The SYNTAX ERROR Blog » 学ぶ http://www.thesyntaxerror.net MIT Sloan / London Business School MBA留学記 Mon, 22 Nov 2010 02:24:03 +0000 http://wordpress.org/?v=2.8.6 ja hourly 1 入学 - 小さな日本の僕 http://www.thesyntaxerror.net/2009/08/22/225919 http://www.thesyntaxerror.net/2009/08/22/225919#comments Sun, 23 Aug 2009 03:59:19 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=1031

8月12日、留学生向けのオリエンテーションが始まり、この日を以って僕は正式にMITスローン校に入学する。とは言え、このクラスルーム・コミュニケーション・アンド・カルチャー・ワークショップ(略して)の初日は朝食と昼食の間に簡単な説明があるだけだった。同級生の中には前日に入国したという人もいるから、まぁ、肩慣らしというところだろう。

朝、家を出て既に最寄り駅として馴染みも出てきたチャールズ通り駅の階段を登ると、心地よいフルートの音色。このストリート・ミュージシャン――というか、”ステーション”・ミュージシャン?――の演奏は、僕のご都合主義な脳内で入学祝いと学業成就の吉兆という風に強く解釈され、ちょっとした小銭を渡しておまけに写真まで撮らせてもらう。

教室棟のロビーでは簡単な朝食としてコーヒーやジュース、クッキーやフルーツなんかが供されているのだけれど、新入生でごった返している上に学生同士の挨拶――名前やら出身国やら前職やら――で忙しくてコーヒーを飲むのがやっと。これだけでは名前すらもほとんど覚えられないのだけれど、ともかく、人種と経歴の坩堝ということだけは痛感する。

自分の名前が書かれた名札とバッジをもらう。円形劇場の形をした教室の机に名札を挿し込んで、バッジを胸につけると、学校訪問じゃなくて学生としてこの席に座っているんだ、っていう実感が噴き出してくる。僕は実はスローン校なんかには合格していなくて、ただ単にそう思い込んじゃった痛い子なんじゃないか、とごくたまにだけれど思うことがあった。すでに着陸はしていたものの、この名札とバッジをもらって、ようやく入国審査を通り抜けた気分だ。

隣に座ったのはKという韓国人で、前職は戦略コンサルタントだという。彼とお互いについて話をし、クラスの前でお互いのことを紹介しあう。ところで、C3を担当するハートマン教授が、MBA以前の学位におけるケース・ディスカッションの経験をクラスに尋ねたところ、多くの学生は未経験だったものの、韓国や中国出身の何人かは経験があると手を上げていたようだった。日本人で手を挙げていた人はいなかったようだけど、もし違っていたら同級生の方、教えてください。

全世界全学科の教授法が金太郎飴式に同じである必要はないけれど、少なくとも僕の学部時代ではケース・ディスカッションなんて別世界の話だった。聞いたことぐらいはあったけれど、見たこともなければ、もちろん、経験したこともない。経験を即ち武器と考えたら、米国のMBAというある種のスタンダードに対して、彼らは既に一歩先んじた武装をしている、なんて風にも大げさに考えたら言えなくもない。

言うまでもなく、ビジネス・スクールの教室は「世界がもし100人の村だったら」式の縮図ではない。地球にはこれほど高濃度にコンサルタントや投資銀行家がいるわけじゃないからね。けれど、この教室を国際的な経営人材のプールとして俯瞰して、その中で自分自身やそのバックグラウンドである日本がどれだけ競争力を持ち得るのか、を知るには十分な地図を提供してくれるだろう。

スローン校は決して過度に競争的な校風ではないし、足の引っ張り合いのような低次元の競争にも興味がない。けれど、この協業的な環境の中でどれだけ自分が貢献できるか、という切磋琢磨はしっかりと勝ち抜いて行きたい。小さな日本の僕がこの大洋でできることは何か、なんて殊勝にも思う。だから忘れないように書いておくんだけど。

ハートマン教授とケリー教授の説明の後は、入学の意思をサインして晴れて入学手続きを済ませ、ファカルティ・クラブという宴会場でランチ。ちなみに、ここで学校のロゴの入った水筒とマグ・カップをもらう。ゴミを出さないようにこれを使うべし、とのことで気が利いている。ランチではボストン名物のクラム・チャウダーなんかが出される。思えば渡米してからずっとブリトーかピザかコーンフレークという食生活だったから、テーブル・クロスの上でちゃんと食事をしたのは久し振りだなぁ。

テーブルを共にしたのは、クラスにお互いを紹介しあったKに加えて、タイ、セネガル、あと、たしか南米からの仲間。南米は国じゃないだろ、と自らにツッコミつつ、これがまたなかなか覚えられないんだよねぇ。

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http://www.thesyntaxerror.net/2009/08/22/225919/feed 0
MIT Sloan在校生・卒業生による受験生向け説明会 http://www.thesyntaxerror.net/2009/07/06/063728 http://www.thesyntaxerror.net/2009/07/06/063728#comments Sun, 05 Jul 2009 21:37:28 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=940

告知協力。

MIT Sloan在校生・卒業生による受験生向け説明会のご案内

MIT Sloan School of Managementの在校生・卒業生による学校説明会を以下の通り開催いたします。今回は当校卒業生でATカーニー日本代表である梅澤高明氏の基調講演をはじめとして、多数の在校生・卒業生の体験談を皆さんにご紹介いたします。Lecture, Case, Practiceが絶妙なバランスで調和された最先端のカリキュラム、チームワーク重視の活動的なコミュニティ、ボストンでの生活等々、MIT Sloanの魅力を是非この機会に体験してください。

1. 日時 2009年8月9日(日) 14:00-16:00 (13:30より受付開始)
2. 場所 新宿住友ビル47F スカイルームA Room2
http://www.bellesalle.co.jp/sankaku/skyroom_top.html
3. 内容 梅澤高明氏(ATカーニー日本代表)基調講演
学校紹介プレゼンテーション
在校生・若手卒業生によるパネルディスカッション
在校生・卒業生への個別Q&Aセッション
ご参考:梅澤氏略歴
http://bizplus.nikkei.co.jp/writer/writer.cfm?i=umezawa-c
4. 申し込み 下記WebサイトSloan101よりお申し込みください。
http://web.mit.edu/sloanjapan/101/index.html

*本説明会は在校生・卒業生による自主的な企画イベントであり、アドミッションプロセスとは一切関係ありません。
*当日はカジュアルな服装でお越しください。
*本説明会は完全予約制となっております。定員(90名)になり次第締め切らせていただきますので、お早めにお申し込みください。

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http://www.thesyntaxerror.net/2009/07/06/063728/feed 0
学生ヴィザの取得 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/27/112037 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/27/112037#comments Sat, 27 Jun 2009 02:20:37 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=910

留学のための学生(F-1)ヴィザが届いた。申請書類を揃えるのをTさんが手伝ってくれたので無事に取得できたけれど、レターの文例などは共有した方が他の誰かの役に立つのではないかと思うので残しておこう。

必要書類

F-1ヴィザの申請に必要な書類は次の通り。

  • パスポート / パスポート紛失釈明文
  • I-20
  • DS156
  • DS157 (16~45才の男性のみ)
  • DS158
  • カラー写真 1枚
  • 英文卒業証明書 1通
  • 英文預金残高証明書 1通
  • 自己推薦保証状
  • I-901 SEVIS費確認書
  • 面接予約確認書
  • ヴィザ申請料金の払い込み領収書
  • 返信用封筒Expack500
  • クリアファイル

パスポート

現在有効なパスポートおよび過去10年間に発行された古いパスポート。 渡米の際は、通常、米国での滞在期間+6ヶ月有効なパスポートを所持していなければなりません。 この6ヶ月ルールが免除される国があります。 それらの国のリストはこちらをご覧ください。 パスポートはIDページ(顔写真付)が見えるよう開いてクリアファイルに入れてください。

僕の場合は2003年にパスポートを失くしてしまい、それまでの海外渡航歴がなんとなくしか分からない。そこで、失くしちゃいまいした、という説明書――というか始末書みたいなバツの悪いレター――を書く。使い回されている雛型があるようで日付だけ変える。ちなみに、そのパスポートは僕がアメリカから帰る飛行機の中で紛失。降機時に気づいて係員に説明し、クルー総出で探してもらったのに見つからず。結局、運転免許証で再入国、という稀有な体験をする。さて、今回提出した釈明文はこんな感じ。

June 23, 2009

Embassy of the United States of America
Consular Section
Tokyo, Japan

Re: Application of E-1 derivative visa

Dear Madam/Sir;

I, the undersigned hereby declare that since I have discarded the latest old passport in January, 2003 when I received the current valid passport, I am not able to submit the latest old passport at this point of time.

Very Truly Yours,

I-20

学校から送られてくるので、それに署名。実は署名欄があるなんて知らなくて、僕はこの書類に署名をしていなかったので、大使館の入口の書類確認で指摘される。中身も読まずに署名する。大抵の手続き同様、ヴィザ申請の過程もすべて「仰せの通りに」という感じだ。肚の中で安らかに眠る僕の反骨精神を悼む。

DS156

アメリカへの渡航歴が記入欄に書き切れなかったので、下記のような表をエクセルで作って添付。

Record of US Entries

Applicant: xxxx xxxx

US Arrival Date | US Departure Date | Length of Stay (Days)
28 Feb., 2009 |  8 Mar., 2009 | 9
27 Jan., 2009 | 30 Jan., 200 | 4

DS157

こちらも海外への渡航歴が書き切れなかったので、どうやら使い回されているらしいエクセルの表に記入。なぜか日本語だけど、気にしない。そもそも日付の表記だとか言い回しとかマチマチで気にならなくもないけれど、「壊れていないものは直さない」の鉄則で、気にしない。

Applicant: Shinta Yoshida

#9 過去10年間に渡航した全ての国(渡航歴も記載)

Countries | When?
U.S.A.  | 2001, 2002, 2004, 2005, 2006, 2007, 2008, 2009
France | 2001, 2006, 2007, 2008

DS158

これは空欄を埋めるだけで済んだ。やれやれ。

カラー写真

僕はこいつのことをすっかり忘れていて、面接当日、溜池山王の駅の構内で撮る。普段は、証明写真機なんて需要に対して供給過剰だと思っていたけれど、僕はこれに救われる。溜池山王にあるはずだ、という野生の勘――というか神頼み――が報われてよかった。ちなみに米国大使館の敷地内にも証明写真機はあったけれど、ATMはないので現金がないと撮れない。大使館に入るためにせっかく長い列をならんだのに、写真と小銭がないために戻される人もいたので念のため。

5cm x 5cm。背景は白で、最近6ヶ月以内に撮影されたカラー写真1枚(白黒不可)。頭部(頭上から顎の下まで)は25mm〜35mm で、顔を写真の中央に置き正面に向けて撮影しているものをDS-156の所定の場所に糊またはテープで貼付してください。ホチキスで止めないでください。

英文卒業証明書

母校に行って発行してもらう。

英文預金残高証明書

学生ローンを借りようと思っているので、残高証明書の代わりにMITの学生資金課(Student Financial Services)が送ってきた財務援助(Financial Aid)のレターを添付してみる。財務援助といっても、MIT連邦信用組合(Federal Credit Union)からの借り入れを確保してくれるだけで、全然得した気がしないんだよね。

自己推薦保証状

雛型を元に、「お金は自分でなんとかします。アメリカの法律を守ります。」という趣旨の保証状を書く。こういうものが必要ということは言いかえれば、お金がなくても流れついて住み着いてしまう(果ては犯罪に手を染めてでも)ほど、アメリカという土地に求心力があるということだ。面接では僕も「卒業したら日本で仕事をするのか?」、「はい、もちろん! 家族が東京にいますから」。「仕事探しは不安じゃない?」、「いいえ、まったく!」というやりとりをした。今年はハーヴァード・ビジネス・スクールの学生すら2割が就職先未定のまま卒業するというから、「いいえ、まったく!」には誇張がある。けれども、「元気?」と訊かれたら「元気元気!」と答えておくことにする。雛型をいじって提出した保証状は下記の通り。

June 23, 2009

Embassy of the United States of America
Consular Section,
Tokyo, Japan

Dear Madam/Sir;

This letter is to certify that I have been employed by xxxxx since April 2003 and that I am admitted to Massachusetts Institute of Technology Sloan School of Management as a full-time graduate student in a Master of Business Administration (MBA) program. The MBA program will commence on August 12, 2009 and it will end on June 5, 2011.

