The SYNTAX ERROR Blog » 観る http://www.thesyntaxerror.net MIT Sloan / London Business School MBA留学記 Mon, 22 Nov 2010 02:24:03 +0000 http://wordpress.org/?v=2.8.6 ja hourly 1 草上のシェイクスピア http://www.thesyntaxerror.net/2009/08/17/002007 http://www.thesyntaxerror.net/2009/08/17/002007#comments Mon, 17 Aug 2009 05:20:07 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/?p=1019

土曜日、スローン校LFMプログラムの1年生のBが電話をかけてきて、「今夜ボストン・コモンでシェイクスピアの演劇があるから来ないか?」という。ちなみにLFMプログラムというのはスローン校とMIT工学部の共同課程で、この2年制の課程を修了するとMBAと工学修士がもらえる二重学位課程だ。Bとはお互いが受験生だった頃コネチカットのイェール大学を訪問した時に出会い、その後でイリノイのノースウェスタン大学で偶然再会して仲良くなり、連絡を取り合うようになった。そして、二人ともMITに進むことになった、という縁で繋がっている。彼が日系アメリカ人ということも、僕らを近づけた要因かもしれない。ともあれ、僕はBや彼のクラスメイト達と公園で観劇することになった。

学校の近くの同級生の部屋でジャパン・クラブとしての出し物の打ち合わせをしたあと、ボストン・コモンへ急ぐ。このボストン・コモンは僕の住むチャールズ街に接していて、家からも歩いて5分ほど。最寄りの公園のひとつだ。最寄りの公園といっても、いわばマンハッタンにおけるセントラル・パークのような街の中心的な公園で、しかも、開園は1634年。なんとアメリカ独立前からある公園ということで何とも恐れ多い。

ここでシェイクスピアっていうのもかなり英国寄りの趣味だけれど、そこに旧宗主国に対するわだかまりというのは感じられない。英米関係というのも、考えてみたら稀有な旧宗主国-旧植民地関係かもしれない。いや、待てよ。シンガポールやマレーシアも旧英国植民地同士のコモンウェルス・ゲームに参加しているし、イギリスというのはそれなりに好かれている旧宗主国のようだ。なんでだろう。

ともあれ、夜のボストン・コモンでシェイクスピアを観る。シェイクスピアの演劇というから英語の凝った言い回しでまったく理解できないかと思いきや、設定もセリフも現代版だった。ただ、僕は遅れて到着して前半部分を見逃し、セリフもうまく聞き取れない上に前の人の頭で舞台が3分の1程隠れていたりして、話はよく分からなかった。あとで調べたらこの「間違いの喜劇((The Comedy of Errors)」という劇は、2組の双子の人違い、というただでもヤヤコシイ話だったらしく、外国人泣かせだ。観ていた僕が本当にどっちがどっちか最後まで分からなかったので、感動らしいフィナーレもむしろ、「あ、そうだったんだ」という納得で終わるという寂しさ。

もし次の機会があれば、遅刻をせず、前の方に陣取り、そして何よりも酔って観劇しないこと。そんな鉄則を学んで帰る。僕のはいわば、「間違いの悲喜劇」といったところだ。ちなみに、僕とオーヴァーブックされたCもスローン校LFMプログラムの学生だったから、僕が芝生の上に陣取る10人弱の学生と挨拶をすると、「ああ、あなたが! 話はCから聞いているわ」という具合だった。規模および経緯ともに微妙な有名人。そんな有難いような有難くないような縁で僕は、翌週火曜に開かれるLFMプログラムのBBQパーティにも参加することになる。これはまさに、「間違いの喜劇」といった感じだ。

ともあれ、笑えば喜劇、嘆けば悲劇。舞台の外で、その境界は必ずしも明確ではない。心頭滅却すれば火もまた涼し?

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学生向け美術品貸出プログラム http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/30/135838 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/30/135838#comments Sat, 30 May 2009 04:58:38 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/30/135838

 MITスローン校の新入生向けメーリング・リストで、MITリスト・ビジュアル・アーツ・センター(List Visual Arts Center)の学生向け美術品貸出プログラム(Student Loan Art Program)のことを知る。ウェブサイトによれば、学生は400点に及ぶ絵画や写真を抽選によって1年間無償で借り、自室などに飾ることができるらしい。抽選といっても、5分の2の確率で希望する3作品のうちの1つが借りられるというから、決して望み薄ではない。このプログラムのウェブサイト、上のように奈良美智や村上隆の作品が写っているけれど、まさかそれらは借りられないよねぇ? ともあれ、これは素晴らしい試みだと思う。


 果たしてどんな作品が貸し出されるかという肝心なリスト、気持ははやるけれども、MIT学内のネット接続アカウントを登録しなければ見られない。さっきあらためて登録に挑戦したのだけれど、Javaがうまく働いてくれないので断念。貸し出し対象作品の展示会は9月2日からというので、まぁそれまでに確認すればいいとしよう。ただ、別のサイトによるとコレクションにはホアン・ミロの作品も含まれているようだから、期待は大きい。

 それにしても、貴重な美術品を貸し出して無傷で帰ってくるのだろうか? そのサイトでキュレーターのビル・アーニング(Bill Arning)氏が語るところによると、「作品が失われたことは幾年にもわたってほとんどない」とのこと。学生との成熟した信頼関係が窺われ、こう聞くとなおさら自分が預かった作品は大事にしなければ、と思う。一方で、ある学生が仏像をトカゲの水槽の近くに置いたせいで、その彫刻にハエがたかってしまい、結局その作品を燻さなければならなかったこともあるらしい。うーん。このプログラムで作品を貸し出す時には、美術品をどのように運び、どのように壁にかければいいか、について詳細な説明がついてくるそうだ。よく読んで気をつけよう、とセッカチなことに今から思う。

 アーニング氏によると、このプログラムの目的のひとつには「美術品を学生の生活の中にじかに置くこと」があるそうだ。「美術品のある生活をする学生は、ポスターのある生活と本物の美術品のある生活との違いに気づくでしょう」とのこと。僕はポスターが例えば油絵の原画に「劣る」とは思わない。けれど、こういう試みを通じて「美術品を部屋に飾る」という消費行動の裾野が広がっていけば、それは生活者にとってよりよい生活もたらすだけでなく、創作者にとっても新しい売り先が広がり、結果として、自己表現を支える市場が拡充したらいいなぁと思う。

 最小限に抑えるべく努力されているとはいえ依然として存在する作品棄損のリスク。これを敢えて取ることの社会的なリターンは、より多くの作品が将来にわたって制作され、それらが愛されていくことなのだろう。こういう利益考量を内在化させたいわば文化政策が、政府や自治体などではなく、大学のコミュニティ内で息づいていることに改めて驚く。GPSやセンサーを使って作品管理を高度化するとか、和風に味付けして日本でも応用できるんじゃないだろうか。

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「マティスの時代」展 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/24/124357 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/24/124357#comments Sun, 24 May 2009 03:43:57 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/24/124357

 京橋で昼食を取った後、八重洲まで歩いてブリヂストン美術館の「マティスの時代」展を観る。この企画展は全部で10ある同美術館の展示室のうち初めの2室をのみを用いたものなのだけれど、訪問者の体験としてはそれに留まるものではなかった。なぜなら、続く展示室にはマティスが影響を免れなかったであろうピサロやモネ、セザンヌやシニャックの作品が、さらに続々と並ぶからだ。誰の時代と呼ぼうとも、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのこの時代の豊潤さは群を抜いているように思える。


 それでも、「マティスの時代」の2室はやはり、特に見ごたえがあった。それまで僕は画家の生涯というものについてそれほど興味を持たなかったのだけれど、アンリ・マティス(Henri Matisse)の作品群を追ってそれに初めて興味を持つようになった。展示作のうち最初期のものは1899年の「画室の裸婦」で、最後期のものは1947年の「『ジャズ』IXフォルム」だった。
 それまで僕は、無自覚にもいわば美術史上の点として画家を認識していたのだけれど、ある人物が29歳に描いた作品と77歳に描いた作品との間には明らかに時空の隔たりがある。「画室の裸婦」の色合いには淡い華やかさがあるものの全体としては抑えられたトーンで、そこには「ジャズ」のような明確な色彩の輪郭はない。
 もっとも僕は美術館ではその隔たりを意識しただけで、マティスの生涯について多少の理解を得るのは美術館の売店でこの画家についての本を買って、それを読んでからなのだけれど。ともあれ、そういう時間の変遷を感じられたのはこの企画展のおかげだと思う。
 マティス以外に興味をもったのはモーリス・ド・ヴラマンク(Maurice de Vlaminck)の風景画で、鈍色の空と精細な筆致が印象的だった。ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault)の絵には人々に対する慈愛にも似たまなざしが感じられて、「裁判所のキリスト」や「赤鼻のクラウン」には思わず立ち止まってしまう色と形と情景の力強さがあった。
 常設展の方ではモーリス・ドニ(Maurice Denis)の「バッカス祭」は理屈抜きで楽しい。エキゾチックな森で野獣たちと飲めや歌えのお祭り。果たして僕らが、これを願わないままに酒を飲む日があるだろうか、とすら思わせるような酒神賛歌だ。ピエール=オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir)は十八番の少女の肖像もさることながら、光あふれる「カーニュのテラス」がよかった。南仏に注ぐこの朗らかな光を、画家はモデルたちの中に見出したのだろうか。フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)の絵には何を見てもジーンと来て言葉を失ってしまう。
 僕にとって新しい画家たちの作品では、べナール・ビュッフェ(Bernard Buffet)の「アナベル夫人像」はCDのジャケットなんかにも似合いそうなオシャレ感があったし、ザオ・ウーキー(Zao Wou Ki)の抽象画はホテルの寝室に飾ったらさぞ良かろうと思わせる都会的な洗練があった。
 僕ははじめ、19世紀後半から20世紀初頭にかけての豊潤と書きながら、果たして100年後の今はそう呼べるものがあるのだろうか、なんて安易なニヒリズムに足と口を滑らせかけていた。危ない危ない。こんにちもまた、目を見開きさえすれば豊潤な時代なのだ。依然として。

