「男の家事」 - 椅子のクッションを修繕する http://www.thesyntaxerror.net/2009/01/18/090146 http://www.thesyntaxerror.net/2009/01/18/090146#comments Sun, 18 Jan 2009 00:01:46 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/01/18/090146

From Blog 2009

もう2か月も前になるけれど、ブログThe Great Escapeで「男の家事」という本が紹介されていて、Kajken氏の軽妙な紹介にひかれて購入。僕もまた、氏の言うとおり「僕たちは自分にできることをただやるのみ」という謙虚な、けれど、それなりの気概でもってこの本を注文した。2か月の熟成期間を経て昨日、ようやくページを開く。ネクタイをして風呂場を洗うこの本の写真は傑作で、妻と笑いながらこの本を読んだのだけれど、僕は内心、かなり感化されていた。そこで先刻、椅子のクッションの修繕に取り組むのだけど、あまりのトホホさ加減に全力失笑してブログでも書くことにする。


 経営者の資質の中に「士気の低い部下をどのように動機づけるか」という項目があるけれど、この本はまさに、家事業界の問題児を更生させるための教則本だった。そして最も素晴らしい点は、それと気づかせないところにある。美しい写真、力強い文言、そして、明確な手順。僕たちは祭礼としての家事を司る神官なのであった。

汚れが目立ちやすい窓ガラスだけに、掃除の効果は一目瞭然だ。部屋全体の明るさ、清潔感にがぜん違いが出る。それだから窓ガラス掃除は、達成感が大きいのだ。ここではワイパーを2本使った、プロの掃除法を紹介する。

 これが「窓を磨く」という見出しの下で述べられる導入部だ。次に、「1 ガラス用洗剤を全体にスプレーする」などとして、ひとつひとつ写真とともに神事の手順が説明される。窓の汚れという原因ではなくて、この作業の先の達成感にフォーカスする。あくまでも結果志向、そして、未来志向。もちろん一流の結果を得るために「プロの掃除法」を体得する必要がある。こういう論法なのだ。
 たぶん女子向けなら、「頑固な汚れもこれで解決。カリスマ主婦が裏ワザを伝授!」というような、原因志向で世俗的なコピーになるんじゃないかと思う。彼女たちにとって、窓ガラス掃除によって清潔感が出るなんて余りにも自明過ぎて、だから噴飯ものなのだ。「窓を磨く」の締めくくりは「7 落とし忘れは確度を変えて目で確認」。これでA4版見開き2ページ。手取り足取り。けれど、この幼稚さを全く感じさせないエディトリアル・デザインの力に脱帽。
 さて、そして椅子のクッション。食堂の椅子の座面がヘタってきてしまったので、これをなんとかする、という一大事業に着手。修理屋に出してもいいのだけれど、椅子を4客運ぶのは面倒だし、無駄な出費も避けたい。そこで、ドイトで低反発クッションを買って、これを椅子の座面とカバーの間に追加することにする。以下、「男の家事」調にプロの対処法を紹介しよう。
椅子のクッションを修繕する
亭主の注意はともすると卓上の料理のみに向いてしまうが、椅子もまた、食客をもてなす重要な素材だ。長年使いこんで座り心地が変わってしまった椅子も、クッションを直すことで生き返らせることができる。目立たない部分だからこそ、細やかな心遣いが伝わるというもの。ここでは低反発素材を使った修繕法を紹介する。
1 値札を取る
クッションについた値札は座り心地に悪影響を与えるので、取り付ける前に取り除く。この時に、ハサミでクッションを傷つけないよう注意する。
2 座面のカバーを外す
四辺のベルクロ(編注「マジックテープ」ではない)を丁寧に外し、座面のカバーを取り外す。取り外したカバーは後で必要となるので保管しておく。

From Blog 2009

3 クッションをあてがう
座面に合わせてクッションを置き、角度を変えて位置を確認する。
4 座面のカバーを取りつける
クッションに力を加えて押しつけながら、先ほど取り外しておいたカバーを取りつける。前後左右に注意をして、ベルクロをしっかりと留めていく