I will leave Japan for the United States after the F-1 is granted by your section.  I hereby confirm that I myself will fund all the travelling expenses including the tuition and living expenses and that I will observe all laws and regulations in effect while I am in the United States.

On the basis of foregoing, I am respectfully requesting the F-1 visa be granted at your earliest convenience.

Sincerely,

I-901 SEVIS費確認書

移民税関捜査局のウェブサイト https://www.fmjfee.com/i901fee/ で必要事項を記入してクレジット・カードで200ドルを支払う。確認書というのは支払い直後に表示される領収の画面を印刷したものでいいので、追加料金を払ってDHLで領収書を送ってもらう必要はないとのこと。

その他

面接の予約やヴィザ申請料金の払い込みは、Tさんが好意でやってくれた。レターの雛型をくれたり、何から何までTさんにお世話になった。感謝!

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http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/27/112037/feed 3
鈴木貴博「カーライル―世界最大級プライベート・エクイティ投資会社の日本戦略」 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/21/124923 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/21/124923#comments Sun, 21 Jun 2009 03:49:23 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=875

http://blogs.wsj.com/deals/2009/05/29/carlyle-group-humbler-but-in-many-ways-bigger/

5月29日のウォール・ストリート・ジャーナル紙が「カーライル・グループ: より質素に、しかし多くの点でより巨大に」という記事で伝えるところでは、カーライルの年次報告書によると同社の運用資産額が2007年から2008年にかけて40億ドル増加し、850億ドルに達したという。そこで、ガディッシュ他「プライベートエクイティ 6つの教訓 経営のための知恵袋」に続き、鈴木貴博「カーライル―世界最大級プライベート・エクイティ投資会社の日本戦略」を読んで同社の理由の秘密を学ぶことにする。

カーライルの会長、ルイス・ガースナー(著書に「巨象も踊る」)は「とどのつまり、カーライル・グループは株主です。株主の立場で長期的に企業の価値が高まることを目指します」と言う。また、著者は「米国のように一年で交代する株主には、長期の視点で経営者を統治するインセンティブはない。一方で、長期にわたって株式を保有する日本の機関投資家の場合は、物言わぬ株主であり続けた結果、企業ガバナンスからは遠い存在となっている」と解説する。プライベート・エクイティ(PE)の価値の源泉は、このような企業統治の間隙を埋めることにあるように思える。例えばマネジメント・バイアウト(MBO)について、本書は次のように言う。

株式会社では通常、これ(MBOのこと、引用者注)と逆のメカニズムが働いている。つまり、「株主による経営陣の交代」である。この株式会社としてのあたりまえのメカニズムが、ある経営環境においては経営にとってマイナスになる現象が起きる。そのときに経営者は、株主を後退させたいと考える。そのようなケースが、カーライル・グループの考えるMBOの本質である。

岩瀬大輔氏が先日の講演で「誰からお金を集めるかが」も重要であると言っていた。僕もまた、資本は無色透明ではなく多様な思惑に染まっている以上、どのような色の資本構成にするかもまた、企業に対して経営者が負う責任のようにも見える。もちろん、経営者は第一義的には既存株主に対して責任を負う(MBOには既存株主との観点では情報格差などの課題もある)。その一方で、副次的ではあるもののより長期的な観点では、経営者は永続的な存在としての企業の成長に責任を負い、それによって製品/サービスや雇用の供給の形で社会的な責任を負っているといっても言い過ぎではないだろう。

上記に引用した「ある経営環境において」の例として本書は、東芝セラミックスの事例が挙げられている。同社は上場を維持したまま大規模な設備投資を行っていれば、株価下落を招いた可能性があったという。既存株主の意向に沿って投資を行わなければ長期的な企業価値が損なわれ、また、既存株主の意向を無視して投資を行えばそれは経営陣による背任的行為だ。そこで第3の選択肢として「MBOによる株主の交代」があるという。ちなみに、設備投資について次のような興味深い言及があった。

株式市場についての研究論文によれば、時価発行増資を伴う大規模投資の発表により、上場企業は平均して25%の企業価値を失うというファクトがある。株式市場は投資により得られるはずの長期リターンよりも、増資によって希釈される足元の企業価値に過敏に反応するのである。

個別の事例の中で、カーライルがキトーに出資した際、カーライルのマネージング・ディレクターである山田氏が行った提案が面白かった。同氏はキトーの北米、欧州、中国の現地法人経営者を集めた経営会議(グローバル・コミッティ)の創設を取締役会に提案して実現させているのだけれど、同会議体の発言の順序に一計を案じたという。発言の順序を米国→中国、の順にしたという。

米国人の新しいCEOは、経営計画を語るにあたって必ずグローバルな視点を加える癖のようなものがあった。米国の利益だけではなく、今キトー全体がどこに向かおうとしているのかをまず語り、いかに成長の可能性があるのかグローバルな事業機会を語り、その絵の中でキトーの米国法人がなすべきミッションを語るようになる。次に中国の発言の番だ。当然、対抗意識を持つ。最初に発言したアメリカのCEOがポジティブに事業機会を示した以上、自分もポジティブに語らなければならない。グローバルな絵の中での中国の役割についても意識せざるをえなくなる。

このようなソフト面での経営への関与も、株主が企業統治のために取るべきひとつの手法だろう。ちなみに上記の米国人CEOは、カーライル側がヘッドハンターを通じて雇用したもので、同社はそれに先立って前任者の責任について証拠を集めて提示し、訴訟回避の準備をしたうえで経営陣を交代させているという。企業の成長にとって必要なアクションは建前としては経営陣によって実施されるべきだけれども、それが何らかの理由で完遂されないときは、新たな経営陣あるいは株主の手によって補完される必要がある。PEはこのような事態の安全網として機能しているように見える。本書はこの点について次のように説明している。

メインバンク制と株式持ち合いという歴史的経緯の影響で資本市場が機能しにくかった日本においては、成長の停滞や部分的に非効率を抱える企業が欧米と比して相対的により長く放置されてきた。放置される期間が長引くことで、当該企業の成長機会を実現するリスクはより高まる。こうした企業の成長を実現するためには、より高いリスクを許容することができ、同時により強いガバナンスを発揮できるリスクキャピタルの担い手が必要となってきた。(略)企業へ直接リスクマネーを投下するのではなく、企業へのガバナンス能力を持つプライベート・エクイティという存在に機関投資家はリスクマネーとガバナンスを同時に委嘱することで、この矛盾を解決しようと図っているとも言えるのである。

日本における資本市場の未発達は、経営者市場のそれとリンクしているだろう。リスク・マネーの供給は、当然に企業統治(ガバナンス)を追求し、場合によっては経営権を直接に要求する。この最終段階で実際に経営にあたれなければ、つまり伝家の宝刀が錆びついていては、リスク・マネーと企業統治とが成すべき表裏一体の関係が剥離してしまう。本書の指摘を引用する。

日本の経営陣はまだまだ経営のプロと呼ばれるほどの人は少ない。欧米のように経営を専門に学び、経営者として何社もの企業を経営し、その結果現在の地位にあるといったプロの経営者は、日本にはほとんど存在していない。多くの日本の大企業ではつい数年前まで社員だった人々によって企業がと経営されているのが実態であるがゆえに、多くの企業は彼らプロになったばかりの経営者によってアンダーマネージされている。

伝統的な日本企業であればあるほど、先輩である経営者が後輩である従業員を指導するというヒエラルキーがピラミッドのほぼ全ての階層を構成していて、不特定の株主に対する責任を意識する機会は驚くほど機会が少ないだろう。僕もまた、大学を卒業してすぐに株主側として投資先の事業計画をともに作成したり役員会に陪席したりしたけれど、僕自身が負うべき自分たちの背後の投資家への責任について本当に意識をしたのは、それからもうしばらく経ってからだった。このような状況を鑑みると、カーライル日本代表の安達氏の考えは明快に響く。

投資をした以上、資金の提供者である企業年金や生命保険などの投資家はリターンを得なければならない。投資家は自らリスクを負いながらリスクマネーを提供しているのだから、その資金を集めたファンドのゼネラルパートナーは経営者の行動に直接責任があるのである。「だからもし経営者ができないとなったら、カーライルは自分で腕まくりをして経営するぐらいの覚悟をもった人間でなければならない。」(と安達は語る、引用者注)

本書はカーライルの日本における投資事例を知る情報源として有益だったけれど、それだけに、全体に散見される「カーライルはいい企業だ」という論調や、ともすると「プロジェクトX」ばりの情緒的な描写が耳障りで残念だった。一方、僕はこのあとで、ダン・ブリオディの「戦争で儲ける人たち―ブッシュを支えるカーライル・グループ」という対照的な論調の本を読んだりもした。結局のところこの分野の――つまり、非文学的な――本における論調や描写なんて、その向こう側にある事実の重要性に比べたら、フィルターで濾してしまえる澱に過ぎない。

]]> http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/21/124923/feed 0 先輩留学生から後輩留学生への助言 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/17/111613 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/17/111613#comments Wed, 17 Jun 2009 02:16:13 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=856

 カリフォルニアでエンタテインメント・マネジメントの修士を取ったKさんからFacebook経由でメッセージをもらう。そこには次のような助言もあった。忘れないように書き留めておこう。Kさんには僕が4年前にロサンゼルスに住んでいたとき、ウォルト・ディズニ・コンサート・ホールでのLAフィルハーモニックの演奏会に連れて行ってもらったこともあった。多くの人に支えられ、また、見守られながら生きている、ということをあらためて思う。

  1. [以下、拙訳] できるだけ多くの本を読むこと。しかし、一行一行を読むのに全ての時間を使わないこと。大量の事例よりも基礎の概念について知る方がずっといいこともあります。教科書や雑誌や新聞を読めば読むほど、ザッと目を通す方法が身につきます。アメリカの学生――ええと、「良い学生」と言いましょう――は、このスキルに長けています。
  2. 質問をすること。恥ずかしがらないこと。もし授業中に質問するのが難しければ、教授が研究室にいる時間やeメールすらをも使うこと。教授たちに、質問を通じてあなたが他の学生にどれだけ貢献しているかについても分からせる必要があります。
  3. 大学院生としての時間を楽しむこと――音楽、美術、スポーツ、その街がもたらすもの全て。多くの場所で学生割引が使えます。
  4. あなたが何を専攻するのかは分かりませんが、こちらの経済状況ゆえ、多くのアメリカ知識人は日本経済の10年間の不況に関心を持っています。その不況について再考して、あなた自身の意見を持つのもよいでしょう。
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http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/17/111613/feed 0
岩瀬大輔氏・石倉洋子氏講演 - 第5回アントレ研究会セミナー http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/16/015022 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/16/015022#comments Mon, 15 Jun 2009 16:50:22 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=757

 6月15日、MIT Sloan卒業生のYさんの紹介でアントレ研究会のセミナーに出席。講演者はライフネット生命保険副社長の岩瀬大輔氏と一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授の石倉洋子氏。岩瀬氏は僕にとって同世代のロック・スターだし、石倉氏にはeラーニングで戦略論を学んだけれど、いままでお会いする機会はなかった。そんなわけで僕は、かなりミーハーな期待に胸を膨らませてこのライヴに臨む。

 岩瀬氏の講演「ライフネット生命の挑戦」で面白かったのは、「起業すなわちニッチではない」という命題。起業して40兆円の巨大な保険市場に正面から勝負を挑む、という発想がすごい。聞けばこのアイディアは、ブログを通じて岩瀬氏に興味を持った投資家が氏に接触して持ち込んだとのこと。自前で発想することも並大抵ではないけれど、このように斬新なアイディアが持ち込まれるネットワークも貴重だ。これは後半の石倉氏の講演にも重なるテーマだ。