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スコットランド友好150周年記念コンサート http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/24/104235 http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/24/104235#comments Sun, 24 May 2009 01:42:35 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/05/24/104235

 4月6日、伯父より招待され、スコットランド国際開発庁主催の「スコットランド友好150周年記念コンサート」を初台のオペラシティで聴く。プログラムの第1部は「スコットランドと日本を題材とした純粋なクラシック音楽」で第2部は「スコットランドのゲストアーティストによる演奏」。曲目もさることながら、途中で民族衣装に身を包んだバグパイプ隊が桟敷で演奏したり、最後には客席のスコットランド人と日本人とが文字通り手に手を取って「蛍の光」を歌ったり、単なる音楽鑑賞というよりは祝祭として楽しい時間を過ごした。


 第1部で印象に残ったのはハーミッシュ・マッカン(Hamish MacCunn)の「山と溢れる泉の土地(Land of the Mountain and the Flood)」で、オペラ音楽を思わせるような音楽で迫力ある音楽空間がコンサートの幕開けを飾った。次に演奏された伊福部昭の「交響譚詩」は前の曲と同様に劇的ではあるのだけれど、それはオペラというよりももう少しポップで映画のシーンのようだった。プログラムによれば伊福部昭は「ゴジラ」の映画音楽の作曲家ということで、納得。これが「純粋なクラシック音楽」というのかはよく分からないけれど。
 第2部ではバグパイプ隊の加わった「ハイランド・カテドラル(Highland Cathedral)」が圧巻で、人々をして息をのませる自然の優美、そして自然への畏敬の念が立ち上るようだった。スコットランドの音楽を、少なくともそう意識して聴くのは初めてだったけれど、全体を通じて繊細さや素朴さが感じられた。管楽器が奏でる勇壮さの中にも、ともするとメランコリックな悲哀がある。このあたりが、日本人の気質に好まれる所以なのかも知れない。
「勇敢なるスコットランド」

「ロッホ・ローモンド」

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ジプシーの呪い - ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」 http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/20/041601 http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/20/041601#comments Thu, 19 Mar 2009 19:16:01 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/20/041601


 2月28日、メトロポリタン歌劇場(Met)でヴェルディ(Giuseppe Verdi)「イル・トロヴァトーレ」(Il Trovatore)を観る。前日東京で観たジンガロ「バトゥータ」が描いた自由の民としてではなく、どこか空恐ろしい呪詛の民としてジプシーが描かれる。ジプシーの女アズチェーナが、先代の伯爵に母を殺された報復に、その伯爵の子である次代の伯爵をしてその実の兄弟(お互いにそうと知らない)を殺させる、という復讐劇だ。多少無理のある筋書きでも、しかし、壮麗なアリアの連続がぐいぐいと観客を牽引していく。「復讐は成った!」というアズチェーナの最後の叫びには無常感とカタルシスが同居していて、この「引き」の目線が本作の醍醐味なんじゃないかな。



 まず、本作はデイヴィッド・マクヴィカー(David McVicar)による演出で指揮はイタリア人指揮者のジャンアンドレア・ノセダ(Gianandrea Noseda)。Met、リリック・オペラ・オブ・シカゴ(Lyric Opera of Chicago)、サン・フランシスコ・オペラ(San Francisco Opera)の共同制作による新作で、2006年にシカゴで初演されたらしい。原作の舞台は15世紀初頭の内戦下のスペインであったものを、マクヴィカーは19世紀の半島戦争中の同国にしている。そこで舞台美術のチャールズ・エドワーズ(Charles Edwards)は、同戦争を生きたスペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco de Goya)の連作銅版画「戦争の惨禍」に着想を得たという。

 このゴヤのイメージは驚くほどフィットしていて、真骨頂は上に貼り付けた金床の情景だ。絵画が動いているとしか思えないシーンで度肝を抜かれた。このシーンではさらに、ジプシーの男たちがリズミカルに金鎚を金床に打ち下ろすので、まるで「マッスル・ミュージカル」を観ているかのようなキャッチーな楽しさがある。ニュー・ヨーク・タイムスによると、どうやらこれは、本来舞踊のない歌劇にも関わらず振付師リア・ハウスマン(Leah Hausman)が制作に参画していることによるみたいだ。ともすると重苦しいだけの復讐劇のなかで、このシーンの軽快さは際立って楽しい。

 隣に座った老婦人によると劇場の幕も話題になっているそうだ。パンフレットによると、その幕はゴヤの1821年の作品「サン・イシドロの泉への巡礼(Pilgrimage to San Ishidro)」の部分拡大なのだそうだ。この幕に描かれた、怒り、悲しみ、あるいは絶望する人々の姿は「イル・トロヴァトーレ」の悲劇そのものだ。母を火あぶりにされたアズチェーナが、その無慈悲な火刑を下した伯爵家への復讐を誓う。彼女は伯爵家の二人の息子のうちマンリーコを我が子として育て、彼にその出自を教えぬまま、彼の実の兄弟であるルーナ伯爵への仇討をけしかける。この兄弟は悲劇のヒロインとなるレオノーラをめぐる恋敵でもあって、さらに内戦の混乱が物語に影を落とす。

 ここでジプシーのアズチェーナは魔女のようにも見えるのだけれど、そうではないことは物語の冒頭に注意すると明白だ。アズチェーナの母は伯爵家の幼子の様子を見ていただけで、子どもに呪いをかける魔女として火あぶりにさせられてしまう。その伯爵家へ復讐を誓う彼女の動機に不思議はない。この物語が描く最大の理不尽は、母が魔女と疑われ焼き殺されたそのことによって、娘がまさに魔女のような復讐鬼となってしまうことだ。アズチェーナの母の話は、冒頭の衛兵の会話を聴き逃すと(僕は字幕なので「見逃すと」だけれど)、なぜ火刑になったかが分からなくなってしまう。

 いや、その「なぜ」が再度説明されることなく物語が進むそのことこそ、実は、この物語が描く諍いの呪いなのかも知れない。復讐劇の火蓋は、幼いアズチェーナが、母を焼き殺されるのを目の当たりにしたその時に始まっている。その昔話として語られる動機が、救いのない結末へと愛憎劇を転げ落ちていく。それは物語の遠景をなす戦争そのものにも通じて、ゴヤの「戦争の惨禍」に結像する。ジプシーの呪いなどない、ただし、そんな濡れ衣を着せることは災いを招く呪いに他ならない。この歌劇にもしも教訓を求めるとしたら、そういうことなのかも知れない。

 ちなみに、エイヴリー・フィッシャー・ホールでオーケストラを聴いたときもそうだったけれど、Metでも劇場で配られるパンフレットがめちゃくちゃ充実している。全体で73ページもあり、あらすじやキャストの紹介があり、今回の演出の見どころが説明され、さらに「イル・トロヴァトーレ」についてローマでの初演からMetでの公演履歴まで詳説されている。巻末の3分の1くらいは本公演や劇場への協賛者のリストになっていて、この1冊だけでオペラで人々を魅了して新しいパトロンを獲得しようとする、いわば歌劇の守護者としてのMetの情熱が感じられる。

 さらにMetの配慮で驚いたのは字幕表示装置で、各座席の手許、ちょうど前の席の背もたれに据え付けられている。ボタンを押せば英語、ドイツ語、スペイン語の字幕が表示されて、もちろん字幕を消すこともできる。隣の老婦人は、これがお気に入りで、Metの常連として自慢気でもあった。確かに通常の舞台上部にある字幕は、特にお年寄りには遠くて読みづらいだろうし、ドイツ語やスペイン語を同時に表示するのは無理がある。さらに、この手元の字幕も、ただでも必要にして十分な薄い光なのだけれど、それが隣席に漏れないように表面に偏光フィルムが貼られている。芸が実に細かい。