From Blog 2009

5 カバーに入らない
ウレタンのコシが予想外に強い場合、最後の角がカバーに入らないことがある。あまり無理をするとカバーが破れるので、諦めも肝心だ。自分で裁縫できない場合は特に、カバーを破らないようにすること。他人の家事を増やさないことを心がける。
6 全力失笑
せめてブログのネタにし、転んでもタダでは起きないこと。椅子は妻が起きる前に戻し、レシートを探して返品に備える。朝食の際は努力を喧伝せずに平静を装うこと。男の家事、思いつきのあだ花も秘すればこそ。

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100パーセント超の男の子 - 村上春樹「カンガルー日和」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/10/212715 http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/10/212715#comments Tue, 10 Jun 2008 12:27:15 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/10/212715

 空港で買ったもう1冊の本は、村上春樹の「カンガルー日和」だった。自宅か、あるいは実家の書棚には同じ本が並んでいるはずだけど、僕は短編「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を読み返す必要を感じていた。気に入った箇所を3つ、書いておこう。


 まず、「100パーセントの女の子」から。気に入った、というよりも、ごく個人的な新しい感想として。100パーセントの女の子に向ってすべき話は、「『昔々』で始まり、『悲しい話だと思いませんか』で終わる」。75パーセントの恋愛や85パーセントの恋愛の話もまた、やはり同じように「昔々」で始まるのだけれど、終わり方はそれぞれに違う。こういう話の終わり方をするのは、100パーセントの女の子の話だけだ。その理由は、言うまでもなく、彼女が100パーセントの女の子であるためだ。
 さて、と、僕は100パーセントに女の子に関する話の結末を変える方法を考える。僕は十億の組み合わせを検討した末に、僕らが100パーセント超の男の子になればよい、という結論に達した。もちろん、このロジックには飛躍がある。これは飛躍の話だからだ。
 ふたつめの付箋は次の箇所に貼った。

世の中というのは奇妙な場所です。僕が本当に求めているのはごくあたりまえのハンバーグ・ステーキなのに、それがある時にはパイナップル抜きのハワイ風ハンバーグ・ステーキという形でしかもたらされないのです。
(村上春樹「バート・バカラックはお好き?」)

 ウェイトレスは「食べる時にパイナップルをどけちゃえばいいのよ」と言うけれど、とかく制度というのは厄介だ。僕たちは、ときに荒くときに細かいデジタルな選択を繰り返しながら、角ばった影を人生に落として歩いていく。マンハッタン島を見よ。
 みっつめの付箋は、そのページをもう一度読み返すまで、なんで貼ったのか思い出せなかった。

ワッペンにはあしかの絵と「メタファーとしてのあしか」という文句が印刷されていた。僕はそのワッペンの処置に困って、ちょうど近所に違反駐車していた赤いセリカのフロント・グラスのまんなかに貼りつけておいた。
(村上春樹「あしか祭り」)

 そうだそうだ。この文ならば、「違反駐車する」という表現は「駐車違反する」というよりも、ずっとずっと正確に思える。きめ細かな言葉の選択が、丁寧に注がれた生ビールの泡のように陶酔を導く。

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ホエア・シャル・ウィ・ゴー? - 野口嘉則「3つの真実」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/09/204130 http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/09/204130#comments Mon, 09 Jun 2008 11:41:30 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/09/204130

 ジョン・F・ケネディ空港の入国審査は混んでいて、それなりに快適だった空の旅の余韻も、一気に二流市民という現実がかき消す。正確に言うと、僕は市民ですらないから、つまり、アメリカから見れば潜在的なテロリストということだ。この国に降り立つともれなく、そういう貴重な気分が味わえる。けれども、読み終えたばかりの「3つの真実」は、このささくれ立った気分と状況にも一条の光明を与えてくれた。