 他にも新興企業に重要なこととして、岩瀬氏は、A) 誰からお金を集めるか、B) 誰とともに働くかが重要だという。前者に関しては、外部資本はできるだけ入れず、入れるとしてもヴェンチャー・キャピタルのではなくて事業会社の資本を入れるべきだという。その理由を要約すると、事業会社の方が1) 投資回収の視野が長く、かつ、2) 投資先事業とのシナジーも考慮されるため狭義の投資リターンへの執着が薄く、さらに、3) 新興企業側が投資元企業の顧客資産を活用し得る、とのことのようだ。

 ライフネット生命の大株主には三井物産の名前もあるように、上述の3点は日本の総合商社が得意とする投資先育成の手法のように見える。有望な事業に対し、リスク・マネーを供給することも十分意義のあることだけれど、リスク・マネーのみならず事業経営への支援も提供できるのならば、そのような投資家は出資競争に勝つ公算が高い。岩瀬氏の指摘は、被投資企業にとっての助言となるだけではなく、投資企業にとっても見逃せない視点を提供している。

 さらに備忘として、ライフネット生命の出口社長が岩瀬氏に助言したという「トップの仕事」。それは、1) 他の人がやれない方法での営業(ブログや講演など)、2) 従業員の顔をよく見て全員が笑顔で働けているかを確認すること、3) 会社の成功のために何をすべきかを考えること、だったという。2)については特に、全員が60%の力を日々出している方が、120%の力を出しているよりもいい、というのが印象的だった。後者は長続きしないので、前者のスピードで着実に進むことの方が望ましいという。

 「戦略シフトー組織も個人も」という石倉氏の講演もまた刺激的だった。「変化こそ日常」となり、「オープン化した世界」では組織の壁、民と官の境界、営利と非営利の境界が曖昧になる。さらに、学生の方が教授よりも最新事情に詳しいなど、「力関係のシフト」が起こるという。これらは全て、時代の肌感覚として同感だ。特に、アレかコレかのトレード・オフの「or」の関係を「and」に変える、「両極端の共存」という発想も面白かった。その延長線上のように聞こえたのが、今後はある分野での知識や技術よりも横断的な見方・感度・感性が価値を持つ、という石倉氏の主張。全員が横を向いてしまったら「前」が消えてしまうから、トップ・ランナーたちには引き続き各分野の先頭を走ってもらわないと困る。けれども、そのような少数のトップ・ランナーを除いては、確かに、層を横切る視野の方が個性という競争優位を発揮しやすいだろう。

 このように考えると、石倉氏の「人は誰にでも売りがある」という主張が表層的なお題目ではないと気づく。さらに石倉氏は次のように続ける。「売り」には外面的なものと内面的なものがあるものの、内面的な魅力は会ってみないと分からない。人は全員と会うことはできないから、外面的な売りである程度会う相手を絞る。だから、外面的な売りもまた重要になる、という。考えてみれば、今にして当然と思えるこの話を、僕は今まで誰からも聞いたことがなかった。「内面を磨け」という命題には反対しないけれど、それを「内面さえ磨いていたら誰かが拾ってくれる(はず)」という甘えに転化させてはならない。自分自身をマーケティングする責任を、日本の教育は教えてきただろうか。

 岩瀬氏に生命保険事業の話が持ち込まれたのも、彼の華々しい経歴や意欲的なブログがあってのことだろうし、それらを通じて氏がパーソナリティを伝えてきたからだろう。石倉氏は、これから必要な5つの能力として、「基本となる体力とバランス感覚」に加えて、「現場力」・「表現力」・「時感力(時間に対する感性)」・「当事者力」・「直観力」を挙げる。ここに表現力が挙げられていることは、いわば自身のマーケティングの問題と表裏一体の関係なのではないだろうか。誰かが拾ってくれるという前提はもはや成立しない、と言っては言い過ぎだろうか。

 最後に石倉氏は「自分への質問」として次の3つを問うように勧める。1) 何がユニークなのか。私しかできないことは何か、2) 何が今までと違うのか。昨日の自分と今日の自分の違いは何か、3) 目標を達成したらどんな世界やどんな自分になっているのか。これらを自らに問い、将来から逆算して(backcast)行動せよという。

 ほかに、石倉氏がテーブル・フォー・トゥー(Table for Two)について言及したのは興味深かった。同プロジェクトは、世界経済フォーラム年次総会(ダヴォス会議)がヤング・グローバル・リーダーズ(Young Global Leaders)として選出した、浅尾慶一郎氏、茅野みつる氏、堂前宣夫氏、古川元久氏、近藤正晃ジェームス氏、中田宏氏、ヤト・シウ(Yat Siu)氏らを中核メンバーとしているからだ。石倉氏はダヴォス会議には何度も参加されているようで、この言及にはそのような人的ネットワークの強さを感じさせられた。

 備忘として、両者の講演で言及されていた本と発言を記録。伊藤雅俊「商いの心くばり」(岩瀬氏)、西水美恵子「国をつくるという仕事」(石倉氏)。岩瀬氏の著書・訳書も面白そうなので、いずれ。

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http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/16/015022/feed 0
Finance予習 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/03/234938 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/03/234938#comments Wed, 03 Jun 2009 14:49:38 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/03/234938


 ビジネス・スクールの必修科目のうち、苦労しそうなところを予習しておこう、という企画。教科書に関する在校生の意見は二通りで、一方は「時間がかかっても原書のみで読んだ方が身につくし英文を読む速度が早まる」というもので、他方は「和訳も併用した方が時間の有効利用になる」というもの。それぞれに説得力がある。結局、僕は過去の経験から前者に近い立場を取って、まずは原書に挑戦してみることにする。そして、必要に応じて事後的に和書を参照しようという腹積もりだ。ところが、この原書という奴が想像以上に分厚い。先が思いやられるなぁ。


 MITスローン校が必修科目のFinanceで使う教科書は、ロンドン・ビジネス・スクールのリチャード・ブリーリー(Richard A. Brealey)教授とスローン校のスチュワート・マイヤーズ(Stewart C. Myers)教授による「Principles of Corporate Finance」。最新の第9版には、ペンシルバニア大学ウォートン校のフランクリン・アレン(Franklin Allen)教授も執筆陣に加わっていると言う。勤務先の先輩からひとつ前の第8版を借りる。第9版はボストンで読むとして、その時に2つの版の違いが分かるくらい内容を飲み込めたら自分を褒めてやろう、という算段だ。
 ところが、手渡されたこの本の重みで、僕の甘い計画はぺしゃんこに押しつぶされそうになる。アメリカの本は厚い。それはスカスカの紙に印刷されているからであって、決して分量が多いからというわけではない――という通説は霧散した。この本は薄く上質な紙に印刷されていて、1000ページ近くある。推理小説の最後を読んで興味を失うのにも似て、僕は最終ページのページ番号を見て自信を失ってしまう。重版の違い云々という以前に、とても読みきれる気がしない。
 けれども、原書のみを読むべしと勧めてくれたある先輩ですら「最初の1, 2週間は教科書5, 6ページ読むのにも1時間かかった」という。それが、量をこなすうちに「最近は斜め読みが出来るようになって1時間もあれば20~30ページは読める」というから、乗りかけた船だし、これを愚直に信じてやってみよう。
 思えばこれに似たことは経験済みだ。2002年の冬、サン・フランシスコの図書館とドーナツ店で、辞書と首っ引きでマイケル・ポーター(Michael E. Porter)の「Competitive Strategy」と「Competitive Advantage」を読んだ。はじめて読む洋書に、なぜこんな本を選んでしまったのかと自分を恨みながら。あの時に比べれば、多少は読解力もついたのではないか。否、読解力は上がっているべきだ、という前提で行こう。結局のところ、僕はあれから7年後に立っているべきところに自らを押しやるしかないのだ――現在地がそこに至っていなかったとしても。
 ミクロ経済学も読んでおこうと思ったけれど、1時間10ページ読んだとして「Principles of Corporate Finance」を読み終わるのに100時間。うーん。ともあれ、まずは目の前の敵からやっつけてしまおう。

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ガディッシュ他「プライベートエクイティ 6つの教訓 経営のための知恵袋」 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/03/092425 http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/03/092425#comments Wed, 03 Jun 2009 00:24:25 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/06/03/092425


 本書はプライヴェート・エクイティ(PE)事業の詳説というよりは、副題の通りPE側から事業会社側に対する助言、という内容だった。前書きは「本書をその一助とされながら、正しい時期によいパートナーを選択され、名実ともに業界内でのグローバルリーダーシップをお取りになる日本企業が、たくさん出てこられることを、祈念してやまない。」と訳者であるPE幹部が宣伝調で結んでいる。時折見えるこのような論調がポジション・トークの疑いを無用に招くのが残念だったけれど、それを差し引いても、PEの競争力の泉源を示唆する良書だった。


 著者は「結局のところ、フルポテンシャルを追求するための現実的で実施可能なタイムフレームは、ほとんどの場合、3~5年ということになる。つまり、それがPE投資家の標準的なタイムフレームなのだ。」という。僕は3~5年の時間軸が絶対的に意味があるとまでは思わない。それは「フルポテンシャル」というゴールの高さ自体が時間軸によって伸縮するだろうからだ。3~5年という時間軸は、しかし、それでも相対的な意味があるだろう。それは、四半期決算に一喜一憂する短期保有の投資家にも、企業統治が弛緩しがちな長期保有の系列会社にもない、新しい時間軸だろうからだ。その傍証として次のような記述がある。

いまや企業総価値が1億ドルを超える資産のほぼすべての売却は、意欲的な投資銀行によって競売にかけられているのが現実だ。さらに、1980年代にはプライベートエクイティのリターンが非常に高かったことから、雨後のたけのこのように新しいファンドが設立され、競争も激化している。今日では、資産を潜在的価値より割り引いた金額を買うことはほとんど不可能だ。

 競争を通じて市場の値付けが機能しているからこそ、裁定取引の余地は小さい。この状況下で重要度を増すは、より根源的な企業価値の向上になる。そこで威力を発揮するのがPE投資家の行動力だ。「最初のイニシアチブを100日以内に着手することを目指して、ブループリント・プロセス作成作業に2~6ヵ月ほどの期間をあてるように計画する」という。企業価値向上のための数か月単位のプロジェクトはコンサルティング会社も実施するけれども、PE投資家は自己資金を投じており、主として機関投資家から集めたその資金には期待収益という重荷が課せられている。企業価値向上を早期に仕上げる動機はPE投資家の方が高いだろう。そのためにPEが採用する指標も徹底している。

「顧客1人当たり利益」を測定するのは事後を振り返ることでしかない。それに対して、「先月獲得した、高い価値を持つ顧客の数」の測定は、将来の重要な行動指針を明らかにする。同様に、「売り上げ減少」の測定は確かに問題の指摘にはなるが、何人の顧客が解約したかという顧客チャーン(離反率)の測定は、マネジメントがどういう奨励策を打つべきかの指針を与えてくれる。

 外部の投資家が、投資先事業の「決算報告で明らかになる前にモニターできるような指標」が何であるかを見極めるのは容易ではない。そこで興味深いのはTPGキャピタル共同創業者のジェームス・カルター氏の(James Coulter)次のような発言だ――「私たちは、たちではなくらの価指標を使う。コーポレートセンターが先入観で押しつける経営指標ではなく、ここの事業部門にとって意味のあるパフォーマンス指標を使うべきだ」。それは例えば、下記のような事例に象徴される。

たとえば、投資先の1つがワイン醸造会社だったあるPEファームは、指標に総資産利益率や経済的付加価値(EV)ではなく、キャッシュフローとそのキャッシュの回転サイクルを使った。なぜなら、ワイン醸造業は固定資産が非常に重要な意味を持つ特異な事業だからである。収益から減価償却費を引く評価指標を使うことは、長期的に企業価値を高めることになるブドウ園とワインセラーを持ち続けるワイン醸造会社には、短期的には実態以上に会社の価値を過小評価させることになるからだ。