 ともするとハンバーガー的豪快さがアメリカの骨肉、というような印象を持ってしまうのだけれど、オペラというハイ・カルチャーを通じて、この偏光フィルムのようなアメリカの繊細さに触れられたのも到着初日を飾るに相応しい発見だったなぁ、と思う。

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メトロポリタン歌劇場 http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/15/200207 http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/15/200207#comments Sun, 15 Mar 2009 11:02:07 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/15/200207


 木場で「バトゥータ」を観た翌日の2月28日、ニュー・ヨークのメトロポリタン歌劇場(Met)でヴェルディのオペラ「イル・トロヴァトーレ」を観る。機内では「007 慰めの報酬」、「マダガスカル2」、「たそがれ清兵衛」の3本も映画を観てしまったせいで大して寝てもいないのだけれど、晴れた午前の空に伸びる摩天楼を見ると気分が高揚する。レキシントン街と53丁目の角で地下鉄を降りて、西に歩きながら考える。MoMAも気になるけれど見送って、ちょっと小腹が空いたのでホット・ドッグをかじりながら、やっぱりMetに行こうと決める。土曜のマチネーで新作のヴェルディ「「イル・トロヴァトーレ」をやると調べていたので、憧れのMet初体験を飾ることにする。



 窓口でドレス・サークル(Dress Circle)という4階席のチケットを125ドルで買って、まえに出張の合間に訪れた隣のエイヴリー・フィッシャー・ホールのトイレで、盛り上がった気分の表出としてスーツに着替えてタイを締める。英国王立歌劇場で買った紙製のオペラ・グラス、出番もないのに長々と旅行用ポーチに入れていたんだけれど、なぜか今日に限って持ってきていない。劇場の地階で本式のグラスをレンタルして準備万端。
 赤いカーペットが敷き詰められたメトロポリタン歌劇場の内部は想像以上に華麗だった。さらに、うろうろ検ていて行き当たったレストランでは、そこが会員制である旨を伝えられて丁重に追い返されつつ、その空間が持つ、市井の喧騒から隔絶された重厚さに驚いた。このザ・メトロポリタン・オペラ・クラブ(The Metropolitan Opera Club)は紹介制とのことで、アメリカにおけるクラブ社会の外壁に触れた気分だった。

 さて、初めて足を踏み入れる場所の新鮮さと、上記のような多少のウェー感ほぐしてくれたのは隣の座席に座った老婦人だった。彼女の夫は日米協会か何かに勤めていて60年代に夫婦で東京に住んでいたそうだ。「東京文化会館が出来てすぐ上演する作品にプッチーニの『蝶々夫人』を選ぶのははいかがなものでしょう」、という彼女に僕が言えることといったら、「数年前に新宿の近くに新しい歌劇場ができましたよ」くらいだったけれど。
 彼女はこの4階席の3列目で通路側の席がお決まりのようで、視界が通路によって開けているからオーケストラ・ピットの中を含めて全体が見渡せて気に入っているという。こちらは飛び入り参加だから、そういう熱心なファンにはいろいろと教わることが多い。「イル・トロヴァトーレ」については改めて書くとして、例えば、「金融危機で協賛が減ってオペラの製作資金が減っている」なんて話も興味深い。
 僕がMetを初めて意識したのは1988年製作のプッチーニ「トゥーランドット」をDVDで観て、その舞台の絢爛に圧倒されてからだ。老婦人は、Metの舞台が時に派手すぎて「ブロードウェイ的」になるのは好まないと言っていたけれど、良くも悪くも派手さはMetの特徴じゃないかと思っていた。僕は「簡素な舞台の方が音楽に集中できるでしょうね。本来オペラは音楽ですから。」なんて、あながち嘘でもないものの適当なことを言って隣人を喜ばせつつ、「イル・トロヴァトーレ」の幕開けを待つ。
 思えば前回のニュー・ヨーク出張は、夕方空港に降り立ってホテルに直行、チェック・インしてすぐに1番街あたりのピアノ・バーで同僚たちと合流。ウィスキーの水割りを飲みながら日本人の女の子たちとを他愛もない話をして、2件目のカラオケでオレンジ・レンジを歌う、なんて具合で六本木と瓜二つだったから僕の旅情は不完全燃焼だった。
 それに比べて今回は休暇だから、空港からはタクシーではなくて地下鉄で移動して、ホテルも定宿のシェラトンではなくてアッパー・ウェスト・サイドの安宿で風呂も共同。けれど、この旅情と自由はプライスレスだ。学生時代に初めてこの街を訪れたときも、YMCAに泊まって旅費を削りながら美術館代とビール代を捻出していた。
 学生時代のそれに似たスピリットを持って、マンハッタンに足を踏み入れるこの気分は何物にも代えがたい。そして、初めてのメトロポリタン歌劇場をこの気分で迎えられたことが、ただそれだけで嬉しく思える。ニュー・ヨークはなぜか、どうでもいい若さをどうしようもなく輝かせる。

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土の匂い - ジンガロ「バトゥータ」 http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/15/174604 http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/15/174604#comments Sun, 15 Mar 2009 08:46:04 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/03/15/174604


 2月27日、ジンガロ(Zingaro)「バトゥータ(Battuta)」を観に行く。「騎馬」スペクタクルだから…かどうか分からないけれど、木場。ギャロップ・シートという砂被り席を11月に予約して、待つこと3ヵ月。馬術を取り上げた舞台というのは初めてだから期待も高まる。90分程の舞台は幻想的に始まり、心が躍るような人馬賛歌が繰り広げられ、そしてまた、幻想的に幕を閉じる。馬々が蹴散らす土や、彼らがまとう飼葉の匂いが鼻腔を撫でて、僕たちの生活から欠落してしまった「土」への郷愁を掻き立てる。この舞台の主役は馬であり、そして、馬のような美しさと自由を湛えた人生を生きるジプシーたちだ。それらは、かつて僕たちが根をおろしていたかも知れない土を思わせた。



 外は冷たい雨が降っていたから、馬が出入りする時には特設のドームへ外の風が吹き込む。土の匂い、飼葉の匂い、馬の鼻息。弦楽器と管楽器とで別れたルーマニアの2楽団がそれぞれに、滑稽さをともなった興奮や、慈愛をともなった感傷を奏でる。馬乗りたちのアクロバットも、例えばラス・ヴェガスのシルク・ド・ソレイユのような超人的な洗練というよりも、むしろ、大道芸的な荒技という印象だ。観劇がここまで、生の等身大の経験になりうることに驚く。
 ジプシーの生活を垣間見ているはずだったのが、その有り様もこれほどの眼前で提示されると本質的な彼我の「垣間」が混乱を来してくる。引っ切りなしに続く手拍子で舞台にのめり込み、夢のような時間を過ごして迎えた終劇は、楽しい夢のあとのような寂しさを残した。ジプシーたちが人馬一体で過ごす人生が遠い異国から切り出されて、それをスーツを着た僕たちが観察していたはずが、土の匂いが遠ざかるにつれて、切り出されて隔絶されているのはまるで僕たちの方であったかのような喪失を覚えた。
 ただ、この郷愁や喪失は終劇を待たずとも開演のその時から予感し、あるいはまさに感じていた。禅的と呼べるほどに洗練された幕前から、まるで「ニルスのふしぎな旅」のごとくガチョウに男が連れられて行った先の世界が、土着的な祭りであったことに僕は「やられた」と思った。フランスだとか馬術だとか協賛がエルメスだとかいう記号を、表層的な文脈で勝手に解釈して、舞台は小洒落ているか小難しいかあるいはその両方だろうと予期していた自分の浅薄を恥じる。
 男と女が恋に落ち、馬に乗った男が女を父親から奪う場面が印象的だった。「粗にして野だが卑ではない」という、旧国鉄総裁・石田禮助の言葉を思う。粗野だけれども下卑ていないどころか、その実直さにはなかなか何物にも代えがたい気品がある。バトゥータの衝撃はまさに、土の匂いを通奏低音として、この粗野たることの高貴さを描き切ったことにあると思う。僕はここで、茨城のアトリエで土の匂いある生活を体現しよう、という思いをまた新たにする。

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花咲爺 - レオナール・フジタ展 http://www.thesyntaxerror.net/2009/01/18/103243 http://www.thesyntaxerror.net/2009/01/18/103243#comments Sun, 18 Jan 2009 01:32:43 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2009/01/18/103243

 1月9日、僕はプロジェクトの終盤で徹夜明けだったのだけれど、一念発起して上野の森美術館の「レオナール・フジタ展」へ行く。そこで僕はフジタの作家性に初めて触れ、そして、彼の生活への愛情に大いに反省させられる。今回日本初公開となった大作壁画もさることながら、というか、それを踏まえた上で見る、アトリエの小物たちに感銘を受けた。フジタは職業的にというよりはむしろ、人生に対する態度の結果として、触れる品々をことごとく美術に変えていた。敬意を込めて彼を、花咲かじいさん、と呼びたい。