 僕は自分の婚約者のことを考えていた。来月はふたりでサン・フランシスコの空港に来る。その旅を想像をしていたから、入国者を入国審査官の列に捌く係員に、一人旅の僕は思わず「僕たちはどこに行けばいいですか?(Where shall we go?)」と聞いてしまった。「たなはこに行けばいいかって? 21番の窓口へ!」と、係員。そこには、「わたし」と「わたしたち」の区別もつかない僕の英語への非難と、窓口まで付き添っては行かないという拒絶のニュアンスがあった。
 21番の窓口にはアジア人と思しき老人が並んでいて、ヒスパニック風の家族が並ぶ22番よりはたり思えた。両親と3人の子どもの指紋を採ったり、彼らがアメリカに永遠に居座りはしないか確認するのは、ずいぶん時間がかかりそうだったからだ。欲を言えば旅慣れた出張族と思しき日本人が並ぶ20番が良かったけれど、21番の老人も身なりも悪くないし、ソツなく入国してくれる雰囲気だ。
 ところが、21番の係員は老人に、「これは持っていないのか」と窓口に貼った税関申告書を指す。実に初歩的。イラついて普段以上に心の狭い僕は、申告書を書くために老人が列から脱落することを予想し、かつ期待する。ところが老人は雑多な書類の束を入国審査官に渡し、「ここから探してくれ」という素振り。これは寝技だ。審査官も無碍には断れないようで、結局は申告書を探してやって署名させる。記帳台は列の後ろだけれど、署名だけなら勘弁してやろう。
 しかし、と思う。アメリカの入国手続に時間がかかるというのは分かっていたことだし、それはこの老人のような全入国者たちの手続の総和だ。そこには当然に僕自身も含まれる。さらには、この老若男女白黒黄色の多様性こそがアメリカの魅力であって、僕もまた突き詰めればその魅力がためにこうして仕事に来ているのだ。目の前の老人が税関申告書を手に持っていなかったことを取り沙汰するのは、葉を見て森を観ず、だろう。あまりにも瑣末。
  出張者やら観光客やら移民やらが続々と押し寄せて、この土地で前に進んでいく。それは紛れもない事実で、問題はこの鼓動を感じるかどうか、ということだ。アメリカの根本への理解は、3日間の短い滞在と言えどもこの国で過ごす時間の質と成果を変えうる。ならば、「3つの真実」が提起するような人間関係への理解と無理解は、ついには僕たちの人生の終着点をも変えてしまう大きな違いになるはずだ。空恐ろしくもあり、心躍るものもある。さて、僕たちはどこに行こうか。

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乾くるみ「イニシエーション・ラブ」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/09/201836 http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/09/201836#comments Mon, 09 Jun 2008 11:18:36 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/09/201836

 恋愛は、ミステリーだった。機内で読むものが欲しくなって、わざわざシャトルに乗って第二ターミナルのれある三省堂まで行く。以前「のだめ」を買ったように、搭乗直前の買い込み。「評判通りの仰天作。必ず二回読みたくなる小説など、そうそうあるものじゃない。」という帯に惹かれて買ったのが、この乾くるみ「イニシエーション・ラブ」。裏表紙には「青春小説――と思いきや、最後から二行目(絶対に先に読まないで!)で、本書は全く違った物語に変貌する」なんて書いてある。気になって仕方ないので、騙されたと思って読んでみた。そして、騙された。筆者の痛快無比なトリックに。


 何を書いてもネタバレになりそうなので、僕はまるで小学一年生の感想文のように、「おもしろかったです」としか書いていいことが見当たらない。確かに読み終わってすぐに読み返した、と付け加えてもいいだろう。ひとつ爆笑したのは、あるサイト(未読ならクリックしないほうがいい)で、「この小説の裏タイトルは『チープ・ラブ ~マユの物語~』だ」と筆者が言っていたという逸話。実に気持ちのいい確信犯。

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野口嘉則「3つの真実」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/09/191542 http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/09/191542#comments Mon, 09 Jun 2008 10:15:42 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/09/191542