 このような実直さは投資先の功労者への報酬についても明言されている。「重要なイニシアチブで抜群の功績をあげた幹部に、(かなりの金額の)ボーナスを支給することには何の問題もない。」と著者は断言し、投資先の経営陣への経済的誘因の与え方について次のように説明する。

たとえば、マネジメントチームは当初その企業の全株式の5~10%を保有し、さらにあと20%を手にすることも可能な形だ。つまり、投資期間(3~5年が多い)の最後には、その企業の価値の4分の1が彼らのものになるというタイプのインセンティブだ。これはかなりの金額になる。給与とボーナスを足した額よりもはるかに大きい。それぞれの企業の事情にもよるが、このシステムに数十人が関与するとしたら、全体のパフォーマンスには相当な影響を与えるだろう。

 著者は優秀な人材を引き付けるための要素として、「会社の使命」、「地理的場所」、「出張の有無」、「魅力的な幹部」、そして「刺激的な上司」を挙げている。けれども、その最前列で述べられるのは「人材に対する金銭的オファーは、少なくとも彼らが負うリスクに見合ったものであるべきだ」との哲学だ。そして、次のように続ける。

古くさい給与等級や、時代遅れの階級システムの考え方に縛られてはいけない。ほかの企業が有能な人材にどのような報酬を提供しているかを調査し、そのデータに基づいて、他社と比べて見劣りのしない給与を保証すべきだ。

 ここで語られる経済原理は――その冷たい語感とは裏腹に――、たとえば獲得した顧客の数であったり、人材への報酬であったり、ひたすら実態に根差している。棚卸資産管理や受取・支払勘定管理を通じた現金創出能力向上のくだりなどは、商店街の青果店のそれと全く変わらない基本を説いているに過ぎない。けれど、この愚直さはどこか青臭い危うさを孕みつつ、しかし、若さに満ちていて魅力的だ。ここにPEの熱源があるのではないだろうか。

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瞑想のアナーキズム - 青龍寺 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/02/181353 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/02/181353#comments Sat, 02 May 2009 09:13:53 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/02/181353


 4月29日、中学校の同級生たちと御殿場の青龍寺を訪ねる。僕たちが前にこの寺を訪ねたはたしか中学3年生の春だから、それから15年経って倍の年齢になっての再訪となる。中山和尚と昼食をご一緒して、寺の本堂と縁側でそれぞれ30分の座禅をする。そして、お茶を飲みながらの哲学談義。新緑の晴天の下、静かな禅寺での思索は最高の知的散策を与えてくれた。考えるってのは、それ自体がアナーキーな魅力を放っているように思える。



 事故で渋滞した東名をなんとかやり過ごし、御殿場インターからほど近い青龍寺へ。正門は閉ざされていたので、車を降りて通用口――といっても石畳が敷かれた立派なものだけれど――から境内に入る。途中の池には蓮の葉がびっしりと広がっていて、小さな蛙たちがケロケロと鳴いていた。

 本堂と正門を結ぶ通路の半ばにある鐘楼は木漏れ日の中に凛として建っていて、周囲の空気に心地よい緊張を与えている。以前この鐘楼に登らせてもらって記念写真を――しかも戦隊モノのポーズなんかで――撮ったりしたのが懐かしく思い出されて、もう戻れないその無邪気さに老けた感傷を感じたりもする。いや、僕たちは実際に老けたのだ、と思う。
 
 建物の中には、社寺特有の簡素さと清潔さがあって、それだけで襟を正される思いがする。さらに釘を刺すように玄関には「照顧脚下」の文字がある。靴の脱ぎ方と食事の仕方で人間の品格は大抵バレてしまうだろうに、そんな「足元」はともすると忘れてしまいがちだ(だからバレるんだけど)。
 そういうわけでテニス・シューズをちょっと丁寧に脱ごうかと思ったら、脱いだ瞬間に靴下についたどこかのテニス・コートの砂がパラパラと落ちてきて参った。したかなく足で払って知らん顔をした、なんてのは仏のみぞが知る秘密だ。結果として、我が身の罪深さを玄関からして思い知らされる。ブログで告白したってなんの免罪にもならないけれど。


 座禅の一区切りとして線香1本が燃え尽きる時間があって、これを1炷という。中山和尚は小さな置時計を使って15分を計ったので語源通りではないけれど、これを1炷と呼ぶならば、僕たちは合わせて4炷を座った。ほの暗い本堂で2組に分かれ相対して2炷、そして縁側で中庭に向かって2炷。
 全身の力を抜いて呼吸を整える体操をしてから、本堂で1炷目を座る。
 何しろ15年ぶりの座禅だから、1炷目は「呼吸はこんな感じでいいんだっけ?」とか「どこを見ればいいんだっけ?」とか「何を考えればいいんだっけ?」なんてあれこれ思案するばかりで過ぎてしまった。そして「僕は向かいのアイツより姿勢がいいんじゃないか」なんて妙な対抗心まで出てきて、さすがにこのアイディアのょうもなさ気づき、そのことが試運転としての1炷目の収穫となった。こういう小さくて固い、それでいて移ろいやすい無意味な対抗心が、どれほど自分の思索を阻害することか。ちなみにこれには後日談があって、帰京して自宅で友人たちと飲んでいたら、僕の隣に座ったA君の姿勢は向かいから見て実に良かったらしい。
 2炷目はもう少し建設的で、僕がこのところどれほどい呼吸急き立てられるように生活してきたかを思い知らされた。局所局所ではそれなりに善戦していたとしても、全体としての人生戦略はツギハギだらけだ。だから、ビジネス・スクールへと退避して立ち位置をオーバーホールしようという直観はあらためて適当だったようにも思える。ぴかぴかに磨かれた本堂の床は向かいの級友の鏡像をおぼろに映して、彼の肩越しには明るい初夏の新緑が見えた。この謙虚で静かな時間が永遠であればと思わず願ったけれど、それはただただ僕のマインドセット次第だった。
 2炷目の途中で中山和尚が警策を持って回られて、一同4人のうち3人が願ってこれを受けた。この樫の棒で背中をパンと打つ警策、居眠りする者を罰するものだと誤解されている節もあるけれど、実は願って受けるものなのだ。少なくとも僕が経験した例では常にそうだった。前屈して背を打たれると、同じところをぐるぐる回っていた思考が、警策の与える衝撃でその軌道を飛び出す。艦載機がカタパルトで離陸するように、外部からの物理的な力が思考に与える推進力というのは、現に存在する。
 力学的エネルギーをこの効率で以て形而上エネルギーへ変換できたら、原発一基で人類はみんな悟りを開いちゃうんじゃないか、なんてSFまがいのことを考える。これはまぁ我ながら途方もない話だとしても、原発何万基分ものエネルギーを消費しながらそれに見合うだけの幸福を人類は勝ち得ているか、というのは現実的なトピックだろう。座禅の充実が、どれほど少ないエネルギーで実現されるかを考えると、これほど高効率な事業はないんじゃないだろうか。
 3炷目と4炷目は、生まれてのはじめて屋外を向いた座禅で、僕は中庭の草木や池や岩の膨大な情報量に圧倒されてしまった。このところのガーデニング熱もあって、特にツツジの安定した生命力にはあらためて魅力を感じたし、風に吹かれては葉を落としながらも決して痩せ細ることのない高木の緑には、僕の浅薄な想像の範疇を超えた営みの均衡を感じた。その高木には、こんなに葉が落ちたらすぐに丸裸になってしまうだろうに、なんて思わされたけれど、決してそうはならない。一方で、地球規模での均衡はいままさに崩れつつあって、それは僕たち人間の行動力がその浅薄な想像の範疇を超えたところにまで膨張してしまったからだ。
 子供たちは「想像力>行動力」の不等式を生きているとしたら、大抵の大人たちは「想像力<行動力」の不等式を生きている。15年の時を経て、僕も立派な大抵の大人になった。僕がビジネス・スクールでの2年間に期待しているのは結局、この不等式を等式に、できれば拡大均衡として変えていくことだ。
 それにしても、と思う。この思索は臨済宗の教義とは直接に関係がなさそうで、これは座禅という方法論を僕なりに実践してみた結果だ。教義としてレクチャーされたら僕のような性格だから必ずしも素直に従ったか分からないけれど、瞑想という形で自分自身が造形した発想ならば受け入れやすい。瞑想という方法論は実に分権的あるいはアナーキーで、そして、それだけに個人に対しては内側からの推進力を与えやすいんじゃないだろうか。実務的な、例えばコーチングのようなシーンでも、案外有用かも知れない。

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ジュビリー http://www.thesyntaxerror.net/2009/04/25/171155 http://www.thesyntaxerror.net/2009/04/25/171155#comments Sat, 25 Apr 2009 08:11:55 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/04/25/171155


 4月6日午後11時、マサチューセッツ工科大学のスローン経営大学院(MIT Sloan School of Management)から待ちに待った合格の電話を受ける。それは30歳の誕生日の1時間前のことで、節目というのはこういう風に劇的にやってくるもののかなぁ、なんてことを、怒涛の安堵でふやけていく脳味噌で思った。去年の3月末にビジネス・スクールのことをあらためて意識して、TOEFLやらGMATやらを受験して、年末年始を返上してエッセイを書いたこの1年は、本当に長かった。けれども、夏からボストンで過ごすの2年間や、そのあとの人生はもっと長い。これから起こる出来事を想像するだけで胸が躍る。

真っ直ぐに背筋を正そうぜ。
病んだビール、開け放って。
すんげえ泥臭い日々にさ、ビート入れ、
街中にバラまこうぜ。
日々。
(祝え! 祝え! おお、祝え!)
<中村一義「ジュビリー」>

 この3日前に僕は、妻と近所の公園で夜桜を眺めながら、アウトドア用のバーナーでお湯を沸かしながら焼酎のお湯割りを飲んでいた。携帯電話も持たずに。朝になって電話に残った着信履歴がアメリカからのものだって気づいて、早速折り返したらもちろん現地は夜で電話は留守電につながった。けれど、その留守電が告げるオフィスの主の名前は、僕を面接した入学審査官のものだった。これは吉報なんじゃないか、と期待しつつ、悪いニュースもいちいち電話で知らせる律儀な学校がないとも限らないから、僕は敢えて確率論的な中立を保って週末を過ごした。
 そして月曜の夜、僕はボストンの朝に電話をかけることにした。それまでの時間を家でヤキモキしながら過ごすのは嫌だったので、妻を誘って池ノ上の台湾料理店「光春」で待つことに。上記の通り花見酒で電話を逃した自分を恨めしくも思っていたし、呂律の回らない英語で電話に出たことで学校の気分が変わっても困るので、ビール1杯だけを飲んであとはお茶をすする。こういう時に限って、お茶が有料の中華料理店に巡り合うのはなんでだろう、なんて思いながら、結局はヤキモキしてボストンの午前9時を待つ。
 東部標準時の午前9時、店の外の線路わきで電話をするけれど、まだ留守電。気づまりなテーブルに戻る。30分後も同じ。気づまりの度合いは強まる。合格通知は金曜日に出し切っていて、あるいは/さらに、担当者はもう休暇かも知れない。あれだけ出願書類を書かせて、面接で質問責めにして、でも、結局は電話を取った人だけが合格、なんて仕組みだったらどうしよう。「マイクロメーターで測って、チョークで印をつけて、斧でカットしろ」 なんて格言を生むアメリカのことだから、ありうるんじゃないだろうか。
 さて、あと少し待って10時になったらもう一度電話をしようかな、と思った矢先に電話が鳴った。ちゃんと電話帳に登録しているから入学審査官の名前が出る。「ご機嫌いかが?(あなたの出勤が遅いから具合が悪いのかと思いましたよ!)」、「僕はとても元気ですよ!(あなたと連絡が取れないから最高に気まずいデートをしてますけどね!)」なんて会話もそこそこに話題は核心に入る。「出願書類と面接の結果を入念な検討した結果…」――、太平洋を横切る電話回線が固唾を飲む音を東に送り、「あなたは合格になりました」というニュースを西に返してきた。グッド・ジョブ、電話!
 入学審査官は今後の手続きを一気に話し始めるのだけれど、僕は「ちょ、ちょっと待って。いまの僕には情報が多すぎます。えーと、ひとつ確認させてください。僕は合格したんですよね?」と言うのが精一杯。電話の向こうは笑いながら、「イエス」と言って、「あとの手続きはウェブにも載っていますから」なんてことを言ったかと思う。考えてみたらこれは僕の人生で2度目の学校受験で、1度目の合格は親が確認してきたから、生まれて初めての――そして、たぶん最後の――経験として自分で自分の合格を知る。音声の上に英語だから聞き間違えたんじゃないか、なんて半ば疑いながら。書面じゃないとにわかには信じがたいんだよね。
 もちろん僕は店に跳ねるように戻って妻にこのニュースを報告し、僕らは紹興酒で乾杯をする。僕が誕生日を迎えるまであと数十分。家の近くのコンビニでフレシネの小さなボトルを2本買って、家に戻ってカウントダウンして栓を開ける。実は軽い気持ちではじめたビジネス・スクールの受験だっただけど、思った以上に面倒臭い長期戦だった上に、なんだかすごい変化を人生に呼び込んでしまったんじゃないかなぁ。自分で出願しといて変な言い草だけど、受かってしまったものは仕方ないから思いっきり楽しんでやろう、なんてイマサラな覚悟を決めて、30歳。