 展覧会は作家を時系列に追う構成になっていて、金曜の夕方にオフィスを少し早く出た僕は、滑らかにフジタの追体験へと離陸する。渡仏直後の初期の作品には特に作家の野心が感じられて、「家族」という人物画にはモディリアーニを彷彿とさせる雰囲気もあった。それは円熟の最晩年までを見終えて振り返ると、どこか若々しいトンガった風を感じさせた。一方で、縁取りのはっきりした浮世絵風の――あるいは漫画風の――、画風は渡仏初期から明らかな個性を放っていた。

 大作の「構図」と「闘争」はもちろん見ごたえがあるのだけれど、僕にとっては裸婦像の方がしっくりきた。フジタの真骨頂はそのおやかさあって、ミケランジェロ風の筋骨隆々は実は彼の語彙にないじゃないんじゃないか。フジタもまた、猫なのではないか。皮とも骨ともつかないぐにゃりとした所作で、浅薄な大義を巧みに避けながら、しかし気丈に、内面の真理を掘り続けている。そんなことを思う。
 特にそう感じたのは館内に再現されたフジタのアトリエを見た時だ。道具箱から衝立、そして鏡に至るまで画家の手製で、それらに傾けられた時間と情熱は一目で伝わる。それらは単に道具というよりも、レオナール・フジタという泉からこぼれる感性が、まるで成り行きで咲かせた草花のような自然さがあった。彼は道具だけでなく教会やらアトリエやらの実に精巧な模型までをも作っていて、触れる品々をことごとく作品に変えてしまうかのようだ。八角形の鏡に僕はその真骨頂を感じで、どのような鏡も、フジタの周囲に配されたや否や、このような姿に昇華させられる運命にあることを思い知らされた。
 フジタの生活への愛情は、作品「フランスの48の富」に結晶している。この画家が生活のなかにいかに多くの美しさを見出しているかを、あるいは、僕たちがそれらをいかにあっさりと忘れてしまうかを、痛感させられた。そこには大義はないかも知れないけれど、美や生への忠義を色濃く感じる。その忠義は最後期の宗教画で沸騰していて、例えばイヴの絵で描かれたエデンの自然の豊かさに思わず息を呑んだ。それらの絵は彼にそうであったのと同様に、程度の差こそあれ、観る者にとってもやはり、ある種の宗教体験なのだ。この文脈で僕は、黙示録の円熟に完全に圧倒されてしまった。
 それは恐ろしい終末の絵なのだけれど、漫画みたいな爆発があったり、おどろおどろしい中にもどこかコミカルな雰囲気を醸し出す色づかいがあったりして、なんだか飄然としているのだ。その黙示録は俗世のお仕着せの解釈を免れて、いわば「ありのままの終末」を達観してポンと描いたような、そういう超越したものがあった。もちろん、各種の資料は画家がその作品のためにどれほどの下準備をしたを物語っているのだけれど、それらにはあまり労苦という雰囲気がなくて、むしろ無邪気な熱中のようなものを僕は勝手に感じていた。
 搾り出すというよりは溢れ出るというような、押し出すというよりは引き出すというような、フジタのしなやかさを堪能した。世界がなにも変わらなくとも、フジタは花咲かじいさんのように、その世界を色付けていく。一方で僕は、非力なくせにいわば世界の形状を変えんとして夜も寝ずに足掻いていた。ありのままの生活を楽しめば世界の色彩の方が変わっていくんじゃないか、なんてヒントをフジタにもらった気分で美術館を出る。

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放送大学「光~暗闇のリンゴの色は何色か」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/113412 http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/113412#comments Sun, 28 Dec 2008 02:34:12 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/12/28/113412


 朝起きてふとベッド脇のテレビをつけたら、ちょうど放送大学の講義が始まるところだった。標題が「物理の考え方7)第13回『光』」というだけだったら、僕はこの講義を聴かなかったかも知れない。けれど、副題に吸い込まれてしまった。暗闇のリンゴの色は何色か。観察者なき世界は、どんな色をしているのか。観察者なき世界など、あるのか。僕たちが見ているものは、何なのか。


 「暗闇のリンゴの色」についての結論自体は、それほど目新しいものではなかった。色は物体がどんな波長の光を吸収し、あるいは、反射するかによって決まるので、光がなければ色もない、というような話だったかと思う。けれど、この当り前のような主張はそれでいて、なかなか示唆に富んでいる。光が当たる前から、色は決まっているのだ。問題は、僕たちがその対象に対し、どのような光を当てるか、ということだ。
 単波長のレーザー光線でものを見る、というファンキーな実験がスタジオでなされた。赤いレーザー光線でいくら照らしても、緑のピーマンは真っ暗のままで、僕たちはその本当の色を知ることができない。ん? 本当の色? もし世界の光が赤いレーザー光線でしかなかったとしたら、ピーマンの「本当の色」は漆黒ということになりはしないか。僕たちが「本当の色」だと思っている「緑」すら、太陽光線やら、太陽光線を前提とした僕らの網膜やら、その網膜を前提とした照明器具やらという装置が見せているに過ぎない。他の光線では、「本当の色」は他の色かも知れないのだ。そこに光あれ(どんな?)。
 こういうボールを投げっぱなしのまま、木村教授はさらに話を進める。テッポウウオ。彼らは水面下の屈折した映像を見ながら、しかしその屈折を計算に入れて、空中の虫に向かって水を放つ。木村教授は、モノがズレてみえるサイケデリックなメガネを相方の大石準教授にかけさせて、大石氏に剣道をさせる。このシュールな環境下で大石氏の竹刀は、見事に相手の面を外す。テッポウウオは心の目で見ているのかも知れませんね、なんてどちらかが言う。
 冗談じゃない、その通りじゃないか。テッポウウオは、目で見た映像を額面通りには妄信せずに、本能的な修正を加えて虫を撃ち落としている。このメタな視覚、「心の目」と呼ぶに相応しい。暗闇のリンゴは本当に無色なのか、ピーマンは本当に漆黒なのか、あるいは、本当に緑なのか。僕たちのメタな視覚は、何を結像するのか。
 以前、磯崎哲也氏が「放送大学にハマっちゃいまして」と書いていて、僕は勝手に我が意を得たりと喜んでいたけれど、やはり、依然として放送大学は非常に熱い。不況になって経済が停滞したら、国民全員で放送大学を受講してればいいんじゃないか、なんて少し本気で思う。そうしたら日本の労働生産性も向上するだろう。放送大学で晴耕雨読のススメ。

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三宿ナイト - ビストロ喜楽亭とWeb http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/18/121549 http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/18/121549#comments Sat, 18 Oct 2008 03:15:49 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/18/121549

 ふかわりょうが回すということで、三宿のWebに行くことに。クラブに電話したら、ふかわは23:00から回すということで、早めの展開。店に入る前に、前から評判を聞いて気になっていたビストロ喜楽亭で壺焼きカレーを食べることに。先週末に車で通ったら行列ができてて諦めた分、それでさらに気になっていた分、行列なしにすんなり入れたフライデー・ナイトは嬉しいような拍子抜けのような。下手したら10年ぶり近いWeb、ファンキーでいて大人っぽい印象は相変わらず。とはいえスーツでごめんなさい。


 喜楽亭で、僕はスペシャル・ビーフ・カレーを、妻は普通のビーフ・カレーを注文。フツーに旨いんだけど、とはいえフツーに旨いというくらいなので、あんまり高いの頼まなくていいかも、という至ってフツーの結論。スペシャル・ビーフ・カレーは1,500円で、ビーフ・カレーは900円くらいだったかと思うけれど、後者の方が圧倒的にコスト・パフォーマンスが良くて――というか同店比1.7倍の価値を創造するのは大変だよね――、その差額600円はビールに回した方がいいかもなのです。といいつつ、もちろんビールは飲んだ上にガーリック・ナンまで食べて準備万端。
 さて、Web。入店したらもうふかわが回してるわけですが、良く言えばラウンジー、悪く言えば枯れた選曲。かなり神経質そうなDJが醸す朝方のチル・アウトみたいな雰囲気に飲まれ、僕も思わずミモザなんかを飲まれてしまうのだけど、これは始めだけだったみたい。次に入った坂井壱郎のアゲっぷりといったら。m-floありbirdありと泣けるJポップを織り交ぜつつ、ロック・チューンでぐいぐいと突き上げる。DJブースの本人が没入感満点で、「スタッフが空き時間をつないでます」的な前任のふかわとのギャップに衝撃。ミモザなんか飲み干してコロナ、首持って踊れコロナ。
 フロアが過熱したところで、ふかわ。今度のふかわは打って変ってテンション高め。身振り手振りでクラウドを先導。エレクトロで多少ストイックな世界観はそのままに、厚めのベースラインを轟かせて、これぞクラブ的なカタルシス。久しぶりのクラブだったけれど、異様に女の子が多かったなぁ――8割くらい?――という印象。確かに僕も妻に誘われなければ来なかっただろうから、男子も元気出して家内と。いや、出してかないと。