 空港に向かう電車のなかで、野口嘉則「3つの真実」の後半を読み終える。この本はX氏が僕にくれたのだけれど、役員秘書からこの本の入った封筒をもらった時、正直に言って僕は警戒した。当初の僕の意図とは無関係に、しかし、結果的に、僕のある提言がX氏の職業上の地位を脅かしていたからだ。だから、この本の――あるいは、この本を渡されたことの――趣旨は、恨み節でも言い訳でも仕方なかった。僕は生まれて初めて、道義的な義務感から本を読んだ。けれど、この本の内容は温かみに満ちていて、僕は、わだかまりが溶けていくのを感じた。


 主人公の事例がいちいち我が事のようで、胸に突き刺さる。けれど、「人間は肉体を超えた存在であり、宇宙の偉大な力とつながっている。」というくだりには、ちょっと身構えてしまった。これが世に言うピリチュアル系のか? 「わしは」とか「じゃった」とかいう老人も怪しい。けれど、巻末に霊媒師やら壺やらの広告がないことを確かめて、僕はとりあえず読み進む。そして、思わず涙した。
 いくつかの重要な示唆があるのだけれど、たとえば、人間の行動の背景には「愛」か「恐れ」かのいずれかしかない、とは核心を突いている。文中ではそこまで触れられていなかったかと思うけれど、一見同じに見える行動でも「愛」に起因するものと「恐れ」に起因するものがありえるだろう。「怒り」が「恐れ」が引き起こす、あくまでも二次的な感情である、という看破も納得。
 さらに、「Doing(行動)」と「Having(結果)」ではなく、「Being(存在)」をこそ評価せよ、という。これは母親の子に対する無償の愛にも似ていて、一般に敷衍するのは難しい。難しいけれど、試みる価値は十分にあるし、その先には疑うべくもなく平和が見える。他人の行動や結果を裁きたくなる衝動は時として抑えがたいけれど、それって実はあんまり生産的でないこともよく分かる。
 いま僕は、唐突に「歓ちゃんの仮装大賞」のことを思い出す。僕はあの甘い評価、特にメーターが「あと一歩」となると、結局は審査員が満点にしてしまうような、あの惰性が嫌いだ。けれど、低得点が続出したら茶の間は白けてしまうかもしれない。一方で、「のど自慢」や「アメリカン・アイドル」の冷静な評価に感じる好感も否定できない。健全な競争と存在の受容とを、どのように両立させればよいのだろうか。
 物語のなかで特に象徴的だった事例は、恋人の誕生日をめぐるものだ。男がガールフレンドを喜ばせようとしてクルーズを予約するのだけど、当日彼女は遅刻してふたりは船に乗りそびれる。そこで彼は彼女を責めて、結局のところ彼女に辛い思いをさせてしまう。それはまさしく、目的とは正反対の結果だ。なんとありがちな話か。
 この本の内容には、実はそれほど特別な新事実がある訳でもなく、切り口こそ新鮮だけれど物語自体はむしろ普遍的だ。ただ、本書はスティーブン・コヴィーの「7つの習慣」にも似ていて、共有することで大きな価値を発揮すると悟った。このテキストを叩き台にして話し合えば、人間関係はより充実したものになりそうだ。
 だから僕は、成田の空港から読み終えた一冊を婚約者に送り、母にはこれを読むことを強く勧めるメールを打った。ちなみに母は、驚くべき行動力でこの本をその日のうちに買って読み終えてしまった。東京に帰ったらX氏とも話をしよう。

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神と我が正義、そして、我が権利 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/08/221315 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/08/221315#comments Thu, 08 May 2008 13:13:15 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/08/221315

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 観劇のチケットを受け取りに行くついでに、王立歌劇場の周囲を歩く。「ロミオとジュリエット」だとか次回公演のポスターも気になるものの、それ以上に僕の目を引いたのが、ポスターの掲示板の上に掲げられた英国王室の紋章。間近で見ると、「Dieu et mon droit」と書いてある。イギリスなのにフランス語。まぁ、それはともかく、このフレーズは面白い。