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まんまと「神の雫」にハマる http://www.thesyntaxerror.net/2009/01/11/122006 http://www.thesyntaxerror.net/2009/01/11/122006#comments Sun, 11 Jan 2009 03:20:06 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/01/11/122006

From Blog 2009

 年末、近所の信濃屋へ正月休み用のワインを買いに行く。棚にはいつも通りワイナリーの説明だとか「円高還元」なんて書かれたPOPが貼られているのだけれど、そのなかに「『神の雫』にも登場」みたいなことが書かれたワインがあった。僕はジュヴレ・シャンベルタンをようやく2本に絞って、ずいぶん悩んでいたから、最後のひと押しはこのPOPを信じることにする。それにしても、「神の雫」ってどんなマンガだろう? そう思って別の棚に目をやるとそこにはまさに「神の雫」が並んでいる。売り物かしらんと半信半疑で第1巻をなんとなく手に取ってレジに持って行ったら、これはちゃんとした売り物だった。年末のこういう軽率さが祟って、きょうは下北沢の古本屋で続きを15冊も買い占めることになる。ワインは好きだけどよく知らない、という僕のような人間にはちょうどいい娯楽的解説書だから、アカデミー・デュ・ヴァン(Academie du Vin)に通う前に読破しておこう。


 ちなみにそのワインはS.C.ギヤール(Guillard)の2004年もので、ヴィエイユ・ヴィーニュ - オー・コルヴェ(Vieilles Vignes - Aux Corvees)との表記がある。

 抜栓して試してみると随分固い印象だったので、デキャンティングしてしばらく放置したら果実味が豊富で少し粘性を伴うような柔らかさが出てきて妻ともども大好評のうちにボトルはすぐ空に。ワインに関する語彙の極端な乏しさのせいで、僕はいつも書きながらひどく舌足らずな、「How are you?」と聞かれても単に何とかの一つ覚えで「 fine.」としか答えられなかった頃と同じもどかしさを感じる。けれど、それは今後の課題としよう。僕は元気だし、ワインは旨い。今日のところはそれでよしとしよう。これは確か5,000円台で買えたかと思うけれど、かなり費用対効果の高いワインだと思う。
 ただ、あとで調べてみると幾つか疑問が出てきた。まず、ギヤールはジュヴレ・シャンベルタンに畑を持つドメーヌであると幾つかのサイトで紹介されているのだけれど、ラベルを見る限りこれはドメーヌ元詰めではない。かといってギヤールはネゴシアンであるとも聞かれないから、これはどういう訳なんだろう。
 次に、このワインはジュヴレ・シャンベルタンの村名ワインなのだけれど、ラベルに表記されたオー・コルヴェはプレモー(Premeaux)地区の一級畑で、厳密にはジュヴレ・シャンベルタン村ではないようだ。プレモーは隣接するニュイ・サン・ジョルジュ村の村名を名乗ることができるという記述もあるので、となると、この畑は同様にジュヴレ・シャンベルタン村の村名を名乗ることができるのだろうか? これはちょっと腑に落ちない。
 さらに、このワインは単にジュヴレ・シャンベルタン村を名乗るだけだから、これはオー・コルヴェが一級畑であることと、どのような関係にあるのだろうか? もし仮に一級畑のワインが、何らかの事情で村名ワインとして売られているのだとすれば、これはすごくラッキーなことだったんじゃないか、なんて密かに期待してみたりもする。飲んでしまってからの後講釈(というか勘繰り)だけれど、唯一確かなのはこのワインはとても旨かったということだ。
 もう一本は白を買って、こちらは「神の雫」とは関係がないけれど、どこかで言及されていればなぁと楽しみにしているムルソー(Meursault)。

 この村は僕の白ワインに関する黒歴史(笑)の転換点で、特別な思い入れがある。2005年にこの村に連れてこられたとき、僕はカミュ「異邦人」の主人公と同じこの村に名前に心が躍った。けれど、テイスティングにはそれほどの興味がなく、赤ばかりでは芸がないから話の種に、というようないわば義務感からタダ酒を飲んだ。本当に調子のいいことに。なぜなら当時、僕は白ワインなんて女子どもの飲み物じゃないか、とどこか本気で思っていたからだ。
 もちろん、そう思う僕こそが子どもだったのだ。この村で白ワインの濃厚さや豊潤さ、そしてそもそも、白ワインもまた熟成を重ねるという当たり前の事実を目の当たりに、というか舌の当たりにして目が覚めた。そういう産地だから、年末年始をスベらずに過ごすには間違いがないだろう、ということでこれを買う。ただ、実は年末から僕は尋常じゃない忙しさに見舞われていて、未だにこのボトルを開けられずにいる。今だってブルゴーニュの畑を調べたりブログを書いたり、おまけにご丁寧にアフィリエイトまで貼ったりしている場合じゃなかったりもする。
 だからもちろん、なおさら、「神の雫」を15巻なんて買い込んでいる場合でもないのだけれど。マンガのラッピングを破るのなんて実に容易いことだし、ムルソーのコルクを抜くのも訳ない。いま、僕の自制心が試されている。

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「勉強ができる」マイノリティの問題 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/220725 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/220725#comments Sun, 28 Dec 2008 13:07:25 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/220725


 michikaifuさんの記事を読んで、なんのこっちゃと思って引用元のpollyannaさんの記事を読む。どちらの記事にも思い当るところがあり、個人的な話にはなるけれど、書き留めておこう。僕はかつて相対的な意味で「勉強のできる」子だったのだけれど、主として進んだ環境おかげで随分前にそうでもなくなった。それを特に意識したこともなかったけれど、これらの記事を読んでみると、めちゃくちゃ今さらながら、「勉強のできる」子じゃなくなったことの救いみたいなものに気づく。そこから逆算すると、勉強のできるマイノリティはある種の被差別状態に置かれている、なんてことになりはしないか。もしそうだとしたら、その不遇はどうすれば解決できるのだろうか。

小学生のころの私は、国語も算数も理科も社会も、みんな新しい本のページをめくっていくような気持ちで楽しんでいた。
誉められるのはもちろん嬉しかったが、それ以上に、学べば学ぶほど、新しい世界が広がっていくことが楽しく、嬉しかった。
(理系兼業主婦日記「「勉強ができる」という蔑称」)

教科書や本を読んで、自分の世界が広がるワクワク感。難しい数学の課題を解いたときの達成感。フランス語を習って初めて「r」の発音がちゃんとできるようになったときの爽快感。お勉強の中で得られる、そんな自分の感覚は、とっても大切だ。
(Tech Mom from Silicon Valley「勉強しか取り柄がなかった私から。「逃げよ。」」)

 という感覚に僕も強く共感する。例えば、中学受験の模擬試験を受験することは、「文章題で新しい話が読める」という呆れるほど単純な理由で僕の楽しみになっていた。僕は勉強が好きだった。日能研の模擬試験で一度だけ国語で2位を取ったことがある。それは誇らしくもあったけれど、同時に僕は、このニュースを「サッカーの地区大会で優勝したぜ!」的なトーンで小学校のクラスメイトに報告できないことを子どもながらに知っていた。理由は分からないけど、絶対に歓迎されないことだけは間違いない。
 サッカーが好きでもお菓子作りが好きでも構わないけれど、勉強が好きだったりするのはタブーっぽいのだ。学習塾だって「親に無理矢理行かせられてる」というほうが「楽しみで仕方ない」というよりも好感を以て迎えられる雰囲気。足の速い子は運動会のリレーのアンカーを毎回やるけど、勘違いして同じような調子で「この問題分かる人?」という先生の質問に僕は毎回手を挙げるべきじゃない。分かるのに黙っているのは落ち着かない。けれど、2・3人が外したあたりで先生に当てられて正解を言うときの「出来レース」感も気持ちが悪い。とにかく、小学校の授業はこんな気苦労ばかりしていたことを思い出す。
 だから、michikaifuさんが一橋大学でようやく「その萎縮した感覚」がなくなった、というのはよく分かる。否、「よく分かる」というのは正確ではないかも知れない。なぜなら、僕は今にして初めて、自分が小学校で感じた居心地の悪さは勉強好きなせいだったのかも、と気づかされたからだ。さらに、その違和感すらも幸いなことに、小学校最後の3年間くらいしか続かなかった。私立の中学校に入ってからは十人十色の教育方針もあって、僕は少なくとも「勉強」というくくりで悪目立ちすることはなくなった。英語のできる奴もいれば美術に秀でた奴もいて、あるいは、ラグビーの名選手もいればパソコン名人がいて、彼らはみな等価に「できる奴」だった。中学生という早い段階で、こういう普遍にへと妙な委縮から引き戻ることができてラッキーだった。僕はそこで気負いなく勉強をし、テニスをし、登山をし、聖書を読み、座禅をし、あらゆる養分を吸い取って成長できた。
 「勉強ができる」という違和感から抜け出したこのエクソダスは、僕個人というミクロな単位では大正解だった。けれど、社会や組織というマクロな単位としては必ずしも理想ではないだろう。どんな社会にも、その社会の水準を超えた力や、そんな力を目指す志がある。もちろんこれは狭義の勉強に限ったことではない。そして、これらの力や志なくして社会自体の成長は望めない。ならば、こういう「吹きこぼれ(志向)」を活かさずして、社会や組織自身は生き残れない。それぞれの分野ごとの吹きこぼれに居心地の悪い思いをさせている場合じゃない。組織と個人とのある種の健全な緊張関係のなかで、自らより望ましい環境を求めていく個人に対し、どうやって組織自身がその「望ましい環境」へと変容していくのか。
 いまだに「勉強ができる」ことが子どもたちにとってどこか居心地の悪いことだとしたら、それは日本にとってひどく悪いニュースだ。それは意図せざる結果にせよ、事実上のマイノリティ差別だ。ただしそれは、じゃあ勉強が不得意な子どもを冷遇すれば相対的に得意な子が優遇される、なんていう単次元の話じゃない。日本の教育は一定程度の学力水準にほぼ全員を到達させるという絶対値の問題はうまく解決したように見える。けれど、どのような組織にも必ず上位5%と下位5%が存在するというような、分布の問題は未着手のように思えてならない。勉強の不得意な子に不必要なプレッシャーをかけないよう、しかし同時に、勉強が得意な子どもには適切な動機付けができるよう、そういう設計はなされてきたのだろうか。
 けれど、こういう多元的な制度設計はおそらく、日本が全体として不得手な分野なんじゃないか。そんな風に先回り心配しておく。だってこれは、いわば「多様性の肯定と促進」の問題に他ならないからだ。いろんな才能があるのは「仕方ない」として何とか肯定することはできても、「じゃあ算数の出来る3年生は6年生と一緒に勉強しましょう」と促進するところまで覚悟を決められるか。「僕は算数が得意だから算数は6年生の授業に出るけど、運動音痴だから鉄棒は1年生の授業に出るんだ」なんてことがもし屈託なく言えていたら、僕の小学校生活は無用の気苦労が少なく、その代わりに多くの成長の刺激に満ちていただろう。歳の違う子どもと一緒に授業を受けるなんて、とても刺激的で、それでいてとても実社会的じゃないか。
 肯定しようとも否定しようとも、多様性はすぐそこにある。その風に抗って、気づかぬふりをして船を漕ぎ続けるのか。あるいは、その風を帆に受けて世界へと滑り出すのか。これはそういう、「キメ」の問題なんじゃないかなぁ。