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ベーゼルドルファーとスタインウェイ http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/11/234020 http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/11/234020#comments Sat, 11 Oct 2008 14:40:20 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/10/11/234020

 親族が半ばライフワークとして主催するコンサートへ、もしかしたら10年くらいぶりに行く。「オペラの魅力」と題した今回は、小松勉氏のピアノと島田美香氏のソプラノで、オペラのアリアとピアノのソロをほぼ交互に織りなす構成。ステージ上には2台のピアノが並んで、ソプラノの伴奏にはベーゼルドルファーを使い、ソロにはスタインウェイを使うという小松氏曰く「贅沢な構成」。「2台の音の出方を聴き比べてください」という助言通り僕は耳を澄ますのだけれど、聞き比べればその違いは明白で、いままで「ピアノはピアノ」と思っていた僕は耳から鱗が落ちる感じだったんだよね。


 まず、プログラムは次の通り。精神科医でラジオのクラシック番組も担当するという長崎達朗氏のコメントによれば、フィナーレを飾るような難しい声楽曲を冒頭に持ってくる意欲的な構成とのことで、その解説を待たずとも僕らは、島田氏の伸びやかなソプラノにのっけから圧倒。

  1. ショパン ワルツ第4番 ヘ長調 「華麗なる大円舞曲」
  2. ヴェルディ オペラ「椿姫」より 「ああ、そはかの人か~花から花へ~」
  3. モーツァルト オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」より 「恋人よ ぞうぞ許して」
  4. ショパン ノクターン ロ長調 作品9-3
  5. プッチーニ オペラ「ジャンニ・スキッキ」より 「私の優しいお父様」
  6. ガーシュイン 3つの前奏曲より 第1曲、第3曲
  7. ガーシュイン オペラ「ボギーとベス」より 「サマータイム」
  8. ショパン ポロネーズ第6番 変イ長調 「英雄」
  9. ヴェルディ オペラ「マクベス」より 「早く来て! 灯をつけてあげましょう」
  10. ベッリーニ オペラ「ノルマ」より 「清らかな女神よ」
  11. ラフマニノフ 「リラの花」
  12. プッチーニ オペラ「トゥーランドット」より 「氷のような姫君の心も」
  13. プッチーニ オペラ「トスカ」より 「歌に生き 愛に生き」

 小松氏は「スタインウェイは音がぽーんと上から出る」と話されていたけれど、たまたま最前列に座った僕はそれをある意味で検証することになる。最前列でステージを見上げるように聞いていた僕は心底「このピアノは調律が狂っているか、さもなくば、小松先生はソロで間違えまくっている」と思ってしまった。そんなことは、もちろん言うまでもなく、ない。休憩の後で席を後方、つまりステージよりも数メートル高い所に移して『英雄』を聴いて、僕は、自分の愚にもつかない懸念が杞憂であったことと、スタンウェイという楽器の特徴とを同時に知ることになる。
 最前列で聴いていた時、ベーゼルドルファーには違和感を覚えなかったけれど、スタインウェイの音は――あくまでも僕の主観だけれど――まったく聴くに堪えなかった。特に高音部はひどく調子っ外れに聴こえて、そのせいで、ソロも2曲目あたりになるとピアニストが手を右に伸ばすと僕は思わず身構えてしまうくらいだった。楽器の違いに考えが及ぶまで僕は、これは調律師か奏者かどちらが悪いのだろうかとばかり思案し、よもやピアニストとの十数年来に及ぶ親交が損じられないかと勝手に葛藤したりもしていた。スタインウェイの高音域と、それが生んだこの取り越し苦労で、前半のソロは僕は全く楽しめなかった。
 ところが、席を移ってから、スタインウェイは音をこちらめがけて明瞭に投げ込んできた。僕は杞憂が晴れたことも手伝って、ノリノリで『英雄』を楽しむ。実際に小松氏はこの曲をかなりンス・チューンに解釈していたようにも感じたけれど、観測地点を変えて音の立体的な軌跡を体感したために、僕は弦から飛び出す音符が見えるかのような印象すら感じ、それはミラーボールが反射するライトを浴びるような、そういう恍惚の感じだった。ファミコンの『忍者ハットリくん』のボーナス面で、跳ね上がっては飛び込んでくるくわけをただひたすらに浴び続けるような。
 そういう意味では、前半最後のソロで弾かれたガーシュインで、このミラーボール体験あるいはくわ験が出来なかったことは実に惜しい。
 一方のベーゼルドルファーに僕が感じたのは安心感だ。ソプラノを中心に据えた音の世界を半球体として半ば包み半ば縁取り、客席に向けてショーケースしていく音の豊かな厚みを感じた。指輪ケースのような重厚なプレゼンテーションだ。だから、島田氏の歌声に聴き入りながらふと、眼前のステージにはたった2人しか居ないことを意識すると、僕はひどく不思議な気分になる。1台のピアノが木張りの舞台にヴェルヴェットの内張りを一瞬で広げるがために、アリアをぶつ切りに聴く唐突さを感じさせないまま、オペラの文脈に聴衆を引き込んでしまう。僕たちもまた、そこに安心して飛び込んでいく。
 音色に加えたスタインウェイとの比較では、ピアノより下の位置で聞いても特段の違和感はなかったというのも安心感と言えば安心感だ。
 ともかく、世のスタインウェイが全部ああいう風に鳴るのであれば、もう下からは二度と聴くまいというのが今回の教訓。とはいえ、事前にピアノの種類を確認するほど僕は熱心じゃないから、ピアノのコンサートなら席を後ろに陣取りましょう、というあたりが現実解。これはもしかしたら、財布にも優しいんじゃないか、なんてことも小賢しく思ってみたりして。

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あらすじ買い - ストラヴィンスキー「放蕩者のなりゆき」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/15/081227 http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/15/081227#comments Tue, 15 Jul 2008 13:12:27 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/15/081227


 英国王立歌劇場のスケジュールを確認したら、水曜日はストラヴィンスキー「放蕩者のなりゆき(The Rake’s Progress)」という作品が上演されるようだった。結局、その晩は会食になって観劇は叶わなかったけれど、ストラヴィンスキーのこの作品、なかなか面白そうだ。それにしても、英国王立歌劇場(Royal Opera House)がYouTubeで興行の告知をしているのには驚いた。


 まず、ストラヴィンスキーの「放蕩者のなりゆき」、ネットで調べたらなかなか救いのない話で、それゆえに僕は不思議と興味を持った。歌劇は演劇体験である以上に音楽体験であって、言ってみれば芝居としてハッピー・エンドであろうがなかろうが、とりあえずのカタルシスは音楽鑑賞から摂取する自信がある。僕は感動屋だから。ストラヴィンスキーの音楽にじっくり浸るだけでも幸せだろう。
 もちろん、こうして逃げを打っておきながらも、やっぱり気になるのは話の筋だ。あるサイトによると主人公は恋人がいるのに定職に就かず一攫千金を夢見て、ロンドンに行ったら行ったで女遊びにハマってしまう。ようやく荒唐無稽な事業に手を染めるも案の定失敗して借金まみれ。ついに精神を病んで入信したところを恋人が見舞いに来てくれるのだけれど、彼女は父親に連れ戻されてしまう。うーん、実に救いがない。
 僕自身としてはこの放蕩者ことトムのダメさ加減はなんとなく他人事でない。いち男子としては世の男子なんぞ大抵はこんなもんじゃないかと思ったりもするけれど、こういった男子のダメな部分は、できれば女子に伏せておきたい部分でもある。世の女子が山本モナ女史を非難するごとく、男子としても政治的にトムを非難しておきたい。でも、それは一方でトムに親近感を感じてしまうことの反動なのかも知れない。
 そんな訳で、この作品は敢えてカップルで観に行くこともないだろう。ワーグナーの「タンホイザー」の観劇後、父親とふたりで観にいってちょうど良かったと思ったけれど、この「放蕩者のなりゆき」もまた同様という予感がする。出張先で――ちょうど舞台もロンドンだし――ひとり観劇するにはうってつけのように思えただけに、惜しいことをしたなぁ。わざわざDVDを買って観る、という気までは起きないし。DVDを再生するよりも、劇場に足を運ぶ方がよほど退屈するリスクが低いからだ。
 それにしても「The Rake’s Progress」と検索してYouTubeが出てきて、誰かがDVDから違法に抜粋した映像化と思いきや、どうしてどうして英国王立歌劇場のれっきとした告知だったのには驚いた。ニュー・ヨーク・フィルハーモニックにしても英国国立美術館にしても、欧米の古典芸能はハイテクをうまく利用しているなぁ、という印象を抱く。古典を愛するがゆえに現代のトレンドにも敏感なのだろうかと、僕は勝手に想像する。