 フランス語の「Dieu et mon droit」を英語に置き換えれば「God and my right」ということだから、まず僕は「神と我が権利」と日本語で理解する。これだって十分面白い。神に仕え、そして得た権利を行使することが、国家成立の基盤になるなんて発想は日本人の僕の実感にはない。家々が集まって集落、集落が集まって市町村、市町村が集まって都道府県、都道府県が集まって国、というのが僕の素朴な実感だ。神というより近所。
 いま僕は空港のラウンジで、うっかり本を受託手荷物に入れてしまったので正確に引用できないけれど、司馬遼太郎は「アメリカ素描」で次のようなことを言っていた。アメリカが自らの国家を指す「ステイト(state)」という語は、「法定の(statutory)」という語にも語幹が通じ、いかにも人工国家らしい、と。また、それに対して他の国の「ネイション(nation)」という語は、「自然(nature)」の語に語幹が通じ、民族集団として自然発生的に生じた経緯に沿っている、というようなことも言っていた。後者は、僕の「近所」の拡大版としての「国家」という発想と同じものだろう。
 英国大使館のサイトによると、「神と我が権利」は12世紀に遡る言葉で、15世紀にヘンリー6世が王家の銘に採用したらしい。近所というより神との契約のなかで社会を規定する発想、司馬の着想を借りれば「ネイション」よりも「ステイト」に近い。ジャン=ジャック・ルソーの「社会契約論」が18世紀に書かれたことを思えば、発想としての「社会契約」自体は、ルソーのはるか前から存在していた、と言えるのではないか。僕の勝手な想像にすぎないけれど。
 さらに面白いのは、英国大使館は「God and my right」を「神と我が権利」ではなく、「神と我が正義」と訳している。僕はとっさに「権利」と訳して面白がってしまったけれど、「神」と並列する文脈なら「正義」のほうがしっくりくる。とはいえ、「正義」と「権利」が同じ言葉というのも、あらためて考えればそれ自体もなかなかに面白い話だ。この銘が示唆するように「神の思し召し」と並列して考えれば、神の思し召しが個々人に降り注いだら、それはたしかに「権利」であり「正義」でもある。
 「正義」は実務上「義務」を生じるから、これを「義務」と換言するのを悪ノリと思わないでほしい。神と、我が義務そして権利。能天気な僕にはあまりピンとこないけれど、この発想はアメリカや、欧州諸国の発想を理解する糸口を与えてくれるような気がした。

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http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/03/234226 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/03/234226#comments Sat, 03 May 2008 14:42:26 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/03/234226

 僕はまえに「アメリカ素描」という題でブログを書いた。けれどこれは、実は本家の司馬遼太郎の本はまだ読んでおらず、そのくせ題名だけを拝借するという、厚かましさの二階建てだったりする。そこで、ニュー・ヨークから帰るなり思い出したように後付け的に本家を読みはじめる。これが、なかなか面白い。1980年代の司馬にはゲイ文化がよほど鮮烈だったらしく、サン・フランシスコでの見聞に30ページも割いている。ともあれ、まず注目すべきは、本書の骨格を形成する「文明」と「文化」についての明快な定義だ。

文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的ではない。

 と、このように司馬は文明と文化を定義する。少なくとも所与の文明に対する文化の境界は、寡聞にしていままで聞いたことがないほど明瞭だ。文明間の境界を論じるには少々心許ないとはいえ、文明に普遍性を求めて、文化に特殊性を認める発想はほかでも重宝しそうだ。題名に続いてこちらも失敬しよう。さて、その上で次の指摘が面白い。