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放送大学「光~暗闇のリンゴの色は何色か」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/113412 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/113412#comments Sun, 28 Dec 2008 02:34:12 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/113412


 朝起きてふとベッド脇のテレビをつけたら、ちょうど放送大学の講義が始まるところだった。標題が「物理の考え方7)第13回『光』」というだけだったら、僕はこの講義を聴かなかったかも知れない。けれど、副題に吸い込まれてしまった。暗闇のリンゴの色は何色か。観察者なき世界は、どんな色をしているのか。観察者なき世界など、あるのか。僕たちが見ているものは、何なのか。


 「暗闇のリンゴの色」についての結論自体は、それほど目新しいものではなかった。色は物体がどんな波長の光を吸収し、あるいは、反射するかによって決まるので、光がなければ色もない、というような話だったかと思う。けれど、この当り前のような主張はそれでいて、なかなか示唆に富んでいる。光が当たる前から、色は決まっているのだ。問題は、僕たちがその対象に対し、どのような光を当てるか、ということだ。
 単波長のレーザー光線でものを見る、というファンキーな実験がスタジオでなされた。赤いレーザー光線でいくら照らしても、緑のピーマンは真っ暗のままで、僕たちはその本当の色を知ることができない。ん? 本当の色? もし世界の光が赤いレーザー光線でしかなかったとしたら、ピーマンの「本当の色」は漆黒ということになりはしないか。僕たちが「本当の色」だと思っている「緑」すら、太陽光線やら、太陽光線を前提とした僕らの網膜やら、その網膜を前提とした照明器具やらという装置が見せているに過ぎない。他の光線では、「本当の色」は他の色かも知れないのだ。そこに光あれ(どんな?)。
 こういうボールを投げっぱなしのまま、木村教授はさらに話を進める。テッポウウオ。彼らは水面下の屈折した映像を見ながら、しかしその屈折を計算に入れて、空中の虫に向かって水を放つ。木村教授は、モノがズレてみえるサイケデリックなメガネを相方の大石準教授にかけさせて、大石氏に剣道をさせる。このシュールな環境下で大石氏の竹刀は、見事に相手の面を外す。テッポウウオは心の目で見ているのかも知れませんね、なんてどちらかが言う。
 冗談じゃない、その通りじゃないか。テッポウウオは、目で見た映像を額面通りには妄信せずに、本能的な修正を加えて虫を撃ち落としている。このメタな視覚、「心の目」と呼ぶに相応しい。暗闇のリンゴは本当に無色なのか、ピーマンは本当に漆黒なのか、あるいは、本当に緑なのか。僕たちのメタな視覚は、何を結像するのか。
 以前、磯崎哲也氏が「放送大学にハマっちゃいまして」と書いていて、僕は勝手に我が意を得たりと喜んでいたけれど、やはり、依然として放送大学は非常に熱い。不況になって経済が停滞したら、国民全員で放送大学を受講してればいいんじゃないか、なんて少し本気で思う。そうしたら日本の労働生産性も向上するだろう。放送大学で晴耕雨読のススメ。

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オロビアンコ問題 - 民主化した市場 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/20/102926 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/20/102926#comments Sat, 20 Dec 2008 01:29:26 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/20/102926


 オロビアンコ(Orobianco)の鞄は、イタリア本国向けの製品と日本市場向けのものとでは仕様が違うことを知った。新宿の伊勢丹で鞄を渉猟していた僕は、期せずしてある2つの鞄のファスナーが違うことに気づいてしまう。それは単なる色や形の違いというだけではなく、一方は滑りが悪くて他方は滑らか、という品質の差だった。僕たちはカモられている!という見方もできるかもしれなけれど、僕が感じたのはむしろ、もはや製品を作るのは「買い手」である、ということだ。


 打ち合わせのあと新宿の中村屋で記号としてのインド・カリーをひとり食べて、どうしようもない雑踏の新宿をハレの街へと変える。20年近くも前に父親に連れられてこの店に来たことを振り返って、その時の僕には付け合わせのピクルスが物珍しかったような、あるいは、それは瞬時に捏造された記憶であるような、そんなことを思う。この懐古調で、僕たちの定番であったような、実はそうでもなかったような、曖昧な紀伊国屋書店にも寄ってみたくなった。けれど、先を急ぐ。
 僕は新しい――といっても4月に買ったまま寝かせていた――靴に合わせるべく、茶系の鞄を物色していた。エロ過ぎず地味すぎずということでステファノマーノ(Stefanomano)、ダニエル&ボブ(Daniel & Bob)あたりを丹念に見るのだけれど、あるオロビアンコに落胆する。オレンジ色の革で縁どりされたナイロンの鞄は伊勢丹の別注品ということで、遊び心があって面白かったのだけれど、ファスナーがいけない。アルミニウムのように軽くて1円玉みたいな音のするつまみを引っ張ると、ぎこちない展開はまるで高校生のデートだった。ところが、別の棚にひっそりと置かれていた別のオロビアンコは全く違っていた。革製のつまみを動かすと、馬力のある自動車のように心地よい重厚さを伴って滑らかに走る。すぐに、この鞄が何故ほかの鞄と違うのかを店員さんに尋ねた。
 店員さんいわく、この茶色一色の鞄はセール用に別途買い付けてきた一点もので、イタリア本国向けの製品だという。ちなみに、これと並んで置かれていたもうひとつの鞄は恐らくドイツ向けということで、型押しの黒い革と定番色よりも若干くすんだ水色のナイロンが大人の色気を出していた。こちらはジャコモ・ヴァレンティーニではなくて、妻のバーバラがデザインしたものらしい。今回のテーマが茶系でなければ、むしろこちらを買っていたかな。みなさん、伊勢丹メンズの地下一階、早い者勝ちですよ。
 さて、店員さんの説明は続く。オロビアンコの鞄、「日本向けのものは別の(というのは、「チャチな」の上品な言い方だ)ファスナーを使っている場合がある」そうだ。さらに持ち手の革を見せながら店員さんが言うには、「日本向けではこういう風に小口磨きまでしていない」とか。これを聞く心境は複雑で、掘り出し物を見つけた喜びが込み上げてくると同時に、日本男児は舐められているんじゃないか?という屈辱の念も湧いてくる。ともあれ、これがセールで3万円台というのは安い。思わず店員さんに「普通なら6万円くらいじゃないですか?」と聞いたら、「そうですね、6万3千円くらいじゃないでしょうか」という返答。「本当はもっと高いんでしょう?」という呑気な客の期待を裏切る店員なんて、そうはいない。そして、こんな愚にもつかない問答で心を決めてしまうから軟弱な日本男児は舐められるのだと悟る。

 ちなみにデザインも日本向けは本国向けと違っていて、特にコントラストの強いものが多いらしい。確かに、オロビアンコというとそういう派手な印象がある。そういえば、以前ミラノで買ったフェリージ(Felisi)の真っ黒の鞄も日本のお店ではまだ見たことがない(街で持っている人は何度か見たけれど)から。イタリアのナイロン鞄に日本市場は派手さを求めているのかも知れない。店員さんいわく、「これが日本向けならステッチの色を変えて目立たせるんじゃないでしょうか」とのこと。

 こんな風に海外製品のマーケティングについて学んだところで、ある友人の「ビオテルム問題」というブログを読む。いわく、愛用しているビオテルムが日本から撤退するので「ショックで声も出ない」らしい。メトロセクシャルからは程遠い男子としては、海外から通販か何かで買えばいいじゃないか、と能天気なことを思うのだけれどそれは大間違いらしい。なんでも、化粧品も「日本処方」やら「アジア処方」やら「ワールドワイド共通処方」やらという違いがあるらしい。だから、ものによって香港からの並行輸入でOKということもあれば、日本撤退で永久に入手不可ということもあるんだとか。スキンケア猛者の彼女は買い溜めに加えて果敢にもロレアルにまで問い合わせをしているけれど、同じブランドの同じラインナップだからといって、中身まで同じとは限らない、ということだ。
 肌質の違いにせよ色彩感覚の違いにせよ、企業は消費者の需要に応じて製品を作る。消費者は単に提供された製品群から選択をしているだけではなくて、その選択を通じてさらに将来の製品仕様に影響を与えている。企業のマーケティングが活発して市場が双方向化すればするほど、実質的な意味で商品を作るは「買い手」になる。YKKを生んだ日本市場に、あろうことか敢えて低質なファスナーをつけた鞄が輸出されたとしたら、それは他ならぬ僕たち自身が招いた結果なのだ。その一つの証左として、思い出して欲しい。冒頭に挙げたオレンジ色の鞄は伊勢丹の別注品だったことを。ファスナーの違いも小口磨きの違いも認識したうえで、なおも百貨店がその仕様を発注しているだから、その鮮やかな色彩は日本が求めた色彩であって、その低質なファスナーもまた日本が受忍した品質ということだ。オロビアンコの鞄のイタリア、ランコムのファンデーションのフランス、グローバルなマーケティングが格段に薄めている。
 僕たちはいま、民主化した市場を生きている。そこには国境もなく、作り手もない。

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英国国立美術館 - 年次報告書 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/13/135345 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/13/135345#comments Sat, 13 Dec 2008 04:53:45 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/13/135345


 「キフだけじゃイヤッ!?」を書いて気になったので、英国国立博物館(the National Gallery)の年次報告書に目を通して驚いた。事業の目的が列挙されて、その目標に対する当年の実績が説明される。組織運営の方針が語られ、経営陣の報酬額が開示される。そして、財務諸表。思わずロンドン証券取引所に上場してたっけ?と思ってしまう内容。いや、待てよ。公金が投下される事業体は、むしろ、上場企業よりも充実した情報開示が必要なんじゃないだろうか。ともかく、興味深かった点を記録しておこう。


 まず、事業の目標が掲げられて4つの役割が明示される。収蔵作品の保護、収蔵作品の充実、収蔵品作品の展示、そして、国内外での先導的役割。展示と扇動的役割に関しては下位目標が複数あって、例えば展示なら、「入館無料を維持すること」や「出来るだけ多くの収蔵作品を展示すること」に加えて、「展示手法において最高水準を保つこと」や、「市民に対して高水準の来場者サービスを提供すること」なんてのもある。

2 Objectives
Care for the collection
■ The Gallery looks after the paintings in its care so that none is lost or damaged.

Enhance the collection
■ The Gallery aims to acquire great pictures for the collection to enhance it for future generations.

Access to the collection
The Gallery aims to:
■ maintain free admission to the collection;
■ provide access to as much as possible of the collection;
■ maintain the highest standards in display;
■ find imaginative and illuminatingways to nurture interest in the pictures among awide and diverse public;
■ encourage high-quality research and publication through a variety of media; and
■ offer high standards of visitor services to the public.

A national and international leader
The Gallery aims to:
■ be a national and international leader in all its activities; and
■ work with regional museums and galleries in the UK.