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豊潤の3部屋 - 英国国立美術館 http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/13/065238 http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/13/065238#comments Sun, 13 Jul 2008 11:52:38 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/13/065238


 ロンドン二日目の打ち合わせは午後3時からだったので、いろいろ思案した挙句、英国国立博物館(The National Gallery)に行く。もちろん何点かの目当てはあったけれど、ちょっとした暇つぶしのつもりだった。けれども、近代絵画のあまりに豊潤な収蔵品に取り憑かれ、結局は年代別に並んだ展示室のうち最後の3部屋で4時間もつかまってしまった。僕は思い立って、一冊のメモ帳――表紙はゴッホ「糸杉のある麦畑」だ――を急いで売店で買って、その3部屋の展示作を余さず書き留めた。個々の感想の前に備忘として書いておこう。


 まず、常設展の展示室は大別して4つの区画に分かれている。1250年から1500年までの絵画、1500年から1600年までの絵画、1600年から1700年までの絵画、そして、1700年から1900年までの絵画、という具合だ。僕は最後の区画の、さらに終わりの3部屋を遡って観た。
 最初に入った、つまり、最後期の作品を展示した展示室46は「ドガと1900年頃の作品(Degas and Art around 1900)」と題されていた。ここで供された作品は以下の通り。

    展示室46「ドガと1900年頃の作品」

  • Pablo PicassoChild with a Dove 1901
  • Henri de Toulouse-LautrecEmile Bernard 1886
  • Hilaire Germain Edgar DegasAt the Cafe Chateaudun about 1869-71
  • Id.Head of a Woman 1873
  • Id.Carlo Pellegrini about 1876
  • Id.Helene Rouart in her Father’s Study about 1886
  • Id.Princess Pauline de Metternich 1865-69
  • Id.Portrait of Elena Carafa 1875
  • Id.After the Bath, Woman Drying Herself 1888-92
  • Id.Combing the Hair (La Coiffure) about 1896
  • Id.Ballet Dancers about 1890-1900
  • Id.Miss La La at the Cirque Fernando 1879
  • Henri de Toulouse-LautrecThe Two Friends 1894
  • Id.Woman Seated in Garden 1891
  • Hilaire Germain Edgar DegasYoung Spartans Exercising 1860-2
  • Pierre-Cecile Puvis de ChavannesSummer before 1873
  • Id.Death and the Maidens before 1872

 次の部屋はその名も「ゴッホとセザンヌ(Van Gogh and Cezanne)」。僕の絵画体験は断然に父親の影響で始まっていて、ゴッホとセザンヌはその父が愛する二人の画家だ。初めて訪れる場所だけれど、しかし、展示室に足を踏み入れた時の気分はむしろ帰省に近い。この部屋の展示作品は次の通り。

展示室45「ゴッホとセザンヌ」

  • Vincent van GoghPortrait of a Restaurant Owner, possibly Lucien Martin 1887
  • Id.A Wheatfield with Cypress 1889
  • Id.Long Grass with Butterflies 1890
  • Id.Sunflowers 1888
  • Id.Farms near Auvers 1890
  • Id.Two Crabs 1889
  • Id.Van Gogh’s Chair 1888
  • Maurice DenisPicnic at Le Poldu 1900
  • Edouard VuillardDressmakers 1890
  • Id.The Eathenware Pot 1895
  • Henri RousseauSurprised! 1891
  • Paul SerusierGirl from Savoy 1890
  • Camile PissarroPortrait of Cezanne probably 1874
  • Paul CezanneThe Painter’s Father, Louis-Auguste Cezanne about 1862
  • Id.The Stove in the Studio 1865
  • Id.The Avenue at the Jas de Bouffan 1871
  • Id.Hillside in Provence 1886-90
  • Id.Landscape with Poplars about 1885-7
  • Id.An Old Woman with a Rosary 1895-6
  • Id.Bather (Les Grandes Baigneuses), probably 1888-1905
  • Id.Self Portrait 1880
  • Id.Still Life with Water Jug about 1892-3
  • Id.Avenue at Chantilly 1888

 三番目の展示室は「印象主義を越えて ピサロとスーラ(Beyond Impressionism: Pissaro and Seurat)」。展示されている作品は以下の通り。

展示室44「印象主義を越えて ピサロとスーラ」

  • Paul GauguinHarvest Le Poldu 1890
  • Id.The Guiter Player 1900
  • Id.Still Life with Mangoes about 1891-6
  • Id.A Vase of Flowers 1896
  • Id.Faa Iheihe 1898
  • Camille PissarroThe Pork Butcher
  • Id.Portrait of Felix Pissaro 1881
  • Id.The Avenue, Sydenham 1871
  • Id.Fox Hill, Upper Norwood 1870
  • Id.The Cote des Boeufs at ermitage 1877
  • Id.The Boulvard Montmantre at Night 1897
  • Akseli Gallen-KallelaLake Keitele 1905
  • Alfred William FinchThe Channel at Nieuport about 1889
  • Theo Van RysselbergheA Coastal Scene perhaps 1892
  • Paul SignacLes Andelys, the Washerwomen 1886
  • George SeuratBathers at Asnieres 1883-4
  • Id.The Channel of Gravelines Grand Fort-Philippe 1890
  • Charles AngrandThe Western Railway at its Exit from Paris 1886
  • Pierre-Auguste RenoirMisia Sert 1904
  • Id.Gladioli in a Vase 1874-5
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映画「ラスベガスをぶっつぶせ」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/09/132939 http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/09/132939#comments Wed, 09 Jul 2008 18:29:39 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/07/09/132939


 ロンドンに向かう機内で、映画「ラスベガスをぶっつぶせ」を観る。MITの天才青年がブラックジャックでカード・カウンティングをする話なんだけれど、僕は去年の冬にラス・ヴェガスでまさにこのカード・カウンティングのお先棒を担がせてもらったので、あのスリルが蘇るようだった。一方、こんな映画が世に出るくらいだから、もう、カード・カウンティングは過去のものになりつつあるのかも知れない。


 カード・カウンティングが難しくなっている理由は、6組ものカードを使い、かつ、それらを使い切る前にシャッフルするテーブルが増えているからだ。去年の冬も、2組のカードをほぼ最後まで使うルールのテーブルを探すのは苦労した。理論上、残りカードの数が少なければ少ないほど次のカードは予見しやすい。一方で、6組のうち例えば5組目あたりでシャッフルされてしまうと、仮に残りのカードがある程度予見できたとしても文字通り振り出しに戻ってしまう。
 カード・カウンティングの観点から、映画で明らかに描かれなかった部分は残りカードの「プラス」あるいは「マイナス」度合いに応じて掛け金を上下させる部分だ。この振れ幅が大きければ大きいほど「マイナス」の回で見送るときの損失は小さく、「プラス」の回で狙うときの利益は大きくなる。そしてもちろん、この振れ幅が大きければ大きいほど、それだけの理由でカジノの注目を集めてしまう。この部分は意図的に描かれなかったようだ。
 ソニー・ピクチャーズ作品で、かつて資本関係のあったカジノ、MGMグランドの商売に障るような細部までをもわざわざ描こうとはしなかったのだろうか、と邪推してしまう。もちろん、娯楽映画としてカード・カウンティングの詳細に深入りする意味がない、というのも道理だろうけれど。一方、豪華なスイートが描かれるプラネット・ハリウッドの経営にはシルヴェスター・スタローンやブルース・ウィルスも関与しているようだから、プロダクト・プイスメントにはハリウッド人脈が関係しているのかも知れない。
 おっと、映画のツマラナイ方に話が逸れてしまった。オモシロイ方は、数学の天才がカジノを「やっつける」ことにある。僕たちは誰しも、「カジノには勝てない」と、経験的あるいは数学的に知っていて、そのくせいつもカジノのカーペットを歩くと「今回は勝てそうな気がする」と思ってしまい、そしてさらに「経験」だけが増えていく。その積年の思いを映画が晴らしてくれるのだから、それはいくら陳腐でも痛快だ。負け犬根性丸出しで僕はMITの天才に思いを託してしまう。
 とはいえ、一番グッとくるのはやはり、ラス・ヴェガスの劇場性だ。冴えないオタク青年が名うてのギャンブラーになることすら、普通の女子大生のヒロインがゴージャスな女に変身する様子にくらべたら、まったく取るに足らない。今月僕らはサン・フランシスコから国立公園めぐりをした末に、ラス・ヴェガスに行こうとしている。僕は荷物になるから靴はトレッキング・シューズとサンダルだけでよかろうと思っていたけれど、この映画を観て、わざわざイチゴ抜きのショート・ケーキみたいなことをするのは馬鹿げていると悟った。
 テントと折り畳みイスですでに制限一杯の重量が超過しようとも、革靴とハイ・ヒールと、それに似合う服を持っていくべきなのだ。そしてシルク・ド・ソレイユを観たあとはクラップスをするのがいい。見た目は派手に、リスクはほどほどに。そして、ラス・ヴェガスを飲みつぶせ!