どの文化でも文化への参加には、名人芸を要する。しかし文明というレベルでいえば、グズであれ利口であれ、万人が参加できるものでなければ文明にならない。

 そこで、矢印を見れば分かるはずのエレベーターの上昇/下降の区別を、わざわざランプで示すごとき「親切文明」の起源をアメリカに見出す。司馬が「親切文明」と呼ぶ潮流は日本にも押し寄せているけれど、本国アメリカは訴訟回避と相俟って大変なことになっている。
 ミシガン訴訟濫用監視団(Michigan Lawsuit Abuse Watch)というNPOの開催する「間抜けな注意書きコンテスト(Wacky Warning Label Contest)」の入賞作をみると、そこにはいつか日本をも飲み込みそうな新しい文明の隆盛を感じてしまう。いや、半分は真面目に言ってるんだよ。
 まず、大賞は「危険:死を避けましょう(Danger: Avoid Death)」。死亡を禁止したフランスの村を思い出さずにはおれないけれど、これって生命倫理に関わる発想なんじゃないかと思うけど、実現できないから冗談で済むのだろう。

 次点以降にも、Tシャツの「着たままシャツをアイロンしないでください(Do not iron while wearing shirt)」、買い物袋つき乳母車の「子どもを袋に入れないでください(Do not put child in bag)」、封筒開けの「注意: 安全ゴーグルをお勧めします(Caution: Safety goggles recommended)」、布用消せるマーカーの「布用消せるマーカーは小切手や法的文書の署名には使えません(The Vanishing Fabric Marker should not be used as a writing instrument for signing checks or any legal documents)」といった仰天の注意書きが並ぶ。
 仰天とは言ったものの、趨勢としては驚くに値しないかも知れない。そのうち、アメリカ文化である球場のホット・ドッグにすら、「注意:ホームランを見逃す恐れがあります」という親切文明が打ち寄せるかも知れない。ところが、実はアメリカの球場は防護フェンスが少なくて、まえに連れて行かれたヤンキー・スタジアムはファウル・ボールで死人が出てもおかしくない構造だったのを思い出す。「注意: 死を避けましょう」からすればずいぶん不親切だ。アメリカのなかですらも、親切文明とアメリカ文化は鬩ぎ合っているのかも知れないし、過剰な親切は幸いにしてまだ「文明」というほどの普遍性を獲得してはいないのかも知れない。

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経済の網と交通の網 - キンドルバーガー「経済大国興亡史」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/03/12/165015 http://www.thesyntaxerror.net/2008/03/12/165015#comments Wed, 12 Mar 2008 07:50:15 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/03/12/165015

 先週に続く名古屋出張で、新幹線の本数の多さとビジネス客の多さにあらためて驚く。そして、車中でチャールズ・キンドルバーガーの「経済大国興亡史」を読みながら、交通と経済発展の相関を思う。物の流れがこの数世紀間の経済覇権を規定したように、これからは、人の流れが覇権を決するのか、とか、決しないのか、とか。


 キンドルバーガーは、近現代ヨーロッパ経済における遠隔地貿易の重要性に言及したうえで、次のような説を紹介する。

一説によると、輸送手段における技術革新は、それが市場を連結し、アダム・スミスが国民の富の増大の基礎となると考えた分業を促進することから、技術革新のなかでももっとも広く普及する形態の革新であるとされる。

(チャールズ・キンドルバーガー「経済大国興亡史」)

 僕がこんな風に新幹線で気軽に名古屋に来られるからこそ、名古屋と東京は同一の日本経済圏を形成している、という考え方だ。これに僕は説得力を感じる。逆説的に、経済圏の境界は交通の障壁が決める、と考えればなおイメージが湧く。その障壁は山だったり海だったりイデオロギーだったりするのだろうけれど、それらの障壁は一義的には交通を分かち、その結果として市場を分けるという推論は腑に落ちる。
 もちろん、「否、経済圏が分かれているからこそ交通が少ないのだ」と考えることもできる。けれど、その反証はスペインに求めることができるだろう。16世紀当時のスペインは「内陸部は経済発展にとって障害となった。道路は貧弱であり、ラバの背に荷を積んだり、牛に荷物を牽かせたりすることでは、それぞればらばらの状態の諸地方を統合することはできなかった」と言われている。そして、次のような状況もまた言及される。