 比較のために東京の国立新美術館のウェブサイトを見てみると、惜しいというか、悪くはないのだけれど、英国の「ライバル」の方が一段深掘りしているという印象。ウェブと年次報告書を比較するのはフェアではないかもしれないけれど、ロンドンの方は掘り下げた個々の目標に対して当年の実績を振り返っているので説得力がある。収益が目的でないからと言って、観念的な目標を掲げて「言いっぱなし」にするべきではなく、到達の検証をしている英国国立美術館の姿勢は印象的だ。

国立新美術館の事業内容
展覧会事業 「さまざまな美術表現を紹介し、新たな視点を提起する美術館」
全国的な活動を行っている美術団体等に発表の場を提供します
国内外の新しい美術の動向に焦点をあてた自主企画展を開催します
新聞社や他の美術館との共催による展覧会を開催します

情報収集・提供事業 「人と情報をつなぎ、文化遺産としての資料を収集・公開する美術館」
国内の展覧会に関する情報を収集し提供します
戦後の国内の展覧会カタログを網羅的に収集し公開します
日本の近代以降の美術に関するさまざまな資料を収集し公開します

教育普及事業 「参加し交流し創造する美術館」
展覧会にあわせた講演会やシンポジウム、ギャラリートークを実施します
作家トークやワークショップにより、アートを楽しみ、アートについて語りあうための場を提供します
インターンシップやボランティア・プログラムをとおして、美術館における実践的な活動の場を提供します
美術館の教育普及事業に関する資料の収集に努めます

 10ページほどを実績の検証に当てて、報告書は財務報告に進む。ここで面白いのは、文化省との財務拠出契約に対応した入場者数の定量目標の検証をしていること。そこで例えば2008年3月期の入場者数見込は4.9百万人だったけれど実績は3.9百万人だったことや、一方でウェブサイトのユニーク・ユーザー数は4.5百万人の見込みに対して9.2百万人だったことが明らかになる。ちなみに、同年度の展示による収入は2,197千ポンドで。15歳以下の入場者数は552千人というから、16歳以上は約4.5百万人。単純に割って1人あたり49ペンスを支払っている、という理解でいいのかなぁ。
 気持ちばかりの2,197千ポンドの展示会収入を考えると、1,765千ポンドの投資収入は小さくない。この投資収入は銀行利息と国内債券、国内株式、そして外国株式に分かれてそれぞれ金額が書いてある。この投資ポートフォリオはもちろん美術館が管理しているわけではなくて、投資管理者としてブラックロック・インヴェストメント・マネジメント(BlackRock Investment Management)の名前がちゃんと記載されている。とはいえ、僕が円安の当時に払ったなけなしの数ポンドも、ブラックロックが何倍ものレバレッジをかけて稼ぐ収益も、それでも29百万ドルにも上る運営費には及ばないから、26百万ポンドに迫る文化省からの支援が経営を支えることになる。
 これだけの公金が投じられているから経営陣の報酬開示には容赦がなくて、館長職の給与と賞与は名前と在任期間とともに1ポンド単位で報告される。ちなみに新任館長の給与は年換算で140千ポンド。続いて、コレクション部長や広報部長、上級学芸員の名前と報酬総額が出ていて、これは年換算で55千~75千ポンドの範囲。そしてこれら経営陣の年金原資額が個人別に開示される。取締役報酬の個別開示という点では、上場企業であるソニーよりも積極的だ。個別開示はソニー株主が2002年から7年間連続で株主総会で提案しているものの、2008年も否決。

 いち私企業であるソニーの統治は株主に任せるとしても、英国国立美術館の年次報告書を読み、同館がいわばその出資者である国民に対して果たしている情報開示の水準の高さには驚かされた。これは美術館自身の姿勢というよりは、同館への財政支援に対して契約による条件を付した英国文化省の意識の高さの賜物だろうし、それは詰まるところ英国民の納税者意識の高さに起因する。彼らの高い納税者意識が、美術館をして高い目標を掲げさせ、それに邁進させているとしたら、僕たちにもまた、日本の文化基盤に対して納税者として果たすべき役割があるということだ。何かやりたいっすねー。

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キフだけじゃイヤッ!? http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/13/113808 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/13/113808#comments Sat, 13 Dec 2008 02:38:08 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/13/113808


 英国王立歌劇場から電子メールでクリスマス・カードが届く。一斉送信のメールとは言えそのマメさに感心する一方で、ブランディングとか販売促進とかという下心での地道さに感服。同じ歌劇場でも東京文化会館からこういう案内をもらった記憶はないので、日本でもこういう取り組みをしてもいいんじゃないかな。そこであらためて、英米の文化施設の経営姿勢について思うことを書いてみよう。


 王立歌劇場はオンラインでチケットを買うとき、チケット代金とは別に寄付を募っている。クレジット・カードで決済するときに、ついでにちょっと上乗せしてもらおう、というお誘い。お国柄の違いかもしれないけれど、ニュー・ヨーク・フィルハーモニックはもっと明確に、「チケットの売り上げだけでは経費の半分も賄えません。だから同額を寄付してくれませんか?」ということを謳っていた気がする。ともあれ、オペラやオーケストラは経営が厳しいだろうし、さらに、寄付を行えば行ったで一体感が生まれるから、こういう業策は大いにやった方がいいと思う。
 ちょっと話がそれるけれど、米国のプロ・ゴルフ・トーナメントは金融危機の煽りを受けてスポンサー探しに苦慮しているという話を聞いた。ニュー・ヨーク・フィルはクレディ・スイスが後援しているけれど、経済情勢の悪化とは無縁ではないだろう。聴衆にしても後援者にしても、日々の生活が苦しい時にオーケストラを優先させることは難しい。そうなるといよいよ、善意による運営と呼ぼうとも、媚を売って毟ると呼ぼうとも、いずれにせよ付加的な収入源の重要性は高まってくるだろう。

 ひとつの事例として、英国国立美術館。ボッティチェリからセザンヌまでの良質な絵画を収蔵しながら、実は入館料は無料。驚くほど充実した音声案内機の貸出も無料。クロークも無料。しかし、無料だからと言って「金をとらない」というわけではない。入口のホールでは賽銭箱が堂々と入場者を出迎えるし、案内機の貸出カウンターで値段を聞くと「無料ですが心付けは歓迎します」とはっきり言う。結局のところ僕は、感覚的に入館に5ポンド、案内機に2ポンド、クロークに2ポンド支払う。他の人が幾ら払ったかは知らないけれど、僕は僕なりに満足している。さらに言えることは、仮に「入館料は3ポンドで、案内機は1ポンドです」と初めに言われていたら、僕は絶対にそれ以上を払わなかっただろう、ということだ。
 同じイギリスのレイディオヘッド(Radiohead)は2007年10月、「楽曲の値段はあなた次第」という音楽配信を試みた。40%のユーザーが金を支払った(あるいは60%が支払わなかった)という米コムソース(comScore)の調査結果には疑義も呈されているし、ミュージシャンが定価をつけて売るよりも多くの利益を得られたとも思えない。けれども、「上振れ」の余地を残した価格政策は、特に著作物では有効なんじゃないかと思う。著作物には原価という発想が馴染まない以上、売り手の側が値段を決めること自体が、そもそも無理があるようにすら思える。売り手は、英国王立歌劇場やニュー・ヨーク・フィルのように最低価格だけを決めればいいんじゃないだろうか。


 もっとも、「最低価格を決めたら結局のところ最低価格に落ち着いてしまう」という懸念はあって、さらにそれは傾向として正しい。かく言う僕も、王立歌劇場でもニュー・ヨーク・フィルでもチケットを買う時に寄付はしていない。観劇(感激)する「前」に財布の紐を緩めるのは難しい。けれども、感動の「最中」や「後」はチャンスだ。ニュー・ヨークのフィッシャー・ホールでは、ただ泡立っているというだけのスパークリング・ワインをプラスティックのグラスに注いで、確か10ドルで売っていた。さらに、英国国立劇場のミュージアム・ショップではゴッホの絵が印刷されただけのメモ帳についつい3ポンドも出してしまう。他のシチュエーションだったら確実に落胆するようなワインも、見向きもしないようなメモ帳も、それぞれの文脈の中で価値を生み、出張の合間の心地よい息抜きとして僕の記憶と机の引き出しに残っている。
 これだけ長々と書いて、結局僕が話しているのは「縁日」のことなのかも知れない。神社に参詣して都合のいいお願いでもあれば賽銭も5円といわず10倍か20倍くらいは奮発して、その清々しい気持ちのまま、強気な価格の甘酒でも飲もう。縁日が素敵なのは、神様という究極のコンテンツを掲げながら、参道という物理的かつ心理的な導線で着実に収益を上げていることだ。それは決して気分を害するようなことではない。まして、その収益の一部で屋根が噴きかえられたり、鳥居が修繕されたりするのであれば、参詣者として本望だ。
 その点で、英国国立美術館の情報開示は一歩も二歩も進んでいる。現在や過去の財務状況のみならず、英国文化省大臣(the Minister for Culture)と美術館との間で締結した、国家からの資金拠出に関する3年契約全文も開示している。そんな契約の存在自体が既に先進的だけれど、美術館の義務や財務目標、リスク開示といった内容が真摯だし、さらにこれが開示されていることが素晴らしい。入場料は無料のまま、寄付をたくさん集め、ミュージアム・ショップやらカフェやらで収益を上げ、これらの経営努力をもってして良き美術館であり続けて欲しい。

 国家による資金拠出自体が文化支援策として評価される節もあるけれど、効率的な経営を通じて美術や音楽が商業的に自立することの方が、何倍も素晴らしいよなぁ。

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秋葉原デイズ - コンテンツ学会とJAM2008 http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/18/125657 http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/18/125657#comments Sat, 18 Oct 2008 03:56:57 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/18/125657

 コンテンツ学会の設立総会、シンポジウム、そしてパーティ。さらに、ジャパン・アニメコラボ・マーケット(JAM)2008のシンポジウムで、なんとなくアキバじみている昨今。発起人の末席を汚す身ながら、コンテンツ学会の設立にはコンテンツ産業における新段階の到来を感じさせられるものがあった。特に経済産業省の村上課長が言及したコンテンツの他産業への波及効果――これを僕は勝手に産業性名付けるのだけど――には我が意を得たりという気分になったし、JAMのシンポジウムでアーサー・D・リトルの川口氏が産業デザインとポップ・カルチャーとの相関を検証するに至って、いよいよ基幹製造業とコンテンツ産業との関係が盛り上がってくる気配を感じた。個々に書き留めたいことは沢山あるけれど、まずは備忘として。


 まず、10月11日のコンテンツ学会シンポジウムの登壇者は次の通り。

・登壇者(50音順):
大路正浩氏(内閣官房知的財産戦略推進事務局内閣参事官)
小笠原陽一氏(総務省情報通信政策局コンテンツ振興課課長)
金正勲氏(慶應義塾大学DMC機構准教授)
杉山知之氏(デジタルハリウッド学校長)
中村伊知哉氏(慶應義塾大学メディアデザイン研究科教授)
玉井克哉氏(東京大学先端科学技術研究センター教授)
原口一博氏(民主党衆議院議員、鈴木寛氏と共同のビデオメッセージ)
堀部政男氏(一橋大学名誉教授)
村上敬亮氏(経済産業省商務情報政策局メディア・コンテンツ課課長) 
山下和茂氏(文化庁長官官房著作権課課長)

 次に、10月16日のJAM2008のシンポジウムのテーマと登壇者は次の通り。どれも刺激的だったけれど、全体を通じて感じたのはコンテンツ産業が自覚的に、他産業に対して自らをセルフ・プロデュースしていく土壌が整ったんだなぁという印象。日本の生業を製造業から知財産業に軸足を移すというよりはむしろ、製造業の成功の基盤となった文化的背景を、現在の文脈で再解釈して、再度モノやサーヴィスに落とし込んで行こう、ってのでどうでしょう。

これからのキャラクター商品の可能性を考える
相原博之氏(株式会社キャラ研 代表取締役)
清水義裕氏(手塚プロダクション 著作権事業局局長)
種村達也氏(株式会社ソニー・クリエイティブプロダクツ執行役員)
[モデレーター] 陸川和男氏(株式会社キャラクター・データバンク代表取締役)