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てにどう「心優しき野郎ども」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/29/231551 http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/29/231551#comments Sun, 29 Jun 2008 14:15:51 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/06/29/231551

 中野の小さな劇場へ、芝居を観に行く。小劇場での観劇は昨年10月の東京イボンヌ「無伴奏」ぶり。下北沢のバーで演劇関係者に「彼らのシチュエーション・コメディはいい」と勧められるままに、数週間後にこうして劇場を探しながら中野の路地裏を歩くのもなんだか酔狂だ。けれど、酔狂とはいいつつ、自らも演じる目の肥えた人たちの勧めに従っただけだから、この芝居を楽しんで帰ったのは当然といえば当然の結果なんだけれど。


 離婚したばかりの傷心の男たちが共同生活を送る。これが「心優しき野郎ども」のシチュエーション。ちょっと冗長に感じるところもあるにはあったけど、場面場面がサーヴィス精神に富んでいて、心が舞台に吸いつけられてしまう。動きであったり、言葉であったり、あるいは歌であったり、遊び心が楽しい。そして、その瞬間瞬間の遊び心が離婚という通底する悲痛なテーマを却って浮き彫りにして、このコメディをあくまでも人間ドラマとして提示する。
 コメディといっても浮薄ではなくて、人間ドラマといっても辛気臭くない。観始めてすぐ気付くこのバランス感覚が、慣れない小劇場でともすると身構えてしまう僕を安心させてくれる。そして、この芝居はそのリラックスした雰囲気のままにフィナーレまで僕を心地よく連れて行ってくれる。舞台には「フィガロの結婚」のような華やかさも、「タンホイザー」のような深刻さもないけれど、手を伸ばせば届くような距離で、身近にすら思える俳優たちが等身大のテーマを演じている。この距離感、探すとなるとなかなか得難いかも。
 次回公演は来年というのが随分と先だけれど、ともかくアンケートに住所を残して次回公演の案内を楽しみにするとしよう。

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愛の港に平和を求めよ - 英国王立歌劇場/ヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/09/000548 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/09/000548#comments Fri, 09 May 2008 05:05:48 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/09/000548

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 ロンドンに着いて会食の予定を最終確認し、空き時間を確かめる。泊まっているコヴェント・ガーデン(Covent Garden)は劇場街だから、オペラを観よう。王立歌劇場のサイトを見るとヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」という作品が上演中で、座席も僅かに残っている。50ポンドの桟敷席を見つけて早速予約する。そんなび込み観劇ながら、話の筋も音楽も素晴らしかった。男子の権力闘争と女子の愛。平和は愛の港にこそあるんだよね。


 この作品について僕は何も知らなかったから、チケットを買うなりネットで検索して、まずは次のようなサイトを読み込む。

オペラ・データベース
hasidaの部屋
オペラの合唱曲

 読んでふと感じたのは、話が一見複雑で、劇場で理解できるだろうか?という不安。それは杞憂に終わるのだけれど、予習をしたときは、平民派だとか貴族派だとか、実は娘でしたとか実は孫娘でしたとか、なんだかヤヤコシそうな印象を受けた。
 杞憂といえば、笑い話のようなものがもうひとつ。劇場で、字幕表示装置が見当たらない。僕は焦って、イギリス人はイタリア語だけでオペラを観る/聴くのかと面喰ってしまった。はじまってみれば舞台の上部に英語字幕がちゃんと表示されたんだけど。こういう時は、フランクフルトの劇場で英語・ドイツ語の字幕があったことなど、すっかり忘れてしまっているのだ。
 芝居は軽快なテンポで進んで、飽きさせない。戦争だとか政争だとか、この物語に出てくる男子は老いも若きも好戦的だ。それは現実に男子がそうであるのと同じように。「女は子宮で考える」なんて言ったりもするけれど、そういう意味では、それほど生産的な思考器官がない男子は、得てして不毛ないざこざに血道を上げがちだ。それを救ってくれるのが女子だ。いつもように。
 行方不明だった私生児のヒロインが現れて、それぞれに政敵である彼女の祖父と父、そして彼女の恋人とを和解に導く。それを歌ったのが彼女だったか彼女の母だったか忘れてしまったけれど、「愛の港に平和を求めなさい(Seek peace in harbor of love)」とヴェニスの男子たちに歌った歌が印象的だ。男子は馬鹿な航海が大好きだけれど、本当の平和、あるいは安らぎというものは港にしかない。その港はまさに、愛と呼ぶほかない。
 たとえば騒乱のシーンなど、ヴェルディの音楽的な盛り上げ方は観る者をぐいぐいと引き込んでいく。上述の通りオペラの常として設定としてはリエナイ理を感じるけれど、心情劇としては血が滲むほどリアルだ。甘い恋愛劇に渋い政争劇を重ねたことで、ティラミスのようなバランスが成立していて、そのことで愛の甘美が劇的に際立っている。
 感極まって終劇に僕はシモン役に「ブラヴォー(Bravo)」の最上級「ブラヴィッシモ(Bravissimo)」を浴びせていたのだけれど、それを聞き逃さなかった隣の老婦人は「そうよ、そうよ(Si, Si!)」とイタリア語で賛同してくれた。この老夫婦は先月イタリアに行ってヴェルディ作品を初演したパルマの劇場などを観てきたそうで、かなりのオペラ好きのようだ。
 その老婦人には「東京でもオペラをやるのか?」と訊かれた、「やるよ」と答えたら、「それは西洋のオペラか?」と念を押された。彼らは教養人と見えるから、これは別に「日本人もフォークを使うのか?」という質問とは同列ではないだろう。単に、オペラは極めて西洋独特だろうという認識の現れだろう。「ロンドンの柔道ってレスリングじゃないよね?」という確認なら僕もしてしまうかも知れない。
 論より証拠ということで、僕は「先月、小澤征爾の指揮で『エフゲニー・オネーギン』を観ましたよ。」と言ったら、なるほどと納得していた。司馬遼太郎式の分類でいう特殊の「文化」も、それでいて、なかなかに浸透するものなのだ。この老夫婦だって、観劇前には寿司を軽くつまんで来たのかも知れない。
 話を戻す。平和は愛の港にある。いま僕はヒースロー空港のラウンジで出帆を待っているけれど、ここにあるのもので僕を慰めてくれるのはビールと稲荷寿司くらいだ。東京の平和の港に早く帰ろう。

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コヴェント・ガーデン王立歌劇場 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/08/231927 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/08/231927#comments Thu, 08 May 2008 14:19:27 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/08/231927

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 空き時間ができた。絵画を愛する上司は国立美術館に、歌劇をかじる僕は王立歌劇場に行く。1週間ほど前にニュー・ヨークのキャバクラでオレンジレンジを歌いながら半裸になっていたのと同じ組み合わせだけど、守備範囲の広さが売りなのです。さて、王立歌劇場。歌劇そのものの話とは別に言及したくなるほど、素晴らしい劇場だった。多くの歌劇場を知っているわけではないけれど、ダントツの予感。


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 1990年代に建て直されたというこの歌劇場、公共空間の広さと食堂の充実に圧倒された。巨大な吹き抜けの下がバーになっていて、僕は「なるほど、ここがバーか」、と覚えてエスカレーターを登る。すると、吹き抜けの中段に設けられたレストランを通り過ぎる。これに限らず、レストランはいずれも白い木綿のテーブル・クロスがかかった立派なものだったと思う。エスカレーターを降りると、桟敷席の階にも広いバー・カウンターと、さらに別のレストランがある。
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 屋内だけでなく、屋上にもテーブルが用意されていて、こちらはテーブル・クロスなしのアルミニウムの簡易のものだけれど、木製のデッキに並べられていて気分がいい。コヴェント・ガーデンが見下ろせて、下から「スタンド・バイ・ミー」なんかを演奏するパフォーマンスが聞こえてきて、遠くに目をやればテムズ側南岸の大きな観覧車が、そして、トラファルガー広場のネルソン記念柱が見える。
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 遠景ばかりではない。目を内側に向ければこのバルコニーからは歌劇場の衣装室が見えて、大量のドレスと裁縫用のトルソーたちが見える。常に舞台裏を見せるのがよいとは思わないけれど、僕は今さらながら手芸の晴れ舞台としての歌劇をも感じ、あらためて総合芸術としての歌劇としての愉しみを覚える。これは言わばガラス工房の横でワイン・グラスを求めるような、そういう興奮なのだ。
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 あるのはガラス工房ばかりではない。館内をうろうろ歩いていて、僕はワイン畑にも出くわす。この王立歌劇場は英国王立バレエ団の本拠地でもあるとは階下で知ったのだけれど、桟敷席のさらに上の階にはバレエの練習場があった。ドアのフィルムの破れ目から、10代と思しき子どもたちがピアノに合わせてバレエの練習をする様子が見える。彼らこそが、未来の熊川哲也であり、シルヴィ・ギエムなのだろう。
 観劇にまつわるインプットは主にふたつあって、ひとつは食事と酒、ひとつは周辺の物語だ。各階ごとにあると思われる充実したレストランとバー、そして建物を覆う舞台芸術の守護者としての1世紀半の矜持が、座席に向かう僕の気持ちを満たしていった。