(19世紀においてさえ:引用者注)スペインの諸地方、そのなかでもとくに小さな町村がカスティーリャ標準を順守せずにいることについて、コルテス(スペインの身分制議会:原注)に不満の声が寄せられたが、そのなかには、公布された標準が適用されたところでさえ、物差しや秤そのものが正しいものであるかどうかを検知する態勢がまるでお粗末なままであることに対する告発も含まれていた。

 キンドルバーガーは「経済的な交換を行う際の取引コストを減らすためには共通の測定基準が必要とされる」という。とすれば、スペイン国内の度量衡の不統一は、同国内の市場の不統一を連想させる。一方で、新大陸アメリカからもたらされた銀がセヴィリヤやマドリッドを潤したことを考えれば、セヴィリアやマドリッドの経済圏は内陸の小集落よりもむしろアメリカ大陸に近かったと思われる。
 地理的に近い2点が同一の経済圏を形成しないのならば、そこには何らかの阻害要因あるいは積極的な要因があると推定できるのではないか。そして、その大きな要因のひとつに、交通網の整備が挙げられるだろう。スペイン国内の町村は陸上交通網の未整備が、新大陸アメリカは海上交通網の発達が、それぞれマドリッドとの経済的な距離を決めた、とも見える。もちろんアメリカには銀という積極要因があってこそだけど、国内の町村については道路の未整備という阻害要因が目立つ。
 市場を二者間での交換の集合と考えれば、交通網の濃淡でもって市場の境界を引き直すのもあながち暴論ではないだろう。運ばれる貨物の物量と単価の積に応じて交通網に濃淡をつけて、その網目の濃い部分を「市場」と定義しなおすわけだ。もちろん、これ自体は別に新しい発想でもなく、世界の貿易地図みたいな類で見た記憶もある。
 とはいえ、20世紀中盤までならいざしらず、いま経済活動すなわち物流と見做せば、これこそもはや暴論だ。そこで、「世界の貿易地図」を物流のみならず旅客や投融資や通信で描き直したらどうなるだろうか?というのが僕が新幹線で思ったことだ。日本と世界を結ぶ網は、その濃い部分が、太平洋から再び東シナ海や日本海に動いているのがよく見えるんじゃないかな、なんて。

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アンリ・ポアンカレ「科学の価値」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/03/10/210401 http://www.thesyntaxerror.net/2008/03/10/210401#comments Mon, 10 Mar 2008 12:04:01 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/03/10/210401

 名古屋に向かう新幹線のなかで、アンリ・ポアンカレの「科学の価値」を読む。数理や物理をめぐる議論も大いに示唆に富むものだったけれど、僕は何にも増して、全編を貫く理への情熱心を打たれた。もちろん、「たとえば、電気理論・熱理論はこの偏微分方程式の新しい面を見せてくれる」式の、僕の理解を超える「例え話」が本の過半を占めることは正直に認めよう。それでも、この読書が無駄にならなかったのは、ポアンカレの澄んだ言葉にある。


 この本は、レアで焼かれたステーキと同じつくりになっている。巻頭と巻末に格調高く焼き締められた言葉の被膜があって、これが内部から滴る数学者の生の言葉を包んでいる。ともすると切り分けるのも咀嚼するのも難しい生肉が、表面の焼き目によってナイフを受け容れるのとも、よく似ている。

真理の探究――これがわれわれの行動の目標でなければならない。これをおいては行動に値する目的はないのである。(略)われわれが人類を物質的苦労からだんだんに解放して行こうと望むのは、人類がかくして得られた自由を真理の研究と観照とに用い得るようにするためなにのほかならない。

(ポアンカレ「科学の価値」)