慶応大学大学院メディアデザイン研究科 協力
ジャパンクールから、世界のデザイン、ものづくりへ
川口盛之助氏(アーサー・D ・リトルジャパン シニアマネージャー)
中村泰子氏(ブームプランニング代表取締役)
エチエンヌ・バラール氏(ジャーナリスト、『オタク・ジャポニカ』著者)
[モデレーター] 中村伊知哉氏(慶應義塾大学メディアデザイン研究科 教授)

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バベルの塔の破片の破片 - コクニー、クッキー、ビスケット。 http://www.thesyntaxerror.net/2008/08/16/215556 http://www.thesyntaxerror.net/2008/08/16/215556#comments Sun, 17 Aug 2008 02:55:56 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/08/16/215556


 初めてPodcastでABCのWorld Newsを観る。なんで今まで試さなかったんだろう、というくらい便利。しかもスクリプトまでオンラインで買えるみたいで、もはや英語の勉強のためだけにスカパーやCATVでCNNとかに入る時代じゃないんだね。それはともかく、新鮮だったのは街頭インタヴューのロンドン英語(cockney)に字幕が入ったこと。この手の字幕(いわば「『からくりビデオレター』字幕」)、東南アジアやアフリカの人のインタヴューでは見覚えがあるけれど、でも、インド人では見たことがなかったかな?というのが寡聞ながら僕の印象だったからだ。


 もちろん、この字幕はありがたい。8月7日のWorld Newsのインタヴュー、2人目のロンドンっ子はそれほどでもなかったにせよ、1人目はかなり訛りが強かった(1人目にだけ字幕をつけるのは気が引けたのだろうか?)。いくら英語の原産国の首都の住人だろうが、その英語がアメリカ人にすら分かりにくければ、僕らにはなおさら難しい。仕事でも、ロンドンとの電話――特に電話会議――には苦手意識があって、さして時差もないくせについついメールに逃げてしまう。
 ともかく、このPodcastで思い出したのが「クッキー」と「ビスケット」。僕は、アメリカで「Cookie」と呼ぶレイギリスでは「Biscuit」、とごくシンプルに覚えていた。フランス語のビスキュイ(Biscuit)を思い出すと、英米より英仏のほうが地理的に近いし、という感じで連想できる。アメリカのビスケットはケンタッキーのを思い出すと、しっくりくる。ところが、5月にロンドンのホテルでびっくりして写真を撮ったのが、上に貼った画像。部屋のテーブルに同じメーカーと思しき製品で、「イチゴ・ビスケット(Fruit Strawberry Biscuits)」と「チョコ・チップ・クッキー(Chocolate Chip Cookies)」が並んでいるから僕は混乱した。どっちも同じように見える。
 早速コーヒーを淹れて食べてみたら、――例えばアメリカにおける「クッキー」と「ビスケット」のように――明らかに違う食べ物というワケじゃなく、むしろ同種のお菓子にしか感じられなくて僕はさらに混乱した。どっちがビスケットでどっちがクッキーか分からないし、あまりに考え込んでいると、どっちがイチゴでどっちがチョコかも自信がなくなってくる…ワケはないか。ともかく、イギリス人は「ビスケット」と「クッキー」を使い分けているようなのだ。英語と米語の単純な1対1対応じゃない、という新しい発見。
 これを書く前にググって見つけた全国ビスケット協会のサイトには、「ビスケットとクッキーってどう違うの?」というビンゴなFAQがある。ただ、その回答は「イギリスにはクッキーという言葉自体がない」言っているけれど、あるんですよ、しかも使い分けてるらしく。さらに、このサイトによると「ビスケット」と「クッキー」に関する日本独自っぽい区分もあったりして。あのブツをめぐる状況は、字幕やそこらじゃ収集がつかないくらいに、混沌の度合いを増していく。

日本では、ビスケットとクッキー両方の名前が使われていますが、本来、同種のものをさします。ただ、糖分や脂肪分の合計が40%以上含まれていて、手作り風の外観をもつものを、クッキーと呼んでもよいという決まりがあり、両者を区別して使う傾向があります。一方、外国では、ビスケット(英)、クッキー(米)、ビスキュイ(フランス)、ビスキュイート(独)などと呼ばれています。
アメリカでは、ビスケットというとやわらかい菓子パンのことを呼び、イギリスのビスケットに当たるものはクッキーと呼ばれています。また、イギリスにはクッキーという言葉自体がないなど、ビスケットとクッキーの使い分けは、あまりはっきりしていないようです。

 ま、考えすぎても仕方ないのでコーヒーでも淹れて一息入れよう。そして、ハロッズで買ったチョコ・チップのレややこしい上に食べ切ってしまったので、サントベールのストロベリー・タルトを齧ろう。僕の人生には、結局のところ、この甘いシニフィエがあればいいってことだ。

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英文法の深淵を覗く - 「実戦ロイヤル英文法」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/09/143730 http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/09/143730#comments Wed, 09 Jul 2008 19:37:30 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/09/143730

 派手なカジノ映画を観た2時間を除くと、僕は飛行時間の大半を極めて地味な英文法の本を読んで過ごした。僕はこのところ英語の勉強をしていて、話の内容にも負けず劣らずいい加減な僕の英語をなんとかしたいと思っている。そこで書店で見つけたのが「実践ロイヤル英文法」。here is/are …たいな「知ってるつもり」の構文でも、そのあとに最上級を除いて定冠詞he来ちゃダメだとか、「忘れていた」というよりもそもそも「知らなかった」ことが出てくる。これは発見だ。


 ほかにも、使役動詞のakeは「無理にでも強制的にさせる」、etは「相手がしたがっていることをさせてやる」、aveは「当然してもらえることをしてもらうようにもっていく」、そしてetは「説得などをしてなんとかさせる」という違いがあるとか。なんとなく感じていても、こういうのはちゃんと日本語で説明を受けないと一生分からなかったろうと思う。未来形のille going to違いもしかり。
 さらに、文語あるいは口語としての適不適についても評価がされているのが役に立つ。僕は今回、特に書き言葉として最も正確な英語が知りたいからだ。例えば分離不定詞は「最近では文脈次第では容認されてきている」と書いてあるから、つまり、依然として避けるべきだってことが分かる。その点では、関係代名詞と前置詞の関係についての説明はちょっと不満だった。

次の文では、会話では(a)と(b)より(c)のほうが自然で、ふつうである。
Who founded the American Red Cross?
→ By whom was the American Red Cross founded? (a)
→ Whom was the American Red Cross founded by? (b)
→ Who was the American Red Cross founded by? (c)

 (a)から(c)に至る順序でそれは暗示されているのかも知れないけれど、書き言葉としては(a)が望ましいという言及があったら尚良かったのに、と思う。これは僕が最近注意されたことで、前置詞で文が終わることを望ましいとしない文法学者もいる、と聞いたからなのだけど。もちろんこれは、それを聞くまではまったくもって「どっちでもいいじゃん」と思っていたから、付け焼刃も甚だしい感想なのだ。
 そして笑えるのが150ページ近くも読んで、まだ僕は「文」・「動詞」・「時制」・「助動詞」・「態」そして「不定詞」しか学んでいないことだ。そのどれもが、想像以上に深い。先を見ると「代名詞」の章だけで40ページもあって、なんだか呆れながら畏まってしまう。ロンドン出張を機に英文法の深淵を覗く、というのはいい企画じゃないかと自賛。 To learn, or not to learn: that is the question. ―― 学ぶべきか学ばざるべきか、それが問題なんだ。

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慶大DMC機構ほか「著作権には何が欠けているのか」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/20/233432 http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/20/233432#comments Sun, 20 Apr 2008 14:34:32 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/20/233432

 慶大DMC機構、think C、そしてコンテンツ政策研究会(実は僕も末席を汚している)共催のフォーラム「著作権には何が欠けているのか」に参加。特に刺激的だったのは集家熊氏によるマンガ制作の現場からの指摘と、北大の田村教授による「知的財産権の正当化根拠」についての言及で、実務と哲学の両面から著作権法制をダイナミックに考える上質の時間だった。


 登壇者は竹熊健太郎(文筆家、編集者)、田村善之(北海道大学大学院法学研究科教授)、野口祐子(弁護士、クリエイティブ・コモンズ・ジャパン専務理事)、山形浩生(評論家)の各氏。そして骨董通り法律事務所の福井健策氏がモデレーターとして登場。
 竹熊氏の指摘は非常に具体的だ。漫画家の末次由紀氏が、作中に別の漫画家である井上雄彦氏の作品の一部をトレースしていたのではないかという疑惑と、そしてさらに、その井上雄彦氏もまた、他人の写真をトレースしていたのではないかという疑惑を紹介。席上で次のサイトが紹介された。

 これらの疑惑を紹介したうえで、竹熊氏は、漫画制作の現場で写真のトレースは一般的な手法であって、漫画家の佐々木倫子氏のように独自に参考用写真を撮影するケースもあるものの、現実的にはそのような撮影余力をもつ漫画家は少ないと指摘。本件については氏のブログに詳しい。

さらに竹熊氏は、「出版社や漫画家は基本的に裁判を起こすことを避ける」と指摘。先に挙げた盗作騒動についても「出版社が気をまわして女性漫画家の作品を絶版としたが、盗作された本人である男性漫画家は裁判を起こすどころかクレームもつけていない。良し悪しはともかく、構図を参考にすることやトレースの活用が漫画界の発展を支えてきたことも事実。著作権などの法律論とは別の常識で動いている部分が現実にある」とした。

著作権のグレーゾーンは「黒」になるか「白」になるか-有識者が議論

 漫画制作におけるトレースの問題はともかくとして、著作権制度が新たな創作を委縮させる結果になってはその趣旨に反する。法制あるいは/および竹熊氏の提唱するような共用写真ライブラリーの創設などで、現場が創作に専念できるリーガルな安全性は一日も早く担保されるべきだろう。著作権のグレーゾーンは、野口弁護士の指摘通り、長期的には創作を抑制することになるだろう。
 野口弁護士が「高尚な議論」と紹介した田村教授の政策学上の議論は、「なぜ知的財産権が正当化されるのか」という根源的な話であって、原点に立ち返って議論を俯瞰する視座を提供してくれた。ディジタル諸メディアの登場に対する対症療法というか、場当たり的な議論に陥りがちななかで、僕自身も著作権の哲学に思い至らなかったことを反省する。なぜ、著作権は認められるのか。
 「知的財産法政策学研究20号」で発表された田村氏の論文「知的財産法政策学の試み」は北大のサイトで読めるので、あとで目を通したいと思う。席上で引き合いに出されたジョン・ロックの労働所有論についての、一般の財産権が自己犠牲への代償として与えられている、というような指摘が特に興味深かった。
 田村氏の論は特にその部分に対する反論としては展開していかないのだけれど、僕がここで、著作物が「自己犠牲というよりはむしろ自己実現の結果として」出現する経緯に非常に強い関心を覚えた。もちろん、小麦や自動車が人間性の犠牲のみによって生まれる、とは言わない。そこにも自己実現は十分にありえる。けれど、それらは他者の観察としては、あたかも農夫・工夫の犠牲のうえに産出されたと推定しやすい。
 一方、絵画や小説についてそのような推定は成立しづらい。これももちろん、事実としてそこに自己犠牲がなかった、と言っているのではない。ただ、あくまでも他者の観察としては、そこに自己犠牲を見出すのが――少なくとも小麦や自動車ほどには――容易ではないだろう、ということだ。その上で、情報産業の発展と成熟が、農夫・工夫のアナロジーとしての情報産業労働者像を生んでいくとするとすれば、そこにはそれでSF的な面白みがある。
 ただ、推定された自己犠牲のアナロジーよりも、事実としての自己実現の果実として著作物を、そして、さらには小麦や自動車を理解していく方が僕の感覚にはしっくりくるし、少なくとも現代的な労働観には近いのではないかと思う。議論としては飛躍があるのは重々承知だけれど、著作権制度への考察が、自己実現と経済機構の関係を再定義するヒントを与えてくれるのではないか、なんて予感にわくわくする。

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