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映画「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」 - 神と我が正義 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/08/230350 http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/08/230350#comments Thu, 08 May 2008 14:03:50 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/05/08/230350

 ロンドンに向かう機内で、映画「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」を観る。「母べえ」のあとに観たから予算規模の違いとともに、戦争に向かう機運の違いが際立つ。日本とアメリカ、第二次世界大戦と冷戦、庶民と議員の違いは大きいからそれは単なる印象に留めておくけれど。もちろん、イギリスとアメリカとを混同するつもりもない。けれど、「チャーリー・~」が描くアフガニスタンへのアメリカの関与を説明するのは、「神と我が正義(そして権利)」という気分が、あるいは近いかも知れない。そんなことをふと思う。

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男子よ、王子たれ - 映画「魔法にかけられて」 http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/28/041006 http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/28/041006#comments Sun, 27 Apr 2008 19:10:06 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/28/041006

 ニュー・ヨークからの帰りの機内で観たディズニー映画「魔法にかけられて」に感動。「アルマゲドン」、「ハービー」、「カーズ」に続く機内ボロ泣き映画。この4作、いずれもディズニー系作品なのは偶然? ともあれ、おとぎ話の普遍性と全女子のお姫様性を思う。(以下、ネタバレあり)


 ちょっと話は変わるけれど、音楽評論家の江藤光紀氏はある日の日経新聞に、東京のオペラの森の「エフゲニー・オネーギン」について、次のように書いていた。

舞台を現代に移すなら、残されたオネーギンの悲哀だけではなく、この選択の今日的な意味も示してほしかった。

 僕が違和感を感じたのは、物語に「今日的な意味」など必要なのか、さらには、そもそも特段「今日的な意味」なんてあるのか、と思ったからだ。だから、「魔法にかけられて」で誇らしげに掲げられた、プリンセス・ストーリーは「今日的にもなお同じ意味を持ちづづける」、というディズニーの矜持は僕には痛快に思えた。
 森で動物たちと仲良く暮らす女の子が王子様に見初められるんだけど、意地悪な魔女が彼女を呪って…というのはお決まりの話だ。けれど、その哀れなお姫様が送り込まれたのは現代のニュー・ヨーク、というのが新しい。数時間前まで自分がいたタイムズ・スクウェアを画面で見るのも、なんだか楽しい。
 魔女によると、ニュー・ヨークは「幸せに暮らしましたとさ(they lived happily ever after)」が存在しない場所だという。ドレスのお姫様に優しくする人はいないし、おまけに彼女は浮浪者にティアラを盗られちゃうし、ヒロインの離婚弁護士(!)には頭のおかしい人だと思われる。おとぎの国のお姫様は、マンハッタン的な文脈ではいかにも滑稽で不憫だ。けれど、彼女はめげない。そして最後に「永遠の愛のキス」を受ける。
 こんなディズニーのセルフ・パロディは、しかし、おとぎ話を逸脱しない。おとぎの国の文脈でも、マンハッタンの文脈でさえも、おとぎ話は普遍的に成立することを、あるいはらはれを成立させられることを宣言する。特に感心したのは、キャリア・ウーマンのナンシーにもハッピー・エンドが用意されていたことで、「幸せに暮らしましたとさ」に対するディズニーの深い愛情を感じた。
 ともするとおとぎ話の雰囲気を空々しいものにしてしまう実写を、おとぎの国の文脈からの乖離を示すために使っているのは確信犯的だ。どんな皮肉な結末になるものかと意地悪な気持ちで見ていたとしても、あるいは、そうであるほど、ディズニー的な結末の感動が大きいかもしれない。もっとも、僕は途中でプリンセス・ジゼルの応援団に回ってしまったので、こうして振り返るのみだけれど。
 さて、おとぎ話の普遍性を認めるならば、全女子のお姫様性から目を逸らしてはフェアじゃない。ジゼルはもちろん、ナンシーさえも実はプリンセス・ストーリーを生きるのであって、マンハッタンは単に彼女達のお姫様性が発露しづらい文脈であるだけなのだ。キャリア・ウーマンかお姫様か?という選択は位相が誤っていて、お姫様は「ウーマン」の部分に内包されている、というのがこの物語のもうひとつの切り口だ。
 そもそも、プリンセス・ストーリーはそれを読む女の子たちすべてを「お姫様」にする。けれど、事実として年齢とともにだんだん「お姫様」になりにくくなるので、敢えてバツイチ子持ちの離婚弁護士とつきあうキャリア・ウーマンのナンシーを登場させたのだろう。「お姫様」として。マンハッタンという過酷な環境は、とはいえ、お姫様性を拒むわけではないのだ。
 じゃあ、お姫様性を誰が拒むのか、というのが自ずと出てくる次の問いだ。その問いへの答えは明確に用意されている。それは、男子だ。姫に出会っても、弁護士は「頭のおかしい人」と決め込んでしまうことで逃げ、エドワード王子は「一緒に歌っていない」という形式論で逃げる。世の女子にお姫様性が減っているとしたら、それはひとえに男子の責任なんじゃないか。男子よ、強くあれ、王子たれ。なんて。
 唯一の失敗は、僕がこの映画を観始めるのが早すぎたことだけだ。機内の照明が落ちる前に観終わってしまったので、僕はグズグズと涙を毛布で拭いながら夕食を供されるハメになってしまい、とにかく格好が悪い。王子はまた今度にしよう。照れ隠しに乗務員に「『魔法にかけられて』って本当にいい話ですよ」なんて勧めてみるものの、あまりフォローにはならず。けれど、本当にいい話ですよ。

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ニュー・ヨーク・フィルハーモニック 第14,616回公演 http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/25/210050 http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/25/210050#comments Fri, 25 Apr 2008 12:00:50 +0000 Syntax http://www.thesyntaxerror.net/2008/04/25/210050

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 午後6時半、打ち合わせを終えた僕はホテルで上司と別れ、いそいそと北を目指す。目指すはリンカーン・センターでの、ニュー・ヨーク・フィルの演奏会。ピアノのマルタ・アルゲリッチ(Martha Argerich)が体調不良のためお休みで残念だったけれど、マンハッタン最後の夜を楽しむ。(写真は練習風景)


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 もともと2泊の予定だった出張を、こちらに着いてから仕事の都合で1泊延長。こうして突如生まれた新たな一晩を、どう過ごすか考えるのは楽しい。ブルックリンでのポール・サイモン(ニュー・ヨーク的!)のコンサートがまず目にとまったけれど、こちらは残念ながら売り切れ。そこで趣向を変えてニュー・ヨーク・フィルの演奏会に行くことにする。
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 当初ピアノを弾く予定だったアルゲリッチは体調不良のためお休みで、代わりはアンドレ・ワッツ(Andre Watts)。指揮はシャルル・デュトワ(Charles Dutoit)。曲目は次の通り。

モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」序曲 作品492
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第1番 ハ長調 作品15
ラフマニノフ 交響的舞曲 作品45
ラヴェル 「ラ・ヴァルス」

 「フィガロの結婚」序曲が燦然たる幕開けとなって、いやがうえにも盛り上がる。そこでベトベン。時差ボケの脳味噌に快楽の波状攻撃を受けて、僕は最前列で寝てしまった。まったく不本意なことに。ただ、僕は寝惚けた頭で、ピアノ協奏曲第1番はなんだか昼下がりのセックスに似てるなぁ、なんてことを鮮明に思った。
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 後半は眠気も吹き飛ぶ刺激的な曲目で、なんといってもラフマニノフの近代的都会的な音楽はこのマンハッタンに抜群に似合う。交響的舞曲では、アルト・サックス、ホルン、トランペット、チューバといった管楽器が登場して、映画音楽のような興奮をもたらせてくれる。「パイレーツ・オブ・カリビアン」のワン・シーンを思い出させた部分があったのだけれど、それはどこだっただろうか。
 最後を飾った「ラ・ヴァルス」には心を掻き乱すものがあった。冒頭のコントラバスからして不安な予感を与えるけれど、極めつけはなんと言ってもフィナーレだ。パンフレットにも「暴力的で脅迫的で苦々しい結末の残酷さには衝撃を受けるだろう」と書いてあったけれど、その警告もいまでは虚しく聞こえるほど、僕はそのフィナーレびっくりした。
 このショック状態のまま立派なコンサート・ホールから夜のブロードウェイに放り出されるのは、それでいて、なんだか痛快な気分でもある。全身の毛穴が開いたところに、イエロー・キャブのクラクションが押し込まれる。果たして、きょう僕は本当に「クラシック」のコンサートに行ったのだろうか? この刺激的な後味、大きな収穫だ。

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