 という崇高な信念ではじまるのだから、僕も襟を正して読もうという気になる。そして、次のような結びの言葉は、もはや達観と呼ぶほかない。

地質史の示すところによれば、生命は二つの永遠の死の間における短いエピソードにすぎず、このエピソードの中においてさえ、意識された思想は一瞬の間しか続かなかった、今後も続かないだろう、ということになる。思想は長い夜のさなかにある一閃の光に過ぎない。しかし、この一閃の光こそすべてなのである。

 もちろん、ポアンカレは科学が万能だと論じるわけではない。道徳的真理と科学的真理がいかに互いの独立を保つかについて、やはり冒頭で説明する次の文章は説得力がある。

道徳は何を目的として目指すべきかを示し、科学は目的が与えられているとき、その目的を達するための手段を知らしめるものなのである。この両者は交差することがあり得ない以上、互いに衝突し合うことはあり得ない。不道徳な科学があり得ないこと、まさに科学的道徳があり得ないのと同様である。

 ポアンカレはこうやって境界を明確にしたうえで、しかし、科学の側では分野を超えて縦横無尽に議論を展開する。いわく、時間をどのように測定すべきか、とか、多次元空間とはどんなものか、などという議論を進めていく。話の内容は僕の理解の範疇を超えがちだけれど、けれど、それらのテーマは一貫して「世界をどのように認識(測定)すべきか」というものであるように思う。
 僕たちは日々、無数の状況思われるもの対して判断を下して行動しているのだけれど、それらの状況についての僕たちの認識は本当に正しいのか?という自問はなおざりになりがちだ。地図の通り進んでも、地図が間違っていたら目的地には着けない。天文学や流体力学の発想を借りて、日頃の発想をストレッチしてみる価値はある。凝った体の節々が柔らかくなるのは、それだけで気分がいいものだから。

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小山薫堂「考えないヒント」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/03/04/065028 http://www.thesyntaxerror.net/2008/03/04/065028#comments Mon, 03 Mar 2008 21:50:28 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/03/04/065028

 分厚い本を読み終わったら、あるいは、それと並行して、箸休め的な本を読もう。小山氏の本ならきっと軽いだろう、と思って選んだこの新書はやっぱり、軽かった。打ち合わせの合間に、麹町のカフェであっさりと読み終わってしまった。ところが、軽いということと、空疎ということは、違う。小山節は番組もエッセイも、実用書でさえも同じなのだ。


 一番参考になったのは、「ストーリーがあれば、必ず何かのコンテンツになる。それを見つけることが大切なんだ」というフレーズ。そして、自分がストーリーのなかに埋没しないように旅行者の視点で日常を見直すべし、とくる。「コンテンツ」の部分は「事業」や「企画」と読み替えてもいいだろう。これは日々の仕事に、即日適用だな。
 もっとも、個人的に共感したのは次の部分。最近、唐突にヴァイオリンをはじめて周囲を呆れさせている僕としては、こういう援護射撃はありがたい。

一見関係のなさそうなこっちの人とあっちの人を結びつけたり、こっちのアイデアとあっちのアイデアを結びつけたりすることで、新しいアイデアが生まれる。それがアイデアの化学反応です。
一つのことだけやっていると、その世界の枠組みのなかでのアイデアしか浮かばないから、なかなか大きな発想に発展しない。

(小山薫堂「考えないヒント」)

 あとは、「自分の実績をわかってもらえるような『名刺になる仕事』と、『お金をもらうための仕事』」という発想。これは小山氏のみならずフリーランスの友人はよく口にしているけれど、あらためて考えたら僕自身も普段思っていることだ。とはいえ、ネーミングの力というか、シンプルに名づけられると意識しやすくなって重宝する。
 最後に、「書斎は狭いほどいい」という氏の主張で、「発想の質や量と、環境の広さや豊かさは比例しない」という。書斎を広い部屋に引っ越したのは間違いだったかなぁ?なんて思いながら、元は書斎だった狭いダイニングでこれを書く。国際線の機内で仕事がはかどる、というのは同感。あれはなんなんだろう。